夏の始まり、日常の終わり2
なぎさは抵抗もままならないまま、啓太に手を握られて歩いている。だが、いつもの啓太と異なり、その手は乱暴であった。
あの、誰もいない世界に霧伏を置いたまま、元の空間に戻った二人は今、啓太の進むままに歩いていた。本能的な恐怖に、身を捩るなぎさだが、啓太はそれを許さない。
「あなたは、何?啓太はどこに行ったの!?」
なごさが叫ぶ。周囲の人間はそれを不審に思いながらも、カップル同士のけんかか何かと思ってか、関わらないようにしている。速足で歩きながら、啓太の顔をしたそれは言う。
「お前の彼氏はもういない。俺が中身ごと喰っちまったからな」
そう言い、彼はなぎさを掴んでいない左手で顔をトントンと叩く。
「奴の皮を纏っているだけにすぎんのよ」
そう言い、啓太は笑う。
「化け物・・・・・・」
「おおう、化け物!言い呼び方だ、だが俺にもちゃんとした名前があるんだぜ。ジェダっつううな」
そう言い、ジェダは啓太の顔のまま、なぎさを見る。啓太の右の目玉が落ち、その眼孔から光る黄色の眼がなぎさを射抜く。
「くくく、お前を見つけた時、すでにザッソの野郎が手を付けようとしていたから、焦ったぜ。もっとも、ザッソはあの退魔の女にやられちまったようだが」
ゲッゲッゲ、とジェダは嗤う。ザッソというのは、霧伏に斬られたあの緑色の鬼の事だろう、となぎさは思った。
「あなたたちは何?目的は、何なの!?」
なぎさの叫びに、ジェダは何も答えず、落ちた啓太の右目を眼孔にはめ込んだ。
なぎさは手を捩り、校則から逃げ出そうとするが、その力は強かった。啓太の皮を被った怪物は、なおも不気味な張り付けた笑みを浮かべていた。
「目的、目的はお前の身体さ」
じゃだは言い、長い舌でなぎさの頬を舐める。腐臭の漂うその舌と吐息に、鳥肌が立つなぎさを、愉快そうにジェダは見る。
「におうぞ、女のかおりが。我ら妖魔を魅了する、その肉体!一目見た時から、どれほど、どれほど・・・・・・!!」
そう言い、なぎさを人気のない裏道に押し込み、ジェダは迫ってくる。ジェダの手から離れたなぎさだが、それは完全な逃げ道をふさがれたからだと悟った。
「ゲッゲッゲ・・・・・・」
迫るジェダは、もう啓太の皮を被っている必要がなくなったのだろう。次第に本性を現してきた。
一目見た印象はカエルの化け物、であろう。醜いいぼだらけの巨大なガマガエル。黄色い目を光らせ、ぶくぶくと口からは泡を吐き、腐臭を漂わせる。不気味な怪物こそが、ジェダの正体であったのだ。
生理的嫌悪感を抱かずにはいられないジェダの姿に、なぎさは後ずさる。
長い舌を出し、なぎさの脚を舐めるジェダだが、その瞬間、空から降ってきた人影がその舌の先端を斬り飛ばした。
「ゲレェッ!?」
悲鳴を上げるジェダは、一歩二歩後ろに下がる。なぎさは眼前の人影を見た。
それは、倒れたはずの霧伏棗であった。先ほど突き刺された腹からは未だに血が出ており、美しい黒髪も、血がこびり付いていた。
「霧伏さん・・・・・・!?」
「女、生きていたのかァ!?」
驚く二人をよそに、無言で刀を構えた霧伏はジェダに向かって、突進した。
ジェダは焦った。元より、戦闘を得意とせず、不意打ちを好むこの妖魔にとって、霧伏は天敵であった。だからこそ、彼女がザッソと戦って油断していたからこそ、倒せた。
それに、手傷を追って動きが鈍っているかと思えば、そうでもない。ジェダが体から精製した刃をさばきながら、急所を狙ってくる。その動きに、一切の隙も乱れもなかった。
「人間、じゃないな、貴様・・・・・・」
ジェダの言葉に反応もせず、無表情に刀を振るう霧伏。ジェダは自分ではこの女に敵わないことを察した。
「こ、降参だぁ!」
妖魔が叫ぶ。
「お、俺の負けだ、手を引くから、命だけは・・・・・・!!」
