小説・土蜘蛛草紙
1
神無月も二十日をすぎた初秋の午后。
紅葉狩りの帰路であった。
源頼光と渡辺綱が空飛ぶドクロの怪異を目撃したのは蓮台野。
洛外の貧しき人々が死者の亡骸をうち捨てていく野ざらしの侘しき墓場であった。
枯野をゆらす風の音に時おり腐肉をむさぼる野犬の気配がまじる。
だれもがさけてとおる道だが、酔狂なふたりの武士は臆することなく馬をすすませていた。
はじめに気づいたのは頼光であった。
おぼろな光をはなつドクロがひとつ、音もなく空を疾ると雲の中へ消えた。
紅葉狩りの興は一気に醒めた。
「見たかよ」
「確と」
「追うぞ」
「御意」
頼光の言葉に綱がうなづくとドクロの消えた方角へ馬首をめぐらせた。
平安京の守護者たる武士の血がわきたっていた。
2
源頼光は清和天皇の後裔である。
本来、供の者をひとりしかつけず気軽に出歩けるような身分ではないが、詩歌に興じるだけしか能のない脆弱な貴人ではない。
腰に帯びた三尺の太刀は「宝剣十柄」に数えられる名刀〈膝丸〉。
あまたの戦場を血刃で駆けぬけた音にきこえし猛賁名将である。
頼光につきしたがう渡辺綱は、簡素なヨロイの腹巻を身にまとい、弓箭を左右にそなえた武者姿であった。
立烏帽子に狩衣と云う頼光にくらべると、いかにも物々しい。
頼光は無粋な綱を紅葉狩りへつきあわせたつもりだが、綱は頼光の護衛任務としかとらえていなかった。
美しい紅葉を愛でながらも、頼光の身辺へ目をくばる生真面目さと無骨さに綱の人柄がにじみでていた。
十人の郎党をひきつれるより、綱ひとりの方がずっと頼りがいがある、と頼光は思う。
いずれにしろ、名にし負う武士のふたりが怪異を見すごすはずもなかった。
3
風のように空を征くドクロの航跡があえかな光の道しるべを描いていた。
雲の中へ見えかくれするドクロとその航跡を見失うまいと、ふたりは必死で馬を駆る。
次第に高度を下げるドクロの航跡は神楽岡までくると途絶えた。
「このあたりでございますな」
「うむ。そのようだな」
綱の言葉に頼光がうなづいた。
手綱をひきしぼり馬上から周囲を見わたしていた渡辺綱が、
「お館さま。あれを」
そう弓で指ししめすと、大きな古い屋敷があった。
屋敷の内で蛍の光のようなあわい瞬きをとらえた気がした。
「なるほど。そのようだな」
頼光が馬首を向けた。綱も轡をならべて頼光につづく。
いつのまにか空はどす黒い血のような夕焼けに染まっていた。
4
源頼光と渡辺綱は大きな古い屋敷の前で馬を下りた。
空飛ぶドクロはこの屋敷へ消えたらしい。
「絵に描いたような葎の門ですな」
渡辺綱が苦笑した。
「葎の門」とは荒れはてた屋敷を指す言葉である。
文字どおり棟門前には葎や雑草が鬱蒼とおいしげっていた。
綱は手にした弓で雑草をはらいながら頼光を先導した。
雑草の露で衣の袖をぬらしながら棟門をくぐる。
「ほう」
荒れ放題の庭園に足を踏み入れた頼光が感嘆の声をあげた。
おそらくは、それなりに由緒ある公卿の屋敷だったのであろう。
庭園の西には紅葉を植樹した築山が高雄を彷彿とさせる紅綿の彩りをみせていた。
かつては、翠瑠璃の水をたたえていたであろう南の池は黒くよどみ、雑草にうもれて咲きみだれる菊や秋の花々がそこはかとない哀れをさそう。
「見事な庭であったのだろうな」
「たしかに」
綱も首肯した。
しかし、今やその場で鼻をつくのは猫の小便や腐肉のすえた臭いである。
見れば、足元には動物の糞や小さな鳥獣の骨が散乱していた。
綱は荒れはてた屋敷に栄枯盛衰の無情をおぼえた。
ふたりは庭園を縦断し中門をくぐった。
「儂が屋敷の中を見てまいる。綱はここで待っておれ」
こともなげに云う頼光へ綱が反駁した。
「お館さま、危のうござります。斥候はみどもにおまかせくだされ」
いかにも家臣らしい綱のもの云いに頼光がニヤリと唇をゆがめて笑った。
「待つのは性にあわん。綱をここへのこすは何事か起きた時に退路を確保するためじゃ」
「……御意。くれぐれもお気をつけて」
綱があっさりひきさがった。
子どもの頃から仕えてきたので彼の性格は知りぬいている。
