遭遇
「こんなに遅くまで残っているなんて、珍しいわね」
夕闇に染まる校舎の中、家路に帰ろうとする中、彼女に声をかけられた。冷たい声音に、少女は後ろを振り向いた。そして、フッと息を吐いた。
お化けとかを信じるわけではないが、知らない人だったらどうしよう、という僅かな思いとともに振り返った少女は、口を開いた。
「霧伏さん」
少女はクラスメイトの名を口にした。背中にまで届く長い黒髪を揺らす少女は、夕闇の中でも異彩を放っているように感じた。
霧伏棗。少女の同級生にして、謎多き美少女である。美少女とは言うが、可愛い、というよりはむしろ綺麗な、という形容詞が良く似合う少女である。白い絹のような肌に、切れ長の瞳は、光を受けてか金色に爛々と輝いている。ふわ、と浮いたような髪に、自然と目が行く。
普段、霧伏棗は特定の友人もいないし、単独行動を好むため、こうして少女と話をすることも滅多になかった。
「部活、今日はないはずよね」
霧伏が言う。テスト期間中なので、ほとんどの部活は活動していない。それに、少女の入っている部活は通常、水曜日には活動を行っていない。そのため、彼女がこの日この時間までいるのが珍しい、と霧伏は言っているのだろう。
霧伏は特に部活には入っていない、帰宅部であるが、妙に人の行動を把握しているところがある、と以前噂好きの友人が言っていたのを思い出す。
「うん、少し、先生に呼ばれて」
「名波先生?」
霧伏が問う棚は、担任の名だったが、少女は首を振った。
「ううん、生徒指導の菅原」
生徒指導の菅原といえば、陰険な教師として悪名高い。女子生徒を見る目線がいやらしい、などと嫌われている。四十代の独身で、見た目もきつそうな目つきに、時折混じる罵声でまず好んでいる生徒はいないだろう。
そんな菅原からの呼び出し理由ははっきりとしなかった。呼び出したくせに、本人はいなかった。
後が怖いからと、この時間まで待っても帰ってこないから、見かねた担任に帰るように言われてこうして帰路についているのである。
と、少女が話すと、霧伏は細長い目をより細めた。金色に光る瞳が、より一層強くなったように感じたのは、闇が深くなったからだろうか。
「菅原先生、ね・・・・・・」
「うん、それより霧伏さんは・・・・・・」
どうして、と続けようとした少女は、言葉を飲み込んだ。いつの間にか、廊下が暗闇に包まれていたからだ。夕闇ではなく、完全な黒。天上の蛍光灯の明かりは消え、自分と霧伏の立つ場所の身が照らされている。よく見ると、上の蛍光灯ではなく、何かが光を発していた。いや、何かではなく、光が飛んでいた。
「早いわね」
霧伏がぼそりとそう言うと、カサカサと不気味な音が聞こえてきた。それとともに何か重いものをずるずると引きずる音。生理的嫌悪感を催す音に、少女は背筋が冷たくなった。
「・・・・・・なんの、おと?」
「佐伯さん、しばらく、目を閉じていたほうがいいわ」
霧伏はそう言うと、少女、佐伯なぎさを庇うように立ち、音のする方向を睨む。暗闇の中、次第に大きくなる音に、なぎさは震えた。次第に聞こえる、足音と引きずる音のほかに、カチカチカチ、というまるで歯が震える音。
数秒が過ぎた時、漆黒の向こうに、紅い光が輝いた。八つの紅い光は次第に大きくなる。
「なに、あれ」
「・・・・・・」
沈黙で応える霧伏。なぎさは恐怖で目を見開いた。
やがて、光の下に姿を現したのは、菅原であった。
「おや、貴方もいたのですかァ、霧伏さん」
耳障りなカチカチという音を出しながら、菅原は言う。損の口は、すでに人とは違うものであった。
無数の虫の脚のようなものが蠢き、不協和音を紡ぎ出す。人間の顔が張り付いているが、その後ろから昆虫の頭のようなものが飛び出し、八つの紅い目玉が不気味に動く。
下半身は蜘蛛の身体のようで、毛におおわれた爪のある巨大な八本の脚を持っていた。人間の上半身が頭と下半身をつないでいるが、両腕は鋭利な鋏のようであった。