そう叫ぶ妖魔に、聞く耳を持たず刀を振る霧伏。それは専攻の速さで妖魔の首と胴を断つ。げこぉ、と首は一鳴きすると、べしゃりと地面に落ちて、ぶくぶくと泡を立てて溶けていく。どうも少し遅れて、泡となり消えていく。
そして後には腐臭と、不気味な染みだけが残った。
霧伏は敵の消滅を確認すると、なぎさを助け起こした。なぎさは手を引かれながら、霧伏を見る。
腹部の血は未だ出ているが、その割に彼女は平然としているように見えた。
「ありがとう、霧伏さん」
そう言うと、なぎさは霧伏の刀を持っていない手を掴んだ。
「説明して。あれは、啓太の皮を被っていたあの化け物、それにその前に襲ってきたアレのこと」
そして、と彼女は霧伏の金色の瞳を直視して言った。
「あの日のことを」
霧伏はただ、静かに頷くとなぎさの手を優しく引いて導いていく。なぎさは黙って、その導くままについていった。
少なくとも、霧伏に自分を害する気はないことだけは明白であし、自分が死なないためにもそれは最善であると感じていた。
辿り着いた先は、小さな家であった。「霧伏」という札が掲げられているから、そこが家なのだろうことは察することが出来た。
霧伏に案内され、リビングに通されたなぎさに「少し待っていて」というと霧伏は奥の部屋に消えた。
しばらくして、血だらけの服から質素な白いTシャツとジーンズ姿で彼女は戻ってきた。腹の傷は、何かで止めたのか、白いTシャツには一切滲んでいなかった。
ふと見ると、眼鏡をしているようで、レンズの奥の瞳は漆黒であった。
「佐伯さん、何を知りたい?」
霧伏はそう言って、なぎさの座るソファの向かいに置いてある椅子に座った。キィ、と音が鳴る。
なぎさは真剣な顔で言った。
「まず、あれは何なの?啓太は、本当に死んでしまったの?」
なぎさが問う。あれは啓太の中身を喰った、といった。つまり、啓太は死んだのだ、と。今更だが、啓太の死が本当の事だと実感が湧いてきて、悲しくなってくる。好きな男子の、突然の死は、あまりにも受け入れがたい死にざまであったから、未だに夢ではないか、と思う。そのなぎさの希望を、霧伏は首を振って否定した。
「あなたのボーイフレンドは死んだわ。妖魔によって、すり替わられたから」
「妖魔・・・・・・それが、あの化け物のこと?」
なぎさの問いに、霧伏は頷く。
「悪魔、妖怪、化け物、怪物・・・・・・なんとでも呼べるけれど、私たちは『妖魔』と呼んでいるわ。この世とは異なる理に生きる、異界の住人。それが、妖魔」
霧伏はそう言い、なぎさを見る。なぎさは現実感が湧かないながらも、必死に受け止めようとしていた。
「昔、中学校の時、遭遇した、あれも・・・・・・」
確認するようにつぶやいたなぎさに、霧伏は首肯する。
「菅原先生の皮を被った妖魔よ」
霧伏が続ける。
「妖魔は人間社会に溶け込み、隙を伺って得物を『幽世』へと誘う。幽世は彼岸、つまりこの世界と、異界との岸辺・・・・・・中間にあたる世界。そこは、ヒトならざるモノのひしめく世界」
「幽世・・・・・・?」
「あなたは、妖魔に魅入られたのよ」
霧伏はそう言い、眼鏡を外した。外した瞬間、彼女の瞳は金眼へと変貌した。
その瞳に魅入られるように、なぎさは覗き込む。金色の瞳は、なぎさを力強く見つめてくる。まるで、長年求めてきた宝物を見つけたかのように。
「実を言うと、私も妖魔なんだ」
霧伏は衝撃的な告白をした。驚きに目を見張るなぎさは、更なる驚きに見舞われ、それどころではなくなった。突然、なぎさの頬を霧伏が抑えたかと思うと、彼女はなぎさの唇に自分のそれを押し付けてきたのだ。
ファースト、キス・・・・・・。
なぎさは心の中で呟き、薄れつつある意識の中で、金色の瞳を見つめ続けていた。