少女と空と雲くじら
「うわあ! きれいな空だねえ!」
ぼくのとなりで、ユカが思わず声をあげる。
抜けるような青い空が頭の上いっぱいに拡がっている。
中学校からの帰り道、からはちょっと外れた土手の上。道はまっすぐ、土手の両側は視界も開けて、澄んだうす青色の空はどこまでも続いているように見える。
「きもちいいねえ、貴くん」
眼をきらきら輝かせて夢中で空を見上げているユカ。そんな様子も可愛いな、と思う。
「ね? この空を手に入れたいと思わない?」
ぼくは笑った。
「いつだってここにあるじゃない」
「そんなんじゃないの!」
ユカはちょっとむきになって答える。
「この空を! この手に! つかみたいの!」
ユカはぱっと手を上に伸ばし、てのひらを広げる。
「……中二病かよ」
中二だけど。
「ふん、言ってなさいよ。絶対手に入れて見せるんだから。雲くじらの加護を見せてあげるわよ。
……あっ! くじら雲だ!」
ユカが唐突に叫んだ。
「えっ? どこどこ?」
「ほら、あそこよ。見えないの?」
ユカがぼくにほおを寄せて天を指さす。突然の接近に、ぼくはどぎまぎして空を見上げ……。
空にひとすじ、細い三日月のように切り込まれた白い線を見つけた。
抜けるような青空を雲くじらが泳ぐ。
その背びれが空の表面をなぞるとき、白い筋雲がすうっと浮き上がって雲くじらの存在を知ることができる、そんなふうに言われていた。その雲を通称「くじら雲」と言う。
「どう? 雲くじらはちゃんと見てるのよ」
えっへん、と言わんばかりに腰に手を当て、ユカは口調を改めて仰々しく言った。
「貴彦、そなたはわらわが偉業、その目で見届けるがよいぞ」
「へいへい」
ぼくの相づちは適当だったが、内心ちょっと期待してもいた。
ユカなら、きっとできるだろうと。
そして十年後、ユカは航空宇宙会社の客室乗務員になった。
†
空を手に入れる。
手に入れた者は雲くじらの加護を得る、と言われていた。
そして、雲くじらの加護のある者しか宇宙には出られない。
雲くじらを見た者はいない。
だがそれは、ごく当たり前に存在するものとして語られ、扱われている。
それなのに、その存在は所説さまざまだ。
この次元にはいない高次の生き物だとか、人の精神世界が空に投影された、実体のない存在だとか。
そんな曖昧模糊としたものを、イチとゼロの論理の集積体である宇宙船を動かす人々が大真面目に信じている。むしろ行動原理にすらしている。そのことについては誰も疑問を差し挟まなかった。
ぼくはユカに、長いこと会っていなかった。
昔の言葉どおりに夢をかなえたユカ。
ぼくは何にもできなかった。何もつかめなかった。
何となく、立つ瀬がなかった。そんなこと彼女が気にするはずもないのに。
だから結婚式の招待も、なんとなく放置してしまった。
夢をかなえるために、ユカは努力した。とっても努力した。見ていなくてもわかる。客室乗務員なんて、簡単になれる職業じゃない。
だから彼女が空を手に入れたのは当然だし、雲くじらの加護を受ける資格があると思う。
祝福したかった。おめでとう、夢をかなえたんだね、と言ってあげたかった。
きっとユカは「ふふん、わらわの偉業、見届けたか」と勝ち誇るだろうが、本気で言うわけがないし、もし本気だとしてもそんな事くらい何でもない。
だけどぼくは、素直に喜べなかった。
もやもやとした黒いものを心のうちに抱えて、ぼくは地べたを這いずり回って仕事をこなしていた。
見上げる空は、鈍色に見えた。
†
エアロプレーンが事故に遭った聞いたとき、ぼくはちっぽけなプライドにこだわっていた自分を呪った。だけど何もかもが手遅れだった。
大気圏突入時、機体にかかる負荷は想像を絶する。ほんのちょっとの機体の傷でさえ、大気の圧力は見逃してくれない。
そういった不幸な事故は時たまあり、それは避けられない結果をもたらす。すなわち、乗客乗員全員の未帰還。
俗に「雲くじらのいけにえ」などと言われていた。
機体は見つからなかった。実は爆発すら確認されていなかった。神隠しにあったように乗客乗員ごと消えてしまった。
それも雲くじらの所業なんだろうか。
乗っていた人々を、雲くじらは守ったのか。それとも自分への贄として、連れ去ってしまったのか。
もちろん、ユカの痕跡も、かけらも残らなかった。
一日、ぼくは軌道エレベータに乗った。
地上から大気圏外、衛星軌道まで昇るチューブ。一般人が目的もなく乗るには痛すぎる出費だったし、道楽と言うには殺伐とし過ぎていた。
だが給料三ヶ月分を支払う意味はある、とこの時のぼくは感じていた。
軌道エレベータの終点、宇宙ステーション。
それは空のはじっこであり、空ではない所の始まりでもある。
ここからほかの軌道上基地や、宇宙へ向かう人や物資。
そこから戻ってきて、地上へ向かう逆方向の流れ。
エレベータなんてその中の、ほんの小さなユニットの一個にすぎない。
その中のさらにちっぽけな、自分。
展望スペースから見える宇宙は、黒。眼下の地球は水色にまばゆく輝いている。
「うわあ! きれいだねえ!」
すぐとなりで、ユカが叫んだ気がした。
黙って、足もとの巨大な地球を眺める。
――きみは今、どこにいるの?