云い出したらきかないきらいはあるが軽挙妄動する質ではない。
頼光へよせる信頼と忠誠心がよけいな口をきかせなかった。
「うむ。綱も油断するな」
頼光はあたりをきょろきょろと注意深く確認しながら屋敷へ向かっていった。
(まったく、子どものようなお人だ)
綱が微苦笑した。頼光の背中が冒険心をかくしきれず楽しげに踊っていた。
5
屋敷は長いこと放置されていたらしく、人の出入りした形跡はなかった。
ほこりまみれの白ぼけた板敷にのこるのは小禽の足跡と小さな糞ばかりである。
見事な筆跡で描かれた水墨山水画の障子をひきあけひきあけ奥の間へ進むと、頼光は小さく眉をしかめた。
貴人の寝所であったらしい。
華麗な綿織物で縁どられた畳の上に衾(昔の夜具)をひきかぶった女性の白骨死体があった。
よくよく見ると頭の位置がおかしい。どうやらこれが空飛ぶドクロの正体であるらしい。
頼光は口の中で念仏を唱えた。
死の充満した室内の空気がよどんでいた。
頼光が風をとおすべく四方の障子をあけはなつと、西へ位置する炭櫃のしつらえられた一間に、みがきあげられた包丁とまな板が置かれていた。
その横へ不自然に置かれた几帳の裾の裏になにかがある。
頼光は〈膝丸〉の太刀を音もなく鞘からひきぬくと、太刀の峰で几帳の裾をまくりあげた。
ごとりとにぶい音がしてまろびでたのは、まだ新しい男女の生首であった。
頼光はふりかえると〈膝丸〉の太刀で炭櫃をまさぐった。
白い炭の下から焼けこげた人骨のカケラがでてきた。頭部はない。
(空飛ぶドクロは贄となる人間をこの屋敷まで運んでいたようだな。……頭を喰らう化物と身体を喰らう化物が別にいると云うことか?)
屋敷の外へ待機させている渡辺綱をよびよせるべきか思案していると、几帳に目かくしされていた台所へとつづく遣戸がガタガタと鳴りだした。
遣戸の裏手から激しい人の息づかいと遣戸をうちたたく音がひびく。
だれかがとじこめられているようだ。
「待て。今あけてやる」
頼光の声に遣戸をうちたたく音がやんだ。
犬のように荒々しいあえぎ声が頼光を無言で急かす。
頼光が遣戸をひらくと、冥い台所へうずくまる人影があった。
「きさまは何者だ。いろいろと説明してくれぬか?」
誰何する頼光にうずくまる人影が、かふかふと空気のもれるあえかな声でこたえた。
「わらわは二九〇歳になんなんとす老婆にござります。この屋敷で九代の主君にお仕え申しあげました」
台所の冥さに目のなれた頼光が見たのは、この世のものとも思われぬ醜悪な白髪の老婆であった。
白骨死体や生首を見ても臆することのない頼光ですら、老婆の凄惨な姿には内心狼狽した。
めくりあげられた両目の赤い上まぶたが、それぞれ小さな錐のようなもので額へ打ちつけられていた。
抉である。本来はヒモの結び目をほどくための道具だ。強引にみひらかれた目からは涙のような細い血の筋がたえず流れている。
口も笄のようなものでこじあけられていた。
めくりあげられた唇がひきのばされ、襟首で縫いあわされていた。よだれが滝のように下あごを伝う。
しなびてだらしなくたれ下がる乳房を前かけのようにひろげて膝までおおっていた。乳房は血とよだれで黒ずみべたべたに汚れている。
「このあたりには化物が棲むとうわさされ、長いことだれも訪れる者はおりませなんだ。老いさらばえた我が身には、ほかにゆくあてもございませぬ。孤独にひとり耐えながら日々泣き暮らしておりまし……ひっ……ひっ……」
それはあたかも与えられた台詞を棒読みする三文役者のように無感情な口調だったが、云いおわらぬうちに老婆が妙な声をあげ、ガクガクと痙攣しはじめた。
老婆の表情が一変すると、必死の形相で頼光へ懇願した。
「わらわを殺してたも! 殺してたも! ……死よりわらわの望むものなし……、殺してたも! 殺してたも!」
(哀れな……)
頼光は〈膝丸〉の太刀を鞘におさめながら嘆息した。
この老婆は空飛ぶドクロを使役する化物の呪縛で、贄となる人間をさばく仕事を何百年もさせられてきたようだ。
おそらくは、自分が人間を斬り刻む仕事をしていたことにも気づいていなければ、すでに自分が生ける屍であることにも気づいていない。
