人間道(後編)
ぽんっ
英子が思考に没頭していると、突然背後から肩を掴まれた。
「何してるの?」
ビクッと肩を震わせ、英子が恐る恐る後ろを振り向くと、その相手は眉を八の字に下げ、心配そうに英子の顔を覗き込んだ。
「学校、行ったんじゃなかったの?何かあった?」
英子の背後にいた男、英子の兄、康介がそこにはいた。
「え…っと、なんか、気分が乗らなくて…。……兄さんは?学校。」
しどろもどろに答えながら、兄が何故ここにいるのか英子は聞いた。
「ああ…今日は昼からだから。…それよりも気分が悪いなら早く戻って休みな?」
「うん…そうする。」
英子は一度安心したくてその提案にのり、康介と一緒にホテルに戻った。
「あ〜…不味いかもねぇ…。」
英子達が泊まるホテルの陰から男は英子達がホテルに戻った事を確認して呟いた。
ーーーーー
ホテルの部屋に戻った英子はふと、違和感に気づいた。
(あれ…?鞄………どうしたっけ?)
「そういえば…英子は事件当日のこと警察の人以外に話した?」
「?…話してないよ。…ああ、でも、田村さんには偶に聞いてもらってるけど…」
突然、康介に事件の話を振られ、訝しみながらも、鞄をどこに置いてきてしまったのかを英子は懸命に思い出していた。
「ふーん…」
だから反応などできなかった。
ゴッ
そんな事に気をとられていた英子は後ろから何かで殴られ、そのまま意識を失った。
ーーーーー
「ん……。あ、れ?」
英子はボソボソとした人の話し声で目を覚ました。
ボンヤリする意識の中で、『いつの間に寝てたんだろう?』と体を起こそうとして動かせない事に気づいた。
「…?!何っ…これ!!?」
ボンヤリした頭で英子は腕を後ろ手に縄で縛られ、両足も縛られた状態で床に寝転がされている事を認識した。
「あれ?起きたの?良かったぁ〜。生きてて。死んでたら人殺しになる所だよ。それにここじゃ処理が面倒だからね。」
そう言って笑いながら近づいて来たのは兄の康介だった。
「え…?兄さん?何?どういう…?」
「あはは。状況把握が遅いね。我が妹ながら残念だよ。」
英子は只ならぬ康介の様子に身体を震わせた。
『コレは誰だ』と。
「全く…手間を掛けさせてくれるよね。父さんと母さんと一緒に殺してあげようと思ったのに遅れて帰ってくるし、それならそれで放っておいてもいいかと思ったら何に気づいたのか知らないけどバレるしね。」
英子は兄の言葉に混乱しながらも、あの男の言っていた事を思い出していた。
「違っ…!!私は何も知らなっ…!!!」
「何も?ん〜…まあ、それでも邪魔だったし殺すけど。」
「っ!!!!」
英子は兄の言葉に混乱を極めた。
「…何で……?」
「何で?それは何で父さんと母さんを殺したか?それとも何でお前を殺すか?」
「…!!」
英子は心底楽しそうに嗤う康介を見ながら呆然としていた。
英子にとって兄は常に優しく、品行方正という言葉が相応しいほど大人しい人間であり、とても同一人物であるとは思えなかった。
そんな英子を置き去りにして、康介は続ける。
「ん〜?何でって言われるとウザかったから?…ああ、いや、やっぱり邪魔だったからかな?」
(やめてよ)
「わかるだろ?人のやる事なす事いちいち干渉してきて鬱陶しいことこの上ない。だから殺しを依頼したんだ。」
(そんな事言わないで)
「俺の人生にあいつらは要らないんだよ。ついでにお前もね。」
(そんな顔で…)
「これで俺は自由だ。」
(笑わないでよ)
慕っていた兄の言葉は英子の心を抉り、心底嬉しそうに歪ませた顔は英子の反抗する気力を削いだ。
英子は最早抵抗する気も、言い返す気も無くし、自分の心を守るため、自分の殻に篭るしか無かった。
ーーーーー
ピンポーン
ホテルの各部屋に付いているチャイムが鳴り、康介は眉を顰めた。
「何だ?もう来たのか?」
ゆっくり玄関に向かう康介を英子は虚ろな目で追いながら今までの事をまとまらない思考で振り返っていた。
(兄さんは父さんと母さんの事が疎んでいて、
私の事も邪魔で、だから二人を殺して、私も殺そうとしていて、それで…)
(私は何と無くその事に気付いていた。)
