北方謙三「檻」(集英社文庫)感想
59 檻
(北方謙三/1987年3月/集英社文庫)
今回取り上げるのは、ハードボイルドです。
もはやラノベとは正反対な感じですが、なかなかどうして、「やたらと強い主人公」とか、「割と簡単に美女と仲良くなる」とか、ラノベと似たところも。
考えてみると、「男性読者を気持ち良くさせる」という目的自体は同じですからね。
本格的なハードボイルド小説を読んだのは初めてですが、何だか、構造がポルノ小説と似ているなあと思いました。
普通の日常では余り起こらないことを、あえて頻繁に起こすという意味においては。
普通の小説なら、作中に性行為の場面は全く出てこないか、出てきても少しだけです。
でも、ポルノ小説には、性行為シーンが頻繁に出てきます。そして、それ以外の場面は、性行為の場面同士の「つなぎ」でしかない。
ハードボイルド小説は、この性行為シーンが、暴力シーンに置き換わっただけ。
とにかく、出てくるのは、殴る蹴る、刃物で切りつける、ピストルを撃つなどの暴力場面ばかり。その他の場面は、やはり単なる「つなぎ」にすぎないのです。
(たった一作読んだだけでハードボイルド全体を語るなよとお叱りを受けるかもしれないけれど、この作品はハードボイルドの代表的な傑作と評価されているようなので、この際ゴメン。)
「檻」は、冒頭から、主人公・滝野和也が、男を車で外へ連れ出し、いきなり殴る蹴るの暴行を加えます。
滝野は小さなスーパーマーケットの(今のお若い人はピンとこないかもしれませんが、コンビニみたいな物です。この小説が書かれた1980年代には街にたくさんありました)店長で、要は一般人です。
また、何十年も我慢してきた末に一大決心をして暴力に及んだという感じでもないし、緊急的な正当防衛でもない。ごく普通に、積極的に暴行を働いています。
それは、この後にも定期的に続きます。
読みながら、おいおいと私は苦笑してしまいました。
日本の社会において、普通の人が日常生活でこんなにしょっちゅう他人に暴力を振るったら、目立つし、騒がれてあっさり警察沙汰でしょと。
とても、スーパーマーケットの経営なんて、やっていられるわけがないですよね。
しかし、やがて、これは元々そういう小説なんだと私は気付いたのでした。今さらながら。
暴力の場面を定期的に入れることは前提条件。あとは、その前提を崩さないで済む範囲内で、いかにリアリティーを少しでも高めるか。そこがポイントなのだなと。
そう考えたなら、主人公・滝野の周辺には、暴力シーンの発生要素が幾つもちりばめられています。
それらに、果たしてどれほどリアリティーがあるかは微妙ですが、暴力シーンを先に配置した上で、後付けの理屈で考えたにしては、よく出来ていると思いました。
まず、滝野のスーパーマーケットの建っている土地にはいわくがあり、闇組織の怪しい思惑が絡み合っています。
また、滝野自身も、実は裏社会の組織にいたことがあり、当時の相棒とは今でも付き合いがあります。
それから、滝野には愛人もおり、愛人も裏社会と関わりがあるのです。
さらに、滝野は刃物を用いた格闘に長けていて、その強さは警察でも伝説となっているほどです。
これらの設定を順番に切り出していくことによって、物語では常に暴力・戦闘が絶えることがありません。
私は、5か月くらいを掛けて、400ページ弱のこの分厚い本を少しずつ読み進めたのですが、どの場面も緊張感とスピードに満ち、全く退屈しませんでした。
なるほど、絶賛されてきたのもうなずけます。
ただし、今後もこういうジャンルを積極的に読みたいかといえば、私はそうでもないですね。
実は昔ワルだった俺。立場は変わっても、かつての相棒への義理を貫く俺。実は妻以外にも愛する女がいる俺。実はケンカが強い俺。コーヒーの飲み方、タバコの吸い方も渋い俺。
「さあ男性読者諸君、存分に自己同一化して気持ちよくなってくれたまえ」という作者の意図が見えてしまって、ちょっと鼻について、きついです。こういうのには、私は余りロマンを感じません。
それよりは、ラノベの世界に入り込んで、例えば美少女とまったり過ごす等身大の情けない俺、の方が好きですね。(これだって、形を変えた現実逃避、ナルシシズムだとは思うけれど。)
そして、実は、最近は私みたいなそういう中年男性が増えているような気もしています。
ひと頃に比べると、日本の男性たち(の憧れの世界)は随分ひ弱になったなあと思います。
一方、それに伴って、ギラギラした男性が減り、世の中の雰囲気も結構マイルドになったと感じるのですが、いかがでしょう。