無惨にめくりあげられた唇やまぶたは老婆を死なせぬための忌まわしき呪法である。
老婆を殺さずとも、化物を退治すればおのずと老婆の魂も解放されるであろう。
「儂に罪なき者は斬れぬ。しばし待っておれ。きさまの苦しみは儂がかならずおわらせてくれよう」
頼光は踵をかえすと、まだ探索していない東の奥の間へ足を向けた。
「殺してたも。殺してたも。殺してたも。殺してたも……」
頼光の背中に念仏のようにつぶやく老婆の声がいつまでもつづいていた。
6
屋敷から聞こえてきた騒々しい物音に渡辺綱は駆けだした。
屋敷北西の角部屋が大きくあけはなたれており、台所へとつづく遣戸の前で凄惨な姿の老婆が譫言のように、
「殺してたも。殺してたも。殺してたも。殺してたも……」
とつぶやいている。
綱は奥の部屋へ入ってゆく源頼光の背中をのぞきみて、とりあえず安堵した。
どす黒い血のような夕焼け空が東のはてから濃紫に暮れる。まがまがしい色彩の宵闇が冥さを増すにつけて、ふきすさぶ風のいきおいも強くなる。
やがて遠雷がひびいたかと思うと、屋敷の上へ暗雲がたちこめ、にわかに激しい雨が降ってきた。轟音とともに稲妻が光の龍となって大地へ突き刺さる。
綱は屋敷の外で激しい雨風にうたれながら身じろぎもせずに立っていた。
「退路を確保せよ」
と云う頼光の言葉を忠実に守っていた。
この屋敷に怪異のあることは尋常でない老婆の姿をかいま見ただけでもわかる。
頼光とふたりして化物にかこまれるよりは、頼光へ襲いかかる化物を挟撃する方がよい。
綱が庭から屋敷内の気配へ目を光らせていれば、化物も外から襲いかかることはできまい。
(化物よ、くるならきてみろ。かえり討ちにしてくれる)
ますます激しさを増す風雨の中で、綱の双眸は炯々(けいけい)とかがやいていた。
7
一方、屋敷の奥へとすすむ頼光は、四方を障子でしきられた一間へ足を踏み入れた。
間(部屋)の中央に一脚の燭台があり、ぽっと火がともるや否や、頼光のあけた障子が鋭い音をたててしまった。
頼光は燭台のともる一間へとじこめられた。
(……おもしろい)
頼光はニヤリと唇をゆがめて笑うと、燭台の前に悠然と座し、瞑目した。
どんな趣向を凝らすつもりかと化物の出方を待つ。
冥い間の中で燭台の灯りだけがゆらゆらと命あるもののようにゆれている。
待っていたのが短い時間だったのか、長い時間だったのかさだかでない。
突如、早鼓のような足音が鳴りひびくと、四方の障子が見えない力で乱暴にあけはなたれた。
頼光がしずかに目をあけると、間の障子をへだてて数かぎりない異類・異形の化物がぐるりをとりかこんでいた。
(……付喪神か)
付喪神は百年を経た器物が霊性を宿した化物である。頼光は周囲にむらがる化物を冷静に観察していた。
付喪神には群れ集い、邪気をもとめてさすらう百鬼夜行とよばれる習性がある。おそらくは屋敷のまとう邪気にひかれてやってきたのだ。
そもそも付喪神は霊性のひくい化物である。ちょっと人をおどかしてこわがらせるくらいが関の山だ。
その証拠に周囲をひしめく化物たちは、頼光のいる間へ入ってこようとはしなかった。一見、頼光をおどかしているようで、おびえているのは化物たちの方である。
(こざかしい)
頼光が正面をにらみつけると、頼光の全身から常人には感知することのできない光の粒が矢のようにはなたれた。
光の粒にあてられた異類・異形の化物どもが、どおっと笑うと煙のように消え失せた。
そのようすをあわててかくすかのようにすべての障子が音をたててしまる。
そして静寂が訪れた。
8
頼光はふたたび瞑目した。
ややあって「みしり」と遠くからなにかが近づいてくる気配を感じた。
燭台の灯りにてらしだされた頼光の口元に小さな笑みがうかんでいた。この状況を心底楽しんでいる。
正面の障子がしずかにひらくと奇妙なモノがいた。
強いて云えば、人の姿をしていた。
〈尼〉である。しかし、異形であった。
背がひくかった。三尺(約90センチ)ほどしかない。
(白楽天の詠んだ「道州の民」とはこのような者であろうか?)