(だから私はバレないように周りを寄せ付けたくなくて、どうすればいいかわからないから八つ当たりして、それで…)
ガチャリ
「もう来たのか?」
康介は両親の殺しを依頼した相手に英子の事を頼むため連絡していた。その相手が来たのかと康介は扉を開けた。
(私の気持ちを理解してくれたから、)
「あんた…誰?」
康介の目の前には見知らぬ男が立っていた。
(私の願いを肯定してくれたから、)
ズプリ
「…は……ぁ?」
康介が気付いた時には自身の胸にサバイバルナイフが深く刺さっていた。
(だから、あの人に電話した。)
どちゃっ
康介は抵抗する間も無く大量の血溜まりの中倒れ、絶命した。
「あー…お嬢さん生きてるー?」
ーーーーー
英子は混乱していた。
目の前の男は何故ここにいるのか。
ここに何をしに来たのか。
そして、今何をしたのか。
その全てを処理しきれずに英子は考えがまとまらないまま声を出した。
「あんた何でっ…!何っ…!!何なのっ…!?」
「あー…うん、落ち着こうか、お嬢さん。」
そう言われても、英子は目の前にいる男が冷静に話せば話すほど恐慌状態に陥ってしまう。
一方で、男は何を考えているのか、考えていないのかわからないヌボーっとした顔で英子を眺めていた。
「こんなっ…!!何がっ……!!!……!!」
「あー……ひとつずついこうか。ひとつずつ。」
男は埒が明かないな、と思い、ストップをかける。
「まずは、何でここに居るかって言うと、お嬢さんのお兄さんが怪しいなぁ〜ってホテルを見張ってたら何か二人で戻って来て、お兄さんがちょっと危なそうな雰囲気だったから突入したんだよね。」
「はっ?!!」
英子は男の言葉にまた処理が追いつかず、間抜けな声しか出せなかった。
そんな英子を無視して男は続ける。
「で、何をしたかって言うとお嬢さんのお兄さんをこれで刺しました。」
「刺し…」
男は右手に持ったサバイバルナイフを摘み、顔の横でプラプラさせながら、左手の指でナイフを示した。
そのサバイバルナイフはベッタリと血が付いており、よく見ると、そこから、男の腕、身体、顔と血がついていた。
英子は今の状況も忘れ、兄への心配が口に出た。
「こ…ろしたの?」
「殺したよ。」
何の気負いもなく言い放った男に英子は憤慨した。
「何でっ!!何でそんなっ…!!!」
男はゆっくり首を傾げ、心底不思議そうな顔を作って英子に問いかけた。
「何でって…お嬢さんが望んだ事でしょ?俺はお嬢さんの願いを叶えてあげただけだよ?」
「違うっ!!!!!」
英子は反射的に叫んでいた。
男と交わした会話を思い出しながら、英子は男を睨みつけて叫ぶ。
「私はっ!!こんな事…こんな結末望んでない!兄さんが死ぬなんて望んでない!!」
「…」
肩で息をしながら睨みつけてくる英子を男はゆったり見つめて嗤った。
そして、一言投げかける。
「本当に?」
一瞬の静寂の中、呆気にとられた英子は先程よりも強く睨みつけ、男に噛み付いた。
「当たり前でしょう!!殺人犯だったとしても私にとっては大切な家族なのよ!!死んで欲しいなんて思う訳ない!!!」
英子は焦るように、まるで言い訳をしているかのように、叫んだ。
そんな英子に嗜虐的な笑みを浮かべて、男は英子との距離を詰めて言った。
「けれどお嬢さん。あんたは俺に言ったじゃないか。『犯人を殺してくれ』ってね?」
「それは…!そんなの兄さんだなんて…」
反論しようとした英子は先ほどの自分の思考を思い出し、だんだんと青ざめていった。
そんな英子を楽しそうに男は追い詰める。
「いいや?お嬢さんは知っていたはずだ。数日前から調べ初めた俺ですら気づいたんだ。あんたの兄貴が犯人だって」
「違う!!!!!!」
英子は男の言葉をかき消すように叫んだ。
「違う!!違う違う!!!!私は…!私は!!」
何の言葉も紡げず、ただ違ういう言葉を繰り返す英子に男はトドメとばかりに言葉を放った。
「つまり、お嬢さんは願ったんだ。
『兄を殺してくれ』
ってね。」
英子は男の言葉に何かが壊れたような音を聞いた。
ーーーーー
男は自らの足元で蹲り、壊れたように「違う」と繰り返す英子を見てため息を吐いた。
(うーん…。やり過ぎたか。精神を壊さない程度に調節したはずなんだけど。)