「ここではない宇宙。別の世界よ」
――きみは死んでいるの?
「この世界的には、死んでいるのかもね」
――なぜそんなことに?
「機体の破損は避けられなかったわ。雲くじらは頑張ってくれたけど、因果律を完全にくつがえすには至らなかった。やがては因果律がすべてをあるべき姿に戻してしまうでしょうね」
――ぼくはどうすればいい?
「きみはどうしたい? 貴くん?」
思わずとなりを振り返る。
もう何年も会っていなかった幼なじみの女性の横顔。でも表情はあの時のまま。
……思い出した。
「ぼくは……羨ましかったんだ。
そんなに無邪気に喜べるきみが。
そんなに一途に突っ走れるきみが。
そして夢をかなえてしまったきみが。
ぼくは……悔しかったんだ。
そんなに頑張れない自分が。
そこから逃げている自分が。
ぼくはどうすればよかったんだ!?」
「正解なんてないよ」
ユカはにこにこしている。ぼくをなじるでも。蔑むでもない。ただただ無邪気な眼で、水色に光り輝く地球を見おろしている。
「あたしはただ、やりたかったからそうしただけ。楽しかったからできただけ。そこに上も下も、正しいも間違いもないよ。
だからきみも、やりたいことをしてくれたらと思うよ。それできみの心が喜んでくれたら、あたしも嬉しいな」
呆然とユカを見ていたぼくのほおを、いつの間にか涙がつたっていた。
「まだぼくを、そんなふうに言ってくれるのか」
ユカはぼくに歩み寄って、そっと頭を抱いてくれた。
「迷って、悩んで、傷ついたんだね。頑張ったね。えらいえらい」
ユカがほほえんでいるのがわかる。
「それは無駄なことじゃないよ。すべてをきみが受け入れられたら、とても嬉しいな。
ねえ、きみはどうしたい? 空を欲しがったのはあたしの夢。きみの夢はなに?」
「……もう、遅いよ」
「そんなことないよ。言ってごらん。きみはどうしたい?」
……ぼくは、どうしたかったんだろう。
「すぐに答えなくてもいいよ。きみが納得できればいいんだから」
――待って。行かないで。
「空に一番近いところって、うまいこと考えたよね。それだけは正解。雲くじらの力が一番使えるもの。
きみの道が見つかるといいね。答えはきっと、きみの中にあるよ。きみにも雲くじらの加護があらんことを」
出会った人は、別れた瞬間、思い出に変わる。
――だけどきみは、きみの人生を生きなくちゃいけない。
――それが、生きてあるものの責任だよ。
†
それからぼくが宇宙空間へ出るまで、二十年かかった。
ぼくは雲くじらについて調べ始めた。雲くじらの痕跡を集めるグループに参加し、雲くじらの出現に関する考察を読みあさった。
どうすれば雲くじらに会えるか。みんな一所懸命知恵を巡らせていた。会ってどうする、とは誰も問わなかった。未知のものに会ってみたいという衝動に、理由なんかない。
そしてぼくは、雲くじらに会いに行く、というイベントを大真面目に企画していた。
宇宙空間に出て、雲くじらに呼びかける。その参加者を募った。呼びかけて出て来る保証は何もない。むしろ何にも起こらない可能性の方がはるかに高い。
そんなばかげた事のために大枚はたいて人生を賭ける馬鹿がどこにいる。そう笑われた。
ぼくはその馬鹿者を探し回り、口説き回った。つまりはあり余る資産を持った金持ちを、だ。たいていは男だったので話は通じやすかった。男の人生に金はなくともロマンは必要不可欠なんだと。三割くらいはこの馬鹿話に大笑いし、関心を寄せてくれた。
もちろん反対意見もあった。雲くじらの加護なしに宇宙まで行った例はない。なにか大変なことが起きるのではないか。
その意見を、ぼくは認め、尊重していた。ぼくだって雲くじらをないがしろにするつもりはない。