頼光が場ちがいなことを思った。道州の民がこの〈尼〉の姿を見たら一緒にするなと憤慨したはずだ。
頭が異様に大きかった。紫の頭巾をかぶったその頭は、身の丈三尺にして二尺ほどもある。
太々と描かれた眉にどぎつい頬紅。子どもの化粧のようにあどけなくぶざまだった。
上半身は裸だった。燭台の灯りに雪のような白い肌がうかぶ。
糸のように痩せ細った腕をぶらりと下げたまま〈尼〉は真紅の長袴をひきずりながらいざりよってきた。
頼光と目のあった〈尼〉が婉然とほほ笑んだ。紅い唇からのぞく二本の前歯だけが鉄漿で黒い。
〈尼〉は燭台のそばまでくると枯れ枝のような腕をのろのろと上げ、灯りをふきけそうとした。
頼光が無言でにらみつけると〈尼〉は陽炎のようにゆらめいて消えた。さきほど頼光に追いはらわれた付喪神たちが化けていたのだ。
(……とどのつまり、今のはなんだったのであろう?)
頼光は苦笑した。
こわがらせようとしたのか笑わせようとしたのか意味がわからなかった。
9
いつの間にか、外の嵐はやんだらしい。
(……そろそろ鶏人の暁を告げる刻限であろうか?)
鶏人とは宮中で時間を告げる役人のことである。
どうやら頼光はこの屋敷で一夜をあかしてしまったらしい。
(綱には気の毒をした。この程度の〈演し物〉とわかっていたら、綱にも楽しませてやったものを)
一晩中、激しい風雨にさらされながら、愚直に立ちつづけていたであろう渡辺綱を思って、頼光はいささか後悔した。
しかし、いまだ怪異の大元は割れていない。哀れな老婆を救うためにも、これ以上の犠牲者をださぬためにも、人を喰らう化物は見つけだして退治しなければならない。
(とりあえず、綱と合流するか)
頼光が腰を上げかけると足音がした。綱のものではない。化物にしては軽いように思われる。
正面の障子が細くひらいたかと思うと、すぐにしまる。そんなことが数回くりかえされた。
障子の向こうにかいま見えたのは可憐な姫であった。
恋する乙女がいたずらに部屋のようすをのぞき見る。そんな恥じらいさえ感じる所作である。
頼光は立ち上がると、障子を両手で荒々しく左右へあけはなした。美しい姫はしずしずと歩みより、頼光の前へ座した。
絶世の美女であった。傾城と謳われた楊貴妃や李夫人にもおとらないであろう美貌である。
さすがの頼光も馥郁たる色香に陶然とした。
化物の虜囚となっていた屋敷の女主人が、化物を退治しにきた頼光と綱へ感謝の意を表しにあらわれたものと錯覚しかけた。
しかし、突如、屋敷の中へふきこんだ清冽な朝の風が鼻腔をくすぐると、頼光の正気をよび醒ました。
化物の巣窟と化したこの屋敷で、まともな人間が生かされているはずもない。
身がまえる頼光に、色じかけが失敗したことを悟った美女は、つと立ち上がり背を向けた。肩にこぼれ落ちるぬばたまの長い黒髪をかきあげながらふりかえる。
燭台にゆれる灯りをにらみつけた女の双眸に炎が映りこんでいた。透き漆を刷いたような瞳に灯る炎は頼光への怒りと恨みに燃えていた。
美女に弱いは漢の常である。理性が化物と告げているのに感情が邪魔をする。
そんな頼光の心の隙を女は見のがさなかった。
女は袴の裾を蹴り上げると、鞠のような白雲のかたまりを十個ほど頼光へたたきつけた。
頼光の視界がもやで白く染まる。
しかし、頼光は果敢に踏みこむと〈膝丸〉の太刀を渾身の力でうちふるった。
もやが晴れると女の姿も消えていた。
頼光の太刀〈膝丸〉は屋敷の板敷を斬りとおし、柱の礎石をうち割っていた。すさまじい膂力である。
あたりにはおびただしい量の白い血が飛散していた。
「お館様、ご無事ですか!?」
屋敷の外で待機していた渡辺綱が血相をかえて飛びこんできた。巨大な白雲が屋敷から飛び去ったからである。
「おお、綱。息災であったか?」
「なにをのんきな。それはこちらのセリフでございます」
「うむ。化物が美女の姿であらわれての。ちと油断した。斬りそこなったわい」
