夏の始まり、日常の終わり1
佐伯なぎさにとって、高校生活は新鮮な驚きに満ちていた。
親の都合でこの春から、以前まで住んでいた地を離れたなぎさにとっては、どんなものであろうとも新鮮ではあったが。
早速こちらでできた友人に誘われた美術部での活動に、休日は繁華街で遊ぶ。将来がどうという教師の話も、今はまだそれほど真剣には聞かず、青春という時間を謳歌していた。
夏休みの直前に、クラスメイトの柳瀬啓太に告白され、付き合い出したなぎさにとって、今が一番楽しい時期であった。
手をつなぐ程度でしかなかったが、なぎさの毎日は幸福で満ち溢れていた。
とはいえ、その幸福がいつ壊れ去るかもしれない、不安定なものであることを、頭の隅でなぎさは感じていた。
それはあの中学の頃の記憶にあった。美しい、血にまみれた少女、霧伏棗。彼女とはあれからほとんど会話をしなかったが、今でも記憶に鮮烈に覚えている。
夏の暑い中、家で涼んでいたなぎさに、友人からプールに行く誘いがあった。市街地にある大型プールで、啓太をはじめとする男子グループもいる、とのことだった。若干の気恥ずかしさはあったが、啓太もいるなら、となぎさは友人に返した。
ばふ、とベッドに倒れ込んだなぎさは、数日後のプールのために、水着を新調しなければ、と早速意識をそちらに飛ばした。そうして、霧伏棗の思い出に蓋をした。
もう、彼女とは関わることはないだろう、と。
友人と水着を新調しに行き、当日を楽しみにしていたなぎさだが、急なキャンセルが入ってしまった。
仕方ないなあ、となぎさが思うと、その連絡の直後に啓太からデートの誘いが来た。
どうせ予定もないし、いいか、となぎさは返事を返した。未だに手をつなぐ以上に進んでいない中だが、もしかしたらそれ以上まで進むかもしれないな、と若干の期待と緊張を胸に、なぎさはその日を終えた。
翌日、待ち合わせの場所に来たが、啓太は来ていなかった。場所的にも迷う場所ではないし、予定にはきっちり間に合わせる啓太にしては、珍しい、となぎさが思っていると、彼女の肩に手が置かれた。
驚き、振り返ったなぎさは、安堵の息を吐いた。
それは、啓太だったのだ。
「びっくりしたぁ、驚かせないでよ」
少し頬を膨らませるなぎさ。自分でも少しあざといかな、と思うが、そんななぎさに啓太はゴメンゴメンと苦笑した。
「なんか、ここ来る途中でいろいろあって・・・・・・」
そう言った啓太の顔の右頬には、何かでひっかいたような傷があった。
「大丈夫、その傷・・・・・・?」
心配そうな渚に、啓太は笑う。
「どってことないさ。単に、猫に引っかかれただけだから」
ここに来る途中、野良猫に引っかかれた、という啓太。そのままなのも心配なので、絆創膏を張る。
今日の予定はこの後、映画館に行き、かねてよりなぎさが見たがっていた恋愛映画を見に行く。今話題の若手俳優・アイドルが出る話題作であった。
とはいえ、先に昼食をとってから、と歩き出した二人の横を、ふと何かが通る。
なぎさたちは気にせず歩き去ったが、その横を通った何かが、怪しい瞳でなぎさを見ていたことに、彼女は気付かなかったのだ。
映画を見終わって、近くのお店を見ていると、外はだいぶ暗くなっていた。夏休みだからか、周囲にはまだ若い人たちは多くいた。
「この後、どうするの?」
最後に見ていたお店の周辺を歩いていたなぎさが問う。
なぎさの言葉に、啓太はどうするべきか、悩んでいる様子であった。そんな彼の様子を見ていた汀が、ふと気づく。啓太の右頬から、血が流れ始めているのを。
「ねえ、傷、大丈夫?」
「え?」
啓太が絆創膏が張られた頬を撫でると、血がべったりとつく。うわ、と彼は短く唸った。
「なんだよ、まったく」
そう言い、彼は少しトイレに行く、と離れていった。なぎさはしばらくこの辺で待っているね、と手を振り近くのベンチに腰を下ろす。
ふう、と息をつくなぎさの前に、何かがぬっと立つ。なぎさが顔を上げると、そこには禿頭の大男が立っていた。
大男はなぎさが顔を上げると同時に、その華奢な首を大きな両手で締め上げてくる。軽々と持ち上げられるなぎさは、悲鳴を出そうとするが、出てくるのはか細い息の洩れるような声だけであった。
周囲の人間は誰もこちらを見ていなかった。いや、まるでここだけが見えないかのようであった。
かは、と息を吐くなぎさを、大男は不気味な笑みを浮かべて見ていた。
助けて、啓太、と心の中で叫びをあげる彼女の耳に、凛とした、懐かしい声が聞こえた。
「その手を離しなさい」
その声の主は、男の後ろに立っていた。すらりとした、この年ごろの少女にしては背の高い、黒い長髪の美女。切れ長の目は金色に輝く。
