滝川さり「ゆうずどの結末」(角川ホラー文庫)感想
65 ゆうずどの結末
(滝川さり/2024年2月/角川ホラー文庫)
今回は初企画、ホラーを取り上げます。
文庫本に、真っ黒なカバーで白抜きのデカ文字。「この本を、絶対に人から借りないでください。」。ひえっ。怖。
何かのフェア中であるらしく、臨時の追加カバーのようです。外すと、本来のカバーが。
仕事帰りの、駅ナカの本屋さん。妙に、しみましてね(笑)。サラリーマン生活の雑事から、ちょっと現実逃避をしたかったのかも。
(不謹慎かもだけど、呪いで仕事行かずに済んだら、それも悪くないかなア、なんて。人間関係の面倒くささの方が、ホラー作品なんかより、よっぽど恐怖だよネ。苦笑。)
本書は、短編6本のオムニバス形式。
いずれも、「ゆうずど」という本にまつわる話。
最初の短編では、待合室で読んだ「ゆうずど」を、その場で返したはずなのに、持ち帰ってしまう主人公。
何度返しても、捨てても、自分のもとへ戻ってきてしまう。
これは、全ての話に共通する「ゆうずど」のルールです。
他には、
・挟まれた黒い栞が勝手に進む
・やがて、紙を全身に貼り付けた怪物女が、自分にだけ見えるようになる
・最終章には、自分の名前が出ており、死因が書かれている
・「ゆうずど」を一回でも読んでしまったら、死への呪いにかかる(上記の死因を読まなくても関係ない)
・「ゆうずど」は、以前から世の中に存在し、知る人ぞ知る「呪いの本」として一部で語られている
といった決まりがあります。
最初の方の短編は、呪いの不気味さ・理不尽さが強調されていて、夜中に一人で読んでいると、「今、俺が読んでる本が、まさにこの『ゆうずど』だよな? ひょっとして、捨てても戻ってきたり、最終章に俺の氏名が出てたりしないよな……?」などと、ほんのり恐怖感に襲われもしました。
フィクションと現実との、境界線が溶けてゆく怖さ。
しかし。
「第二章 牧野伊織」を読んだ時、その気分は変わってしまいました。まあ、良くも悪くも、ですけどね。
これは、オカルト好きの学生主人公が、同じ女子高生オカルトマニアと、SNSで交流する話。
もしかして、相手は女子高生なんかじゃなくて、なりすましの怪しいおじさんかも、などと疑いつつも。
交流するうちに、お相手の「女子高生オカルトマニア」が、何と「ゆうずど」を持っていることを知り、郵送で貸してもらうことに。
すると……。
この話には、意表を突いた結末が用意されていて、びっくりしました。もう、見事としか言えない。読み返したら、伏線が何本も張られていて、二度びっくり。
ただ、一方で、当初の怖さは薄れてしまったのでした。
なぜなら、このオチには、プロ作家が計算ずくで考え抜いた技巧を感じさせられたからです。
ああ、本書は決して、呪いの本なんかじゃない。プロの作家、編集者らが作り上げた、ヒット狙いの商品なのだ。
そのことに気づかされ、私は我に返ったのでした。化けの皮がはがれた、というか。
次の「第三章 藤野翔太」も、同様に、技巧派の名短編。
小学校でいじめを受けている少年二人組が、いじめ加害者のクラスメイトたちへ復讐するために、「ゆうずど」を図書室で探す、というストーリー。
いじめられる二人は親友同士なのですが、生活環境や性格に微妙な違いがあります。
その違いが、衝撃の結末につながります。余りのショックに、私は翌日になっても、何回も思い出しては、呆然と考え込んでしまったのでした。
はっきり言って、この短編に出てくる「生きている人間の恐ろしさ」に比べたら、ゆうずどの呪いなど、すっかりかすんでいましたね。本当に怖かった……。
このあとにも短編は二つ続きますが、第二章、第三章を超える驚きはありませんでした。
最終章には作者自身が登場し、この本の「本物ぶり」を改めて強調し、演出していましたが、もはや、今さら感すら漂います。若干、蛇足というか、水増しみたいに思えてしまった。
当初は、理屈抜きの怖さで進めたのに、途中で「理屈あり」へと転向。
だけど、転向しておきながら、再び「怪異」を強調されてもね。この本は、既に「怪しさ、得体の知れなさ」は少なくなっています。一度「消毒」された以上、もう、最初のテンションでは読めないです。
終盤で、怖さや緊張感が緩んでしまったのが少々残念ではあったものの、とはいえ、全体としては、どの短編も良く出来ており、面白く読みました。
それとともに、ああ、超常的な恐怖と、作り手のサービス精神というのは、両立・共存し得ないものなのだな、と気付かされもしたのでした。