人間道(中編)
兄の待つホテルの部屋に戻った英子は兄以外の人がいる事に気づいた。
「田村さん!」
田村紅は英子達野田家の家政婦で、細い体型をしており、少し白髪の混じった長い髪を一纏めにして団子にしている中年女性である。
事件があってからは契約が切れているにも関わらず、二人を心配して度々様子を見にきてくれていた。
田村は英子の兄と向かい合わせで座っていたソファから立ち上がり、英子の前まできて言った。
「英子さん、おかえりなさい。お邪魔しています。」
「あ…えと、ただいま…戻りました。」
「英子!遅かったじゃないか。心配したんだぞ?何かあったのか?」
英子の兄は英子の側に寄り、英子の顔を覗き込んだ。
英子の兄は名前を野田康介と言い、短く切りそろえた黒髪に、切れ長だが柔らかい印象を受ける目をした好青年といった風貌をしている。
その兄の心配そうな顔を見て、英子は目をそらして答えた。
「…ホテルの前にマスコミがいて、逃げてたら遅くなっちゃって……ごめんなさい。」
康介はジッと英子を見つめていたが、ホッと息をついて言った。
「そうか…何も無くて良かったよ。でも、ここも出払いどきかな…。」
「でしたら、私が次のホテルを探しておきましょうか?」
「いや、田村さんにそこまで迷惑はかけられませんから…こちらで探しますよ。」
英子は二人の会話をぼんやりと聞きながら、さっきの怪しい男との会話を思い出していた。
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「取引?ははっ!バカみたい。」
「?何が?」
「どうせ私の要望を出来るだけ叶える代わりに情報よこせって事でしょ?今までの記者の人達も言ってきましたけど、するわけないでしょ。私の願いも叶えられないくせに!!」
「……」
英子は知らず知らずの内に血が滲むのではないかというくらいに拳を握り締めていた。
それは怒りからか、悔しさからか、それとも憎悪か、英子自身も分からないくらいに黒い靄の様なものが腹の中に渦巻いていた。
男は静かな表情でその英子の姿を見つめ、おもむろに口を開いた。
「因みに、お嬢さんの望みって何?」
男の何の感情も浮かばない声が不思議と自分が自分自身に問いかけている様に感じ、英子は自らの願いを口にしてしまっていた。
「犯人を…」
「殺して」
その言葉にそこは数瞬静寂に包まれた。
「ふふ、ほら、無理でしょう?だから…」
「いいよ。」
「…は?」
英子は自らのしてしまった発言とその静寂に耐えられず、放っておいて欲しいと伝えようとした。
だから、男の言葉が聞き取れなかった。
否、聞き取れはしたが、頭まで届かなかった。
「だから、お嬢さんのその願い、俺が叶えてあげるって言ってるんだよ。」
男は唇を歪めて笑い、英子の脳に浸透する様に、丁寧に、ゆっくりと、そう言った。
「…は……そんな…いや、何言って……」
英子は男の言葉にパニックになっていた。
『できるわけがない』とも思うが、『やってしまうかもしれない』と思わせる男の様子になんと言えばいいのかわからなくなっていたのだ。
そんな英子の姿を見ていた男はポケットから紙を取り出し、携帯番号を走り書きして英子に渡した。
「まあ、心が決まったら電話してよ。」
英子はその紙を反射的に受け取ってしまった。
「じゃあ、待ってるよ。」
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男はその言葉を残して立ち去ってしまった。
英子は呆然とその後ろ姿を見ていたが、『もう遅いし、兎に角今は帰らねば』と思い、電話番号の書かれた紙をポケットに入れ、その場を後にした。
現実逃避気味に。
英子はポケットの中の紙を捨てられず、その男の事を二人に言えないことに内心、不思議に思っていた。
(明らかに怪しいし、兄さんにも接触するかも…いや、兄さんだと取引自体成立しなさそうだし、しないかな…)
英子の兄、康介は見た目に違わず、常に優しく礼儀正しい人間で、気が弱いのか押しに弱いところはあるが、不正や悪行といったことはキッパリと断る性格であった。
(じゃあ、田村さんに…いや、でも、巻き込むことになるし…)
田村は家政婦として有能なだけでなく、英子に辛いことがあれば仕事があっても、親身に話を聞いてくれ、英子に嬉しいことがあれば、一緒に喜んでくれる様な人であった。
(…どうしても、言えない。)
英子は二人に言わないことを決めた。
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英子は事件後もキチンと学校に通っていた。
男に会ったあの日は、英子達のことが新聞に載っていたので、学校での影響を鑑みてサボっていたのだ。
だが、いつまで休む訳にはいかず、学校に行くことに決めた英子はいつもの通学路をいつもよりも重い足取りで歩いていた。
(はぁ…。学校行くの憂鬱……)
建設中のビルの前で英子がその重い足取りを無意識にピタリと止めたその時だった。
ゴォォォォォン
(…は…‥え?……何?鉄骨?)