かっはっは、と頼光が豪快に笑う。
あきれ顔の綱の手をかり、板敷から〈膝丸〉の太刀をひきぬいた。
「化物に深手を負わせたようですな。しかし〈膝丸〉の太刀の切先が折れてございます」
綱の云うとおり、太刀の切先がきれいに欠けていた。欠けた太刀にも白い血がしたたり落ちる。
「にげた化物の血の痕が点々とつづいております。これをたどれば化物の根城もわかりましょう」
「うむ。ゆくぞ、綱」
「御意」
板敷の間に点々とこぼれ落ちる白い血の痕をたどると、昨夕出会った老婆の台所へでた。
老婆の姿はなかった。簀子(縁側のわたり廊下)から庭へと赤い血にまみれた二本の抉と笄がころがっていた。
「いきがけの駄賃に喰ろうたかよ」
頼光の奥歯がギリリと鳴る。
哀れな老婆を救うすべは死よりほかになかった。喰い殺されたことで生ける屍としての軛から解きはなたれたとは云え、魂まではうかばれまい。
(すぐに仇はとってやる)
10
化物の白い血の痕は屋敷の外へつづいていた。
ふたりは棟門をでて馬にまたがると、血の痕を追いながら西へと歩をすすめた。
やがて山が見えてきた。
頼光と綱は山に入ったところで馬を下りた。化物の白い血の痕は山の上へとつづいている。ここから先は徒歩よりほかはない。
はじめは、かろうじて人の踏みかためたような山道がつづいていたが、次第に獣道とかわっていった。鬱蒼とおいしげる枝草をなぎはらいながらひたすら歩きとおす。
山の奥深くまでわけ入ると、遠目に大きな洞窟が見えた。先を歩いていた頼光が足をとめ、片手で綱を制した。
「いかがなされました?」
綱がささやいた。
「見ろ」
まがまがしく口をひらいた洞窟の両脇に異形の者が座りこんでいた。人の倍はあろうかと云う巨大さである。
一匹は灼熱の溶岩さながらに赤い肌、もう一匹は冷めた溶岩に粉を吹いたような青黒い肌で、獣の皮を縫いあわせた粗末な腰布をまとっていた。
額から生えた二本の角。獣のように鋭いかぎ爪。
鬼であった。
赤鬼青鬼は洞窟の両脇へもたれかかり、足元につまれた人間の身体をにちゃにちゃとしがみつづけていた。食事に夢中で木陰にひそむ頼光と綱には気づいていない。
「さしずめ門番と云うわけですな」
「……なるほど。人の頭をあの化物が喰らい、胴体をこいつらが喰らっていたわけか」
頼光がひとりごちる。
「お館さま、いかがなさいますか?」
そう訊ねる綱の顔に不敵な笑みがうかんでいた。
本当は訊くまでもない。
頼光は切先の欠けた太刀を鞘からしずかにひきぬくと云った。
「しれたことよ。たたき斬る」
「御意」
「赤いヤツから狙え」
頼光は一言告げると、樹陰にまぎれて赤鬼の正面へ移動した。
頼光の位置どりを確認した綱が、たずさえていた強弓をぎりぎりとひきしぼり、赤鬼めがけて矢をはなった。
轟っ! と大気をひき裂いて飛ぶ矢が無警戒だった赤鬼の眉間へ深々と突き刺さる。
「がっ……!?」
一瞬、自分の身になにが起きたのかわからなかった赤鬼がうめいた。
矢に射ぬかれた衝撃で顔の上がった赤鬼が目にしたのは、太刀をふりかざし怒濤のいきおいでせまりくる頼光の姿であった。
「ぬん!」
頼光が裂帛の気あいで赤鬼の首へ横なぎに斬りつけた。
岩のようにかたい赤鬼の筋肉へみしりと刃が喰いこむ。
襲撃に気づいた青鬼が腰を上げかけたところへ、綱の矢が急襲した。
青鬼は体を横倒しにして、間一髪、その矢をさける。
「でえいっ!」
頼光が尋常ならざる膂力で赤鬼の首を斬り落とした。白い血しぶきが舞う。
首をはねられた赤鬼の身体が痙攣して跳ね上がると、青鬼へ突進しようとしていた頼光に向かって倒れこんだ。
「くっ!」
棒立ちで倒れこんだ赤鬼の巨体をかろうじてかわした頼光がバランスを崩して地面へころがった。
樹陰を移動しながら矢を射かける綱に翻弄されていた青鬼が、ころんだ頼光に気をとられた刹那、綱の矢が青鬼の二の腕に突き刺さった。