「今日は、佐伯さんだけ、食べようかと思っていたのですが、困りましたねえ」
クカカ、と笑う化け物に、ヒ、となぎさが短い悲鳴を上げる。一方の霧伏は静かに怪物を見上げている。
頭四つ分も違う身長の怪物に、一切の怯えを見せず、少女は言う。
「妖魔。おとなしく去りなさい。死にたくなければ」
「死ぬ、私がぁですかァ」
嗤う妖魔と呼ばれた化け物は、ギロリと霧伏を見た。
「貴方にぃ、私をどうにかすることが出来るとでもぉぉ?」
にたりと笑った化け物に、霧伏は言った。
「ええ。あなたのような雑魚程度、ね」
彼女は微笑んだ。それは無理に張り付けた笑みではない。目の前の化け物に、本気でそう言っている余裕から出る笑みだ。
妖魔は気が立っていた。数か月、目をつけていた得物を前に、邪魔をされ、馬鹿にされている。こんな人間風情に、と。
奇声を上げ、巨体を揺らす菅原に怯えて足がすくむなぎさに、霧伏は言った。
「ここから動かないで」
そう言うと、どこからか取り出したのか、一振りの抜身の刀を構えた。先ほどまでは持っていなかったその刀は、模造品ではなく、本物だと、なぎさはなぜか直感した。
二本の足を振り上げた妖魔だが、それを難なくかわすと、霧伏は飛び上がりった。
美しい脚がぐんと前に出され、菅原の鳩尾をけり上げる。グゲ、と菅原は咳き込み、よろける。その隙に少女は持っていた刀で根元から怪物の前足を一本、切り落とした。鮮血が飛び散り、絶叫が暗闇の校舎の中、響く。
化け物の血にまみれながらも、舞う霧伏の姿を、なぎさは綺麗だと感じた。息を切らすこともなく、刀を振り上げる霧伏。菅原は霧伏をたたきつぶそうと足を振り上げ、鋭利な両腕で切り付けるが、攻撃が当たることはなかった。隙をついて振り上げられた刀で、逆に怪物は足と腕を切り落とされていく。
やがて、数分の激闘が続くと、その巨体を支えるための四本の脚以外、菅原に攻撃するすべはなかった。
「そんな、そんな馬鹿なァことぉ・・・・・・」
嘆き、八つの紅い目玉から涙を流す怪物。口からはだらだらと涎を垂れ流し、切断された腕や足の断面からは絶え間なく、血が流れ出ている。
「なんだ、お前ええっ!なんなんだよぉぉぉぉぉ」
菅原が叫ぶ。そんな菅原に、少女は冷徹に残った四本の足を切り落とした。一瞬のうちに足を喪った巨体が倒れ、少女の足元に、菅原の頭が叩き付けられる。
刀を振り上げる少女に、菅原は命乞いをする。
「やめて、やめてええええ、見逃して、その女も、あんたにも、て、手は出さねえよぉ・・・・・・」
みじめに命乞いするそれを、少女は眉一つ動かさず刀を振り下ろした。
血しぶきが舞い、脳漿があたりにまき散らされる。化け物は、ぴくぴくとしばらく痙攣していたが、やがて動きを止めた。
怪物が動きを止めると同時に、あたりが明るくなったかと思うと、なぎさは夕闇の廊下に立っていた。
あの暗闇も、怪物がいた痕跡もない。
いるのは自分と、霧伏棗だけであった。その霧伏も、刀は持っていないし、先ほどの戦いの汚れもなにもない状態であった。
あれは自分がみた夢か幻か。なぎさが自分を疑う中、霧伏は静かにほほ笑み、言った。
「もう遅い時間よ。早く帰った方がいいわよ」
キーンコーンカーン、と校内になる鈴の音。六時を回ったことを知らせるその音に、なぎさは慌てる。
こんな遅くまでいるつもりじゃなかった、と腕時計を見てなぎさは下足置き場へと急いだ。その最中、ふと後ろを見ると、霧伏が手を振っていた。
彼女の眼は、先ほどまでの金色の光はなかった。
この日以降、生徒指導の菅原を見ることはなかった。疾走した、ということだが、親戚もいない菅原に変わり、別の教師が生徒指導になると、皆菅原のことを忘れた。
けれど、なぎさだけは、忘れなかった。あの放課後の出来事とともに。
佐伯なぎさの中学生活はその後、何事もなく終了した。あの出来事は何だったか。その答えを見出すのは、まだ先の事であった。