英子の目の前に鉄骨が落ちて来たのだ。
英子はその場で尻餅をつき、目の前の状況を確認すると、みるみるうちに青ざめていった。
周りはざわつき、負傷者確認や、警察、救急への連絡をしている中、英子は恐る恐る鉄骨の落ちて来た場所を見上げた。
それは何故落ちて来たのか、それを確認する為の行動である筈だった。
それと目があった時英子は恐怖した。
建設中のビルの上に立つ人影は明らかに英子を見ており、逆光で顔は見えないが、唯一認識できる眼光には殺意が見てとれた気がした。
ゾクリと背筋に走った悪寒に周りの制止も聞かず、英子は足早にその場を後にした。
(気のせいだ…気のせいだ‥!アレは作業員の人が下を確認しただけ。目があったのも偶々に決まってる!!)
英子は平静を保つため、先程の光景に無理矢理にでも理屈を付けて『気の所為である。』と自らに言い聞かせていた。
その行為は学校の前まで続き、英子が周りに意識を向けられたのはその声を聞いた時であった。
「ほら、あの人…。」
「ああ。アレが例の…。」
「…。」
(また…!!)
その時、いつも通りの怒りが沸々と湧いてきた英子はさっきまであった警戒心が吹っ飛んでしまっていた。
横断歩道を渡っている最中、その油断から、英子はスローモーションの映像の様に突っ込んでくるトラックを見ているしかなかった。
「危ない‼︎」
ギリギリのところで後ろに引っ張られ、助かった英子は震えが止まらなかった。
(運転手と目が…あった……。笑ってた‼︎)
英子はその場から一目散に逃げ出した。
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男はホテルの一室にいた。
その部屋は多くの紙が散乱し、家具以外の生活用品らしきものは置かれていなかった。
その部屋の惨状は男が文字や写真のついた紙をソファに寝転びながら一枚、また一枚と読んでは床に捨てるを繰り返すことで作り出していた。
その紙には英子の事件の詳細だけでなく、英子の家族の身辺調査、来歴などが書かれていた。
カーテンを締めきり、テーブルランプの灯りだけをつけた薄暗い部屋でその作業を続けていた男はテーブルの上に置いた携帯の着信を見てその作業を止めた。
男は常体を起こし、携帯をとって応答ボタンを押した。
「何のつもりですか!!!あんな脅しで取引するとでも思っているんですか!!?巫山戯ないでください!!!!」
キィィィーーン
耳元で大音量で放たれた英子の叫びに男の鼓膜は麻痺を起こしていた。
「お嬢さん!ちょっと声を落として‼︎耳が死ぬ!!」
男の言葉に少し声を落としたが、それでも興奮が冷めやらない英子は言葉を続けた。
「あなた、どういうつもりなんですか?鉄骨落とさせたり、トラックを突っ込ませたり!!脅しじゃすみませんよ?!!そんなことされても絶対に取引しませんから!!!」
話しているうちにエキサイトしてきたらしい英子は段々とボリュームが上がり、耳に直撃する大きさになってきたので、男は諦めの境地で携帯を耳から話し、適当に相槌をうっていた。
「あ〜…ハイハイ…タイヘンだったネー。」
「ちゃんと聞いて下さい!!!!!!!!」
キィィィーーーーーーーン
結果余計に悪化した。
「はぁ……で?それが何で俺のせいになんの?」
「あなた以外にこんなことする人いる訳ないじゃないですか!!」
「…お嬢さんは俺を何だと思ってるの……。」
「あんな取引持ちかけて来る人疑うのは当然でしょう?!」
「…まあそうだけど、俺じゃないよ?」
「嘘つかないでください!!」
断定的な言葉に男は理不尽を感じながら、否定のみでは納得しない事を悟り、犯人を提示する事にした。
「あー…多分犯人じゃない?」
「は?」
「お嬢さんのご両親殺した犯人。」
「…何でそんな事する必要があるんですか……」
途端に下がったボリュームに男は嗤い、続けた。
「動機は始めからお嬢さんを殺しの対象に入れていたか、お嬢さんが犯人に繋がる証拠を持っている、又は知っているか…。」
「知りませんよ!!証拠だってありません!!!」
英子の言葉に男は一層に嗤い、更に続ける。
「お嬢さんが気づいてないだけで証拠を持ってるのか知ってるのかもよ?」
「気づいてなければ意味ないじゃないですか。」
「いやいや。犯人にとってはお嬢さんが気づいてようが気づいてまいが関係ないよ。お嬢さんが証拠を持ってるかもしれない、知っているかもしれないってだけで狙うには十分な理由だよ。」
「何ですかそれ!!身勝手すぎません?!」
「アハハハハ!!」
英子の言葉を男は遂に声に出して嗤う。
「人間なんて元々勝手なものだろう?」
英子は男の声音の雰囲気の変化に口を噤む。
男はそれに気を良くし、更に続ける。