男は喉に手を当てて「あーあー」と声を調整し、英子に一言声をかける。
「そうだね。」と。
すると不思議な事に英子はうわ言のように呟くのをやめ、静かになった。
そんな英子を見やりながら男はもう一度ため息をついた。
「言霊、ですか…。」
誰も居なかったはずの背後から男は声をかけられた。
「ああ、やっと来た。待ってたよ。」
不意打ちで声をかけられたはずの男は特に驚きもせず、背後にいる人物に話しかけた。
男は振り返り、眼前の人物に嗤いかける。
「英子さんの鞄を届けに来ただけなんですが…康介さんは玄関で倒れているし、英子さんは……。」
男に話しかけた人物、田村紅は痛ましげに英子を見やり、次いで男を睨んだ。
「貴方は何者…ああ、いえ、何ですか?」
田村は男が何者か分かっているかのように問いかけた。
問いかけられた男は嗤いながら舌を見せつけるように出し、その問いに答える。
「外道」
男が出した舌には円環を六分割し、それぞれの枠に違う未完成の絵柄が刻まれていた。
「やはり…英子さんから感じた気配は貴方でしたか。」
田村はそれで全てを理解したといったように目を瞑った。
「外道…輪廻の輪から外れた穢れた魂…その醜く歪んだ魂は矯正され、浄化され、輪廻の輪に戻されなければならない…。」
そう呟いた後、田村の身体から後光が差し、みるみると姿が変わっていった。
妙齢の女性の姿から若い女性の姿へ、見た目も平均的な日本人顔から人外の美貌を持った女性になった。
その顔はスッとした鼻筋、艶やかな唇、長い睫毛に覆われた黒く大きいであろう瞳を半分伏せ、その瞳には不思議な光が宿っていた。
長く美しい黒髪を後ろで一房に結び、その黒髪が映えるように肌は白く、スラリとした肢体は女性らしさを底のわない起伏があった。
そんな美貌の女が男の前に立っていた。
男はそんな女に目を奪われるでもなく、驚愕を示すわけでもなく、ただ観察する様に女を見ていた。
「…やっぱり……あんた地蔵だね?」
「…」
男の問いかけを女は黙殺した。
そんな女の態度に男は肩を竦めた。
互いに相手の出方を見ながら膠着状態が続く中、女がチラリと英子を見てから口を開いた。
「…貴方は何故、この様な事を?目的は何でしょうか?」
「何故?外道の目的を聞くんだ?流石お地蔵様。慈悲深いねぇ…。」
男は女の質問を嘲る様に嗤いながら言った。
そんな男の様子を気にすることもなく、女は続けた。
「外道の目的は解っております。」
そう言って女は自らの左腕を引きちぎった。
すると引きちぎった女の腕が見る見るうちに変化し、手のひらに収まるほどの大きさになった。
それを確認してから、女が腕の取れた左肩を手で撫ぜると、腕が再生する。
男は女の行動にも、目の前で起こった出来事にも特に反応せず、女の右手にある物を注視していた。
女は右手を開き、手の中にある物を男に見せた。
それは鍵だった。
歪な形をした鍵。
男はその鍵を見た瞬間今までの飄々とした態度を引っ込め、ウットリとした表情で言った。
「あぁ…それだよ……。」
女は男の様子にその鍵を見つめて言った。
「貴方がた外道に前々から聞いて見たかったんですが…
コレは何ですか?」
「…は?」
男は女の質問の意図がわからず、タップリ間を置いた後、間抜けな声を出した。
そんな男の反応を特に気にすることなく女は続けた。
「我々は輪廻の輪の循環を正常に保つため、輪廻の輪から溢れ落ちた外道の魂を浄化し、輪廻の輪の循環に戻す役割を担っております。その為にはまず、外道の魂を見つけ出す必要がある。ですが、数多の魂から見つけ出す作業は困難を極めます。それをより効率的に、迅速に進める為探すのではなく引き寄せる。コレはその為の装置…と、聞いております。」
女は鍵をチラリと見てから男に顔を向け続けた。
「ですが、何故、外道の魂がコレに魅かれるのか、どういった理由で欲しているのか知らされていないのです。ですから浄化して意識を消してしまう前に聞きたいのですが…どうかしましたか?」
女は話ているうちに男の様子がおかしいことに気づき、訝しんだ。
次の瞬間、男は
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!」