しかし今後、宇宙開発がさらに進めば、もっとたくさんの人が宇宙に出るだろう。中にはもともと空を手に入れるつもりなどない、ごく普通の人もいるに違いない。
そうなった時、何か新しい法則の構築が必要になるのではないか。
そのための試行はあってもいい、と思ったのだ。
だがその思いはなかなか真っ直ぐ伝わらず、変に誤解したさまざまな思想がネット上を賑わせた。ぼく自身もずいぶんと謂れなき中傷を受けた。
心は重かった。けど、ぼくが失ったものに較べれば、大した問題じゃなかった。
まして彼女が失ったものに較べれば。
地べたを這いずり回って仕事をこなし、日銭を稼ぎながら、ぼくは残りの時間を馬鹿話の実現につぎ込んだ。
これが本当に自分のやりたかったことなのか。それは今でもわからない。ただ、気がついたら走り始めていた。たわ言のような与太話も少しずつ動き始めていた。そして新型宇宙船は目の前にあった。
人類史上初のラムジェット推進型宇宙船のテストを兼ねて、雲くじらに呼びかける会のメンバー三十人が乗り込んだ。彼らはいわば、新型機テストの人身御供でもあった。
だが誰も悲壮感など持ち合わせていなかった。それを上回る期待にわくわくしていた。だってそうだろう? 謎の存在、雲くじらへのアプローチ。まったく新しい理論の機体への初乗り込み。そして、空を超えて初めて踏み込む宇宙空間。
みんな胸を高鳴らせ、足もとはふわふわしていた。無重力空間だから当然なのだけど。
通常航行でしばらく加速したあと、新型エンジンに切り換えるアナウンスが流れた。
もうそれだけでも胸がいっぱいだった。この先さらに、何があるだろうか。わからない。わからないからテストをする。何度も試して確かめる。
この航行は最初のテストだった。だから文字通り不測の事態が起きた。
あらかじめ燃料を積んでいる内燃機関と違い、ラムジェットは外部の物質を取り込んで推進力に変換する。空間から物質を取り込み、推進力に変換した物質を空間に大量に吐き出す。
それが空間に及ぼす影響は、予想以上に大きかった。今までの小規模な実機試験では確認できなかった、大規模なひずみが空間に発生してしまったのだ。
ぼくらは機体ごと、空間のひずみに落ちた。
†
ああ、失敗か。
ぼくはぼんやりと思った。
遅すぎるスタートと、残りのすべてを費やした『野望』は無に帰した。ぼくのしてきたことは、なんの実も結ばなかった。
「そんなことないよ」
声が聞こえた。
姿は見えない。目を見開いても、なにも見えない。そもそも今の自分に目があるのかすらよくわからない。
それでもその声は、確かな存在としてぼくには感じ取れた。
「きみは、人類の進歩に画期的な一歩を記したんだよ」
「おおげさだな、ユカは」
わざと呆れたような返事をすると、ユカは少しすねたような声を返した。
「信じてないな。さっきの事故はね、人類に時空を超える跳躍技術のヒントを与えたんだよ」
「だとしても、それは技術者の功績で、ぼくのものじゃない」
「そうだね。だけどきみがこのイベントを立ち上げなければ、ここまで実現しなかった。時空跳躍の実用化にはまだ百年単位の年月がかかると思うけど、でもそのきっかけを作ったのは間違いなくきみだよ」
「……それは誇っていいのかね」
苦笑いしか出なかった。それに答えるユカの笑いは、優しかった。
「やりたいこと、できた?」
「よく、わからない。だけど、頑張ったよ」
「そっか。えらいね」
ユカが頭をなでてくれる気配がする。
ぼくは今、ユカと同じ次元にいる。数十年の時を経てユカと一緒にいる。とても当たり前に思える自分が可笑しかった。