「ぎひぃぃぃ!」
その間に身を起こした頼光が太刀をかまえなおす。
赤鬼への奇襲は成功したが、青鬼との戦闘は持久戦になりそうだった。暴れまわる巨大な青鬼の手足を一刀両断するのは、頼光であっても容易くはない。
青鬼が頼光に気をとられている隙をついて綱が射る。
青鬼が綱に気をとられている隙をついて頼光が斬る。
そうやって徐々に青鬼の体力を奪っていくしかない。
この場合、青鬼に姿をさらしている頼光がおとりの役目を負わざるを得ない。
青鬼と対峙する頼光の身を案じて樹陰からでてこようとした綱の気配を察して、頼光が目配せした。
死角からの弓撃をつづけよ、と。
腕をふり、足を踏み鳴らす青鬼の攻撃をかわしながら、頼光が青鬼の足へ斬撃をくりだす。あさい傷でも斬られれば痛みはある。
「ぐふうっ!」
青鬼が小さくうめいた。頼光へ気をとられた隙に、綱の矢が青鬼の背中へ突き刺さる。
「がああああっ!」
苦悶の咆哮をあげた青鬼が、綱のひそむ樹陰めがけて突進すると、あたりの木々を腕のひとふりでなぎ倒した。
しかし、弓をはなつと同時に移動していた綱の姿をとらえることはできない。
激昂した青鬼はふた抱えもある大きな樹を強引に地面からひきぬくと、青々としげる枝で地面を掃き飛ばすように、背後の頼光へふりまわした。
さしもの頼光もかわすのが精一杯である。
青鬼はひきぬいた樹の根元を頼光へ向け、青々とした枝の方で身体をかくすようにかまえてふりまわした。
綱の矢を防御しつつ、頼光をたたきつぶす魂胆である。
「猿ならぬ鬼の浅知恵と云うやつじゃの。……こざかしい」
太刀をかまえた頼光の口元に笑みがのぞく。
たしかに、頼光ひとりであれば、青鬼の抱えた樹が邪魔で間あいへ入りこむことはむずかしい。
しかし、頼光はひとりではない。
這々(ほうほう)の体で青鬼の攻撃をかわすふりをした頼光は、大きく自身の左側へにげた。いきおいづいた青鬼が頼光へ身体をひらく。
先刻は青々としげる枝ぶりで青鬼の身体がかくれていたが、今、綱のいるところからは樹を抱えた青鬼の腕が丸見えであった。
即座に綱の矢が青鬼の右肘を射ぬく。
「げひぃぃ!」
間髪入れず二の矢が飛ぶ。
次に射ぬいたのは青鬼の右膝である。あまりの痛みに青鬼が膝をつく。
一の矢がはなたれたあと、ひそかに青鬼の左側へまわりこんでいた頼光が、青鬼の抱えていた樹へ飛びうつると、そのまま樹の太い幹を青鬼の肩口まで駆けあがり、大上段から青鬼の頭をたたき斬った。
ふたつに割れた青鬼の頭部がだらりと力なく折れる。
頼光は青鬼の肩を蹴り、巨体をあおむけに倒すと、そのまま跳躍して地面へ降り立った。
白い血にまみれた太刀を鬼の腰布でぬぐうと鞘へおさめる。
「お見事にござります」
綱がまだ使えそうな矢を拾いあつめながら頼光を賛美した。
「なあに。綱の弓の腕があってこそじゃ。お主こそ見事であった」
「恐悦至極にぞんじます」
「あいかわらずカタいの、お主は」
破顔する頼光に綱が微笑と目礼でこたえた。
頼光はかるく伸びをして深呼吸すると、まがまがしい洞窟の入口へ向きなおった。
洞窟の入口から白い血が細く流れている。彼らの追ってきた化物はまちがいなくこの先にいる。
11
「さて。雑魚相手の余興も済んだことだし、そろそろ化物の親玉を退治てくれようか。参るぞ、綱」
「……しばし、お待ちください」
洞窟へ足を踏み入れようとした頼光を綱が制した。
「いかがいたした?」
「気になることがございます。……お館さまの御太刀の切先にござりますが、あれは折れたのではなく折られたようにぞんじます」
「ふむ」
「中国は楚国に眉間尺と申す者の故事がございます。親孝行な彼はいかなる時でも両親を護れるように、剣の切先をかくしもっていたと云います」
「ふむ?」
「つまり、化物がお館さまの御太刀を折ったのは、その切先をかくしもち、みどもらへの武器として使う魂胆ではないかと」
「なるほど」