ワラった。
女は男の急に変わった様子に警戒を露わに問いかけた。
「何が可笑しいのですか?」
そんな女の問いかけが聞こえていないのか男は叫んだ。
「舐めてる!舐めてる!!!舐めてる!!!!!」
「外道を引き寄せる装置だと?そりゃあ警戒心うっすいわなぁ!!こんな風にノコノコ現れて目の前で鍵をチラつかせるよなぁぁ"!!!!俺達を…俺を舐めやがって!!必ずぶっ殺してやる!!!!!!」
男は憎悪をその眼に宿しながら何者かに怒りをぶつける。
そんな男に女はさらに警戒レベルを上げ、臨戦体勢をとった。
男は落ち着く為、一つ息を吐き、女に向き直った。
「…その鍵が何か、だったっけ?いいよ。教えてあげる。」
男は歪に口角を上げて女に語りかける。
女は男を警戒しながらも、長年の些細な引っ掛かりを解消出来ると軽い気持ちで耳を傾けた。
それは女の存在意義に一石を投じるものであるのに。
「それはね、鍵だよ。」
「輪廻の輪から外れる為の鍵。」
「輪廻から外れて羅刹へ到る為の鍵。」
「即ち、神へと到る為の鍵だ。」
女は男の言葉に呆然とし、己の手の内にある鍵を凝視した。
(外道の言うことだ、嘘の可能性がある、もしくは外道達が騙されている、だがもしそれが本当なら…)
女は驚愕と猜疑と不信の中で忙しなく頭を働かせながら、思わず疑問を口にした。
「何故…私達には知らされていない…?」
「決まっているだろう。面白くないからだよ。」
男は獰猛に嗤いながら女の疑問に答えた。
「知らせてしまってはお前達は死に物狂いでソレを護ろうとするだろう。それでは外道共には勝機がない。それではゲームが成立しない。ゲームは公平だから面白い。だから知らせないというハンデを課す。つまり、奴にとっては俺達もお前達も只の駒でしかないんだよ。心底腹立たしい事にね。」
「あり得ない!!羅刹様がその様な事をするわけが無い!!彼の方は世界の管理者、魂の調整者だ!!!その様な世界を、命を弄ぶ様な事をする方では断じて無い!!!!!!」
女は男の言葉に激怒した。
自らの主人であり、世界を統べるモノ、羅刹という存在は彼女ら地蔵にとっては何より尊く、絶対者である。
男の言葉はその存在への冒涜であり、侮辱であり、否定であった。
「羅刹様を貶めるその虚言!!許す訳にはいかぬ!!!貴様は此処で確実に消す!!!」
女は自らの胸に手を突き刺した。
女が自らの胸に突き刺した手を抜くと、その手には錫杖が握られており、その錫杖の切っ先を男に向けた。
男は女の行動にも動揺する事なく、ニヤリと嗤った。
女はそんな男の些細な動作にも殺意が湧き、さらに顔を険しくさせる。
「良いの?」
男は突然そんな問いかけをした。
「何の事だ?」
女は殺意を必死に抑えながら、男に問いかけた。
男はさらに笑みを深め、言った。
「彼女の事だよ。」
ハッとして、女は男の側にいる彼女、英子に目を移した。
「今このお嬢さんは壊れかけてる。思ったより言霊が効いたみたいでね。調整が難しいんだよこれ。」
アハハと笑う男に女は不快感を抱いき、すぐにでも浄化したかったが、英子の安全のためにも男の話を聞いてから、と我慢して続きを促した。
「まあ、つまりまだ壊れてはないんだよね。治すためには言霊を使うしかないんだけど…ああ、アンタが治せるなんて思ってる?無理無理。」
「外道どもに出来ることが我等に出来ぬと?くだらぬ。」
この時点で女は時間稼ぎの為の外道の戯言だと判断し、男をさっさと浄化をすることにした。
男は女の様子を気にも止めず、顔に亀裂が入ったような笑顔で話し続ける。
「アンタにはお嬢さんが欲しい言葉を与えられない。」
女は男の言葉に動きを止める。
「アンタも知っていると思うけど、言霊は使う相手の意に沿わない言葉を使ったところで効果は無い。かなり強力な思考誘導の能力、と言ったところかな。」
女は歯軋りをした。
男の言う通り女には英子を確実に救えるとは言えなかった。
「………貴方には…救えると?」
「救える。」
男は間髪入れずに答えた。
そこで女は『これは英子の心を人質にとった脅迫だ』と気づいた。
「…要求は何ですか……。」