「自らに都合のいい事は肯定して、都合の悪い事は否定する。そんなこと誰だって当たり前にやってるじゃない。…お嬢さんも。」
「…はぁ?!!私はそんな事…!!」
「見て見ぬふりはいけないよ?」
「……何…」
途端に勢いを無くした英子に、警戒させていることを感じた男は早々に話題を戻した。
「それにしても、お嬢さんは俺が鉄骨落とさせたり、トラック突っ込ませたりしたって思ったんでしょ?そんな奴に電話して危ないとは思わなかったの?」
「それは…」
「俺ならどうにかしてくれるって思ったのかな?」
「はぁ?何で私がそんな事を思うんですか?」
「さぁ?何ででしょう?」
「…こっちが聞いてるんですけど。」
「…まあ、お嬢さんがどうにかしたいと思うなら俺との取引に承諾するのがいいと思うけど。」
「何でそうなるんですか…。」
「お嬢さんの言い分で考えるなら、俺が脅してるんだから取引すればもう狙われない訳だ。で、俺の予想なら犯人がお嬢さんを狙ってるんだから取引すれば俺が犯人を殺すから狙われない。他の場合は知らないけど。」
「…。」
男は英子がこれで取引に前向きになるだろうと返事を待った。
「…取引……よ…。」
「はい?」
先程と違いかなり小さな声を拾えず男はもう一度聞き返した。
「だから…」
「うん。」
「そんな取引しませんよ!!!!!!!!」
キィィィィィーーーーーン
ブチッ
今迄で一番の大音で叫ばれ、男が鼓膜のダメージに苦しんでいる間に電話が切られた。
「えぇ〜……。」
男は何とも言えない気持ちで携帯を見ながら一つ溜息を溢し、テーブルに携帯を置いた。
「んん〜…もうちょっとだったのになぁ…。」
男はソファから立ち上がり、窓際まで行き、閉じられたカーテンを開けた。
男はカーテンの影にもたれかかり、窓の外を横目で覗く。
向かい側のビルはホテルであり、向かいのホテルのカーテンが開いていれば男の泊まる部屋からそのホテルの室内まで観察できるのだ。
「まぁ、手遅れになっても知らないけど。」
そこは英子達の泊まるホテルだった。
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駅前のロータリー広場には大きな木が植えられているレンガ造りの花壇があり、英子はその縁に座っていた。
雑踏の中で英子は周りも気に出来ず、両手で握り締めた電話を見つめて、勢いで切ってしまったことを後悔していた。
(何であんな喧嘩腰で切っちゃったの?!犯人殺すとか言う明らかに危ない人相手に!!…って言うかホント何で電話しちゃったの…)
「英子さん?」
「…!!?」
英子は自らの行動に納得できず、もんもんとしていた為、話しかけられるまで気づかず、弾かれたように顔を上げると、そこには家政婦の田村が立っていた。
「英子さん?こんな所で何を?学校はどうしたんですか?」
「え…あ……。」
命の危機や、電話の相手について考えていた為スッポリと抜けていた学校の事を言われ、どう返すべきか一瞬悩んだ英子は話をずらす事にした。
「た…田村さんこそこんな所でどうしたんですか?確かお家ホテルからだと逆の方向でしたよね?」
「…ええ、まぁ……少々こちらに用事があって…。」
微妙に濁したような田村の返事に訝しみながらも英子は心配かけまいと適当に濁す事にした。
「ちょっと…その、お腹が痛くて…休もうかなって…。」
「大丈夫ですか?薬か何か…あ、病院に…。」
「いえいえ!!月のものなので気にしないでください!薬も飲みましたから!!」
余計心配させたかと急いで誤魔化した英子はこの場から立ち去る為立ち上がった。
「すみません。もう帰りますね。それでじゃ、また。」
「あ…え、英子さん?!鞄…」
英子は田村の言葉も聞かず、そのまま立ち去った。
「消さなければいけないかもしれませんね…。」
田村は走り去る英子の背中を見ながら、呟いた。
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田村から離れ、泊まっているホテル近くまで人目を避けて来た英子は後ろを振り返り、ついて来ていない事を確認して一つ息を吐いた。
(これ以上心配かける訳にもいかないし…。まあ、サボったのバレた気もするけど…。それに田村さんがどう対応するか…。)
今日あった出来事を伝えれば、田村は心配して英子の今の状況を無視してでも警察に通報してしまう。
事件の所為で警察不信になっている英子にとってはそれは避けたい事態であった。
(ああ、もう!どうしろって言うのよ!!)
英子は無意識に携帯を見た。
(…あの人……強盗犯と私を狙った犯人は一緒じゃないかって言ってたけど…もし、そうなら……)
英子は思考に没頭していて気づかなかった。
後ろから忍び寄る人影に。