「あえて、お館さまの切先をうばったのは、なんらかの呪術をほどこすつもりなのやもしれませぬ」
綱の言葉に頼光が苦い顔をして首肯した。
呪いたい相手の身体の一部(たとえば毛髪など)や、相手の身につけているものを用いるのは呪術の基本である。
陰険な呪術を嫌悪する頼光でも、その程度の一般常識はもちあわせている。
平安貴族の世界は呪術の世界である。云いかえれば、京の都は魔術の都であった。
和歌を詠み、太平の世を祈念する言霊信仰、鎮守国家や病気平癒を祈念する加持祈祷のような〈正〉の呪術がある一方で、陰ながら人を呪い殺す〈負〉の呪術もたびたび禁令がだされるほど横行していた。暗殺の常套手段だったのである。
「空飛ぶドクロを使役し、哀れな老婆をむごたらしい姿で生かしておく化物の呪術は、そこいらの陰陽師以上の腕かと」
「同感じゃ」
「ここは藤や蔓で身代わりとなる人形を作り、烏帽子・狩衣を着せ、前にたたせてすすむのがよろしいかとぞんじます」
「用心深いことだな。よかろう。綱の云うとおりにしよう」
頼光は綱の提案をすなおに了承した。
ほかの郎党の提案であれば一笑に伏したかもしれないが、綱は決して臆病な漢ではない。
頼光は歴戦の強者である綱の直感をだれよりも信頼していた。
ふたりはまわりの藤や蔓を斬り、たばね、人のかたちに整えると、綱の烏帽子、頼光の狩衣を着せた。
身代わりの人形を押したててすすむ綱のうしろから、綱の箙(腰に下げた矢筒)へかるく手をそえ、切先の折れた太刀を肩にかけた頼光がつづく。
ふたりが洞窟へ足を踏み入れると、湿気を帯びた濃密な空気がじっとりと肌にまとわりついた。
そこはかとなく鼻につく異臭も不快指数を跳ね上げる。足元も見えないほど冥い闇の中で、遠くかすかに小さな光がゆれる。そこが出口である。
四~五町(約500メートル)すすんだところで、ようやく洞窟の出口へたどりついた。
身代わりの人形を盾にしているとは云え、いきなり洞窟から飛びだすような真似はしない。壁面にはりつき、身を低くかがめて外のようすをうかがう。
洞窟の外はすり鉢状の窪地で、奥に古びた倉が見えた。
倉の屋根瓦の隙間からは松が生え、垣は苔むしていた。倉の上に濃いもやがかかっている。
「あの倉の中か……」
頼光がつぶやいた。
白い血の流れは倉の中から細々とつづいていた。
綱が倉を凝視すると、一匹の巨大な化物が倉の入口から頭だけだして横たわっていた。
異形である。
全身は倉の中にあって見えないが、全長は二丈(約6メートル)ほどあるらしい。
頭は複雑な紋様の綿織物をかぶっているかのようであった。
大きな双眸が日月の光のようにギラギラとかがやいている。
疑いようもない。この化物が館の姫の正体であった。
「なるほど。あれが妖しの美女の正体であったか。ざんねんなことよ」
嘆息する頼光に綱が訊ねた。
「お館さま。よもや、あの化物とみだらな行為におよんだと云うことは……」
「見そこなうな、綱。儂はそこまで色狂いではない」
ふたりは小さく笑った。もちろん冗談である。
強大な化物を眼前にひかえてなお、冗談を云いあうだけの余裕がある。
「しかし、あの倉はジャマじゃの。金の字と戦斧があれば楽勝なのだが……」
金の字と云うのは〈頼光四天王〉のひとり、強力無双の巨漢・坂田金時である。
「まさかりかついだ金太郎、熊にまたがりお馬の稽古」と歌われる金太郎こそ、坂田金時その人である。
山育ちの金時は薙刀ではなく、特注の戦斧を武器として使う。金時の戦斧にかかれば、堅牢な城門であっても、うち破るのは容易い。
「まったく図体ばかり大きくて、肝心な時に役にたたぬ漢でございます。……隙を見て、ふたりでひきずりだすしかありませんな。季武がおれば、すぐさま妙案を思いつくのでしょうが」
卜部季武。〈頼光四天王〉のひとりで知謀に秀でている。
「ふふ。さすれば貞光の役まわりはなんであろうの?」
頼光が〈頼光四天王〉最後のひとりの名をつぶやいた。