なつきは狭まる視界の中、彼女の姿を認めた。忘れすことはない、決してあり得ないその姿。以前から変わらぬその姿は、まごうことなきあの少女。
「きりふし、さん・・・・・・」
抜身の刀を持った少女、霧伏棗は、もう一度言う。
「その手を離しなさい、妖魔」
「嫌だと、言ったら?」
大男は言いながら、霧伏を振り返る。だが、それは体をそって霧伏を見たのではなかった。180度首が回転していた。首の皮膚は不気味に敗れ、中から何かが見えた。うねうねと蠢く、不気味な緑のゼリー状の、何かが。
「くかかかか、退魔師か、貴様。だとしても、私を殺すのは不可能・・・・・・」
男の禿頭が割れ、その本性が現れる。脳みそのようなしわくちゃの頭部から、巨大な二本の角が点に伸びていた緑色の肌を持ち、ところどころからゼリー状の液体が出て、体を覆って、テラテラと不気味に輝く。その姿が現れた瞬間、世界は暗転し、なぎさと霧伏、怪物を残してほかは消えていた。
薄暗闇の街の中、怪物はなぎさを絞めていた右手を離すと、それを霧伏に向けた。爪が伸びたかと思うと、バシュとガス音のようなものがして、爪が射出された。それは霧伏にまっすぐ飛んでいったが、彼女は刀で叩き落して、駆け出す。
怪物はなぎさを放り投げる。なぎさは力なく、茂みに叩き付けられた。痛みはあるが、重賞はおっていない様子だった。
霧伏は軽くなぎさに目を向け、無事とわかると眼前の化け物に切りかかった。専攻のような一撃が怪物の左肩を一閃し、切り落とす。だがその瞬間、ゼリー状の液体が切断面からあふれだし、互いに結合したかと思うと瞬く間に繋がった。
「再生能力、厄介ね」
霧伏は言うと、怪物の鋭い爪を交わし、指ごと切り落とす。だが、瞬時にゼリー状の液体が切断した指を掴んで再生する。
「無駄よ、退魔師」
緑色の鬼が言う。
「我が肉体を滅することなど、出来んぞ」
「どうかしら」
霧伏は不敵に笑うと、鬼から距離をとる。刀を構えたままの少女は、いささかの疲れもない様子であった。
鬼はなぎさが未だに立ち上がれないのを見た。なぎさは力が抜けて、動けない。逃げられる心配はなさそうであった。
さっさとこの目の前の女を殺そう、と怪物は両手の爪を伸ばす。鋭利な十本の刃を胸元に構えた怪物。
突然、霧伏は地を蹴って前に突き出てくる。そのスピードに、鬼は驚きながらも応戦した。最初はさばき切れていた攻撃だが、次第に少女の剣は速さを増していく。対応できなくなった鬼は、詰碁と指を切り離される。再生するようにゼリー状の液体が出るが、それすらも少女は斬り飛ばす。
「なにぃ!?」
「再生するなら、それより早く切り伏せるだけのことよ」
平然と言った少女の猛攻は収まらない。再生に追いつかない怪物は次第に、防御に徹するしかなくなった。だが、その防御も、少女の剣速にはついていけない。体中からゼリー状の液体が周囲に飛び散る。再生に追いつかず、体内での液体の生成に追いついていないのは明白であった。
(なにものだ、この女・・・・・・!?)
明らかに人間を超える運動神経。自身を恐れぬ、その胆力。
自分に接戦を挑む女の顔を見て、怪物は驚愕した。なぜ、最初に気付かなかったのか、彼は自問した。
女の眼は、金色に輝いていたのだ。
「その瞳、まさか・・・・・・」
口を開きかけた怪物だが、その瞬間、その怪物の鼻から上の部分は霧伏の放った一撃で斬り飛ばされていた。頭部に続き、少女は怪物の身体を切り分けていく。華麗に、冷徹に、恐ろしい速さで。緑色の血をまき散らして絶命した鬼の身体が地に落ちていく。なぎさはただただそれを見ていた。
その惨劇の中にあってもなお、霧伏棗は美しかった。
霧伏は刀を持ったまま、なぎさに近づいてくる。
「けがはない?」
優しい口調の霧伏に、なぎさはええ、と答える。左手を差し出してきた霧伏の手を掴んだなぎさは、ドスンという音を聞いた。
「人の彼女に手を出してはいけないだろう、ねえ、君ィ」
不気味な笑みを浮かべ、目には大きな隈を作っている啓太が、後ろから抱き着くように霧伏を抑え、その耳元で言う。霧伏の腹からは、銀色の鋭い刃が突き出ていた。刃からは、血が零れていた。
「啓太、なの・・・・・・?」
そのなぎさの声に、啓太はニヤリと笑うと、力の抜けた霧伏棗の身体を乱暴に放り投げた。グシャという嫌な音とともに、少女の身体はだらりと力なく横たわっていた。
「ああ、そうだよ、なぎさ」
啓太の笑うその口の奥には、鋭い牙が何十も生えていた。
もう、目の前のそれは、啓太ではなかった。
「なぎさ、デートの続きと行こうじゃないか」