「雲くじらも、安心したみたいだよ。人類の進歩に力を貸せたって」
そうか、忘れていた。
ぼくは雲くじらに会いに行こうとしていたんだった。
「雲くじらって、なんなの?」
ユカの心情も、困惑を示す。
「あたしたちとは全く別の存在。そうとしか言えない。彼自身も自分を定義できていないみたい。
だけど、昔々からあたしたちを守ってくれている。人類を手助けしてくれている」
「その恩人に、今回はぬれ衣を着せちゃったなあ」
「そうだねえ」
ユカも苦笑いだ。
「自分に歯向かう恩知らずが逆鱗に触れた、そうとしか見えないかもね。きみみたいな向こう見ずがもう何人か、雲くじらに挑むまで疑いは晴れないんじゃないかな」
「それ、褒めてるの?」
「あはははは」
楽しそうに、ユカが転げまわっている。
「あたしたちはまだ、直接彼と意思疎通できる階梯にない。けど、きみのおかけでまた一段階梯を上がれるわ。そして今回のことで、本気で雲くじらを解析しようとする人が出てくる。もう少しで直接話ができるようになるよ」
「次元跳躍に、雲くじらとお話し、か。気の遠くなるような話だな」
ため息をつくぼくに、ユカが笑いかける。
「どっちにしろ、あたしたちの役目はおしまい。後のことは、これから続く人たちの仕事だわ。
それでね。今なら時空のどのレベルにも行けるって雲くじらが言ってる。過去でも、未来でも。どんな場所でも。どこか見ておきたいところはある?」
いきなりそんな漠然とした条件を出されても、思いつかなかった。未来はちょっと見てみたい気もするが、今さら過去のどこかを見て、どうなるものでもない。
「……だけど、そうだね。もしかなうなら……」
ぼくの答えに、ユカの喜びの感情が伝わってくる。
ぼくら二人の、はじまりの地。宇宙と人類の進化にほんのちょっと貢献した、知られざる偉人たちの、知られざるエピソード。
それはぼくら二人、そして雲くじらだけが知っている物語だった。
†
「うわあ! きれいな空だねえ!」
ぼくのとなりで、ユカが思わず声をあげる。
抜けるような青い空が頭の上いっぱいに拡がっている。
その空のなかにぼくとユカはいて、はるか下方のぼくとユカを見下ろしていた。
「変な気分だな。これもタイム・パラドックスに抵触するのかな?」
独り言のようなぼくの言葉に、ユカがくすくす笑う。
「見てるだけなら、なんにも変わらないよお。でも、そうだねえ……。ここからちょっと細工して、きみの未来を変えちゃったら、どうなるかなあ? ねえ、雲くじら?」
それは、そこにいた。
くじらの形かどうかは分からない。ただ存在を感じるだけだ。とても大きくて、安心できる存在。
その背びれが、空をなぞる。空にひとすじ、細い三日月のように白い雲が切り込まれる。
『あっ! くじら雲だ!』
『えっ? どこどこ?』
『ほら、あそこよ。見えないの?』
「ここでもうひと押ししたら、きみの将来は変わるかなあ?」
いたずらっぽいユカの笑いは、しかし不審の声に変わる。
「どうしたの? 怒った?」
「いや、そうじゃない。多分変わらないよ。変わらなくていいんだ」
黙ってのぞき込む気配のユカに、ぼくは答える。ぼくらを見上げるぼくらを見下ろしながら。
「あの時ユカと一緒に夢を目指していたらって、何度も思ったよ。でもそしたら、こうしてきみともう一度会うこともなかったろうし、人類へのささやかな貢献もなかった。つらいこともいっぱいあったけど、楽しかったよ。だから、これでいい」
「そっか。楽しかったんだね」
「うん」
その時、地上のユカは口調を改めて、仰々しく言った。
『貴彦、そなたはわらわが偉業、その目で見届けるがよいぞ』
「うん、見届けたよ。たしかに」