碓井貞光。弓の名手である。
坂田金時・卜部季武・碓井貞光の三人に綱をくわえて〈頼光四天王〉と称される。
「貞光の弓であれば、この間あいからでも、化物の額を射ぬくことができるやもしれませぬ」
しかし、綱の腕ではムリだ。万が一しとめ損なって、化物が倉へ籠もれば退治するのがむずかしくなる。
頼光と綱が化物を倉からひきずりだす算段をしていると、 突如、化物の顔がぐるりと回転して吼えた。
「痛いぞえ、痛いぞえ。こざかしき人畜生にうけた疵がキリキリと痛むぞえ!」
化物の叫びがおわらぬうちに、倉の上へうかぶ白いもやの中から、異様な光をはなつなにかが綱のもつ身代わり人形を刺しつらぬいた。
ややあって、身代わり人形の上半身と下半身が「みしり」と裂けた。
下半身とともに大地へ落ちたモノに頼光は瞠目した。
身代わり人形を刺しつらぬいていたのは、刻折りとられた〈膝丸〉の切先であった。
切先のおもてに白い血で呪の書かれた痕跡が見える。
(……綱の読みどおりとは。やはり、この漢ただ者ではない)
頼光には思いおよばぬ智慧である。綱の〈戦場〉での勘の冴えをあらためて頼もしく思った。
一方、今のが手傷を負った化物の渾身の一撃であったらしい。
身代わりの人形を刺しつらぬいたことにも気づかず、頼光が死んだと思いこみ、化物はギラギラとかがやく双眸をとじると眠りについた。
「用心が役にたちましたな。化物は油断して眠りこんだようでございます」
頼光と綱は息をひそめて、しばらくの間、化物のようすをうかがった。
頼光が屋敷で浴びせた一太刀がよほどの深手であったらしく、化物は眠りながら時おり苦悶の表情をのぞかせていた。
綱が弓箭をおろして身軽になった。
「さて。化物をひきずりだすかよ」
頼光と綱が化物の眠る倉へ音もなく忍びよった。
化物の全貌を見てとったふたりは、あらためてその大きさに息をのんだ。
倉の中へ横たわっていたのは、鬼のような頭にクモの胴体をもつ巨大な化物だった。八本の足が窮屈そうにおりたたまれている。
「お館さま、こやつは……?」
「おそらくは、土蜘蛛(山蜘蛛)じゃ。太古よりかの地に巣くう禍津神の裔であろう」
頼光は足元に落ちていた石を拾うと、綱へささやいた。
「左右のうしろ足から同時にたたき斬り、踏んばりがきかぬようにした上で、倉からひきずりだす。綱、反対側へまわって位置についたら、この石を投げろ。この石の落ちた音を合図にたたき斬る」
「御意」
「倉の隙間はせまい。壁面にたたきつけられぬよう気をつけろ」
「お館さまこそ、御油断めさるな」
「わかっておる」
頼光が真顔でうなづくと綱が無言で移動を開始した。頼光も土蜘蛛のうしろ足へ移動する。
位置についた頼光が切先の折れた太刀をかまえて合図を待った。
ほどなくしてヒュッと空気を裂く音がすると、倉のかたい石の床に石のあたる音がカツンと小さくひびいた。
「ふんっ!」
「でえいっ!」
頼光と綱が土蜘蛛の一番太いうしろ足へ太刀をふりおろした。
綱の佩く太刀も頼光から拝領した「宝剣十柄」のひとふり〈鬚切〉である。
土蜘蛛の足がざくりと斬り落とされた。
異常に気づいた土蜘蛛が目を覚ますと同時に白い血しぶきが舞う。
「ギキキィィ!」
うしろ足を切断された土蜘蛛が耳ざわりな叫びをあげながら、せまい倉の中で体をゆすった。
ふたりは倉の壁と土蜘蛛の巨大な体躯にはさみつぶされぬよう、ぎちぎちとうごめくのこりりの足元をかいくぐりながら、さらに土蜘蛛の足へ斬りつけていく。
「おのれ! よくもよくも、この人畜生どもが!」
土蜘蛛の頭が跳ねあがり、倉の天井をぶち破った。
瓦や木や土くれがもうもうと舞い降りそそぐ中、頼光と綱が頭をかばいながら倉の外へ脱した。
ガレキの山と化した倉の中で土蜘蛛が目をギラギラと光らせながら立ち上がろうともがいていた。
しかし、左右にかろうじてのこった三本の足も深々と斬りまくられていた。土