男は楽しそうにニタリと嗤った。
「一つ、俺を今世は見逃すこと。
二つ、一週間は俺を警察に探させないこと。
そして三つ、
鍵を渡せ。」
「……………わかりました。」
女は男が外道であると忘れてはいない。
それでも英子が救えるなら、と男の要求をのんだ。
「OK!!契約成立だ。」
男は両腕を広げ、楽しそうにそう言った。
ーーーーー
女は田村紅に戻り、男もかるく返り血を部屋に備えつけのシャワーで流してからさっそく英子に言霊を使った。
男が英子の耳元で何事か囁くと、苦しそうに気絶していた英子は落ち着いた様子で眠りについた。
その様子を見張っていた田村は、英子にとりあえずは異常がなさそうだとホッと息をついた。
その瞬間ククッっと男が嗤った。
「……何が可笑しいのですか。」
やはり謀られたかと田村が思ったが男は田村にとって予想外の答えを返した。
「いや…可哀想だと思ってね。」
田村は驚いた。
外道に『可哀想』などと言う発想があったのかと、天変地異でも起こったかのような反応をした。
「ああ…本当に可哀想だよ……地蔵という存在は。」
男の言葉に意味がわからず、田村は訝しげに眉をひそめ、理由を問うた。
「何が…でしょう?」
「何が、と言うなら地蔵の存在が、かな?
聖人君子でいなければいけないから、見知らぬ誰かであろうと助けずにはいられないし、そのせいでこんな取引にも応じなければいけない。嘘をつけないから、さっきの約束も守らなければならない。俺なら、俺たちなら見捨てるし、見捨てないにしても治させた時点で殺してる。
そんな風に慈悲深く、潔癖でいなければならない何て不自由で憐れだと思うよ。」
田村は男の答えにますます眉をひそめた。
「それのどこがいけないのです。それが正しき魂の在り方であり、全ての魂が目指すべき場所なのです。寧ろ外道のような魂こそ哀れな存在でしょう。」
「そうかな?アンタはその正しさのせいで大切なものを守れないんだよ?」
男は嘲るような笑顔で田村を見つめた。
田村はそんな男を一瞥した後、英子に目線を移し、ふっと息をついた。
その様子に男は不思議そうに田村を見つめていると、田村が独り言のように口を開いた。
「…我々地蔵の役目は外道の魂を浄化し、輪廻の輪に還すこと、…外道以外の魂については守る義務はありません。更に厳密に言うのであれば、外道の魂の浄化の為ならば他の魂は放置すべきなのです。」
田村の言葉に今度は男が驚いた。
「つまり…取引をする必要は無かった、と?」
「いいえ。我々地蔵は修験者です。さらなる高みを目指すのであれば救うべきです。ただ、取引もするべきではなかった。どちらも守り抜くべきだったんです。」
「それは無理だと言ったはずだけど?」
「いいえ。」
田村の即答に男は困惑した。
「救えるって?ならやはり取引なんてする必要はなかっただろう。」
「ありますよ。」
「何故?」
「地蔵にとっての救済とは魂に対してであって、人間に対してではないんです。あの状態の英子さんの魂を救うのであれば命自体を終わらせ、修復するしかありませんでした。」
男は田村の回答に呆けた顔をした。
「アンタは…野田英子の魂ではなく野田英子本人を助けたかったと?」
田村は人間くさい笑顔でクスッと笑って男に近づいた。
「私は英子さんが小さな頃から家政婦としてお世話をしてきました。ですから、きっと、情が湧いたのでしょうね。地蔵失格です。」
クスクスと笑う田村と対象的に男は無表情になっていく。
「ですので、私にとってこれは必要な取引です。」
そう言って田村は男の手を取って鍵を渡した。
男はジッと手の中の鍵を見つめて言った。
「そんなことで渡していいの?もしも輪廻の輪を抜け出したら、俺は羅刹を殺すよ?」
「問題ありません。それこそ無理、と言うものですから。」
男は田村の言葉にピクリと眉を動かしたが、能面を保って言った。
「アンタ達にとってはそうなんだろうね。完全のモノにして絶対者。それでも俺たちは…少なくとも俺は絶対にアイツを殺すよ。どんな手を使ってもね。」
「…そうですか。」
田村はそれ以上何も言わず、英子の側に移動した。
男は一度目を瞑り、田村に背を向けたまま部屋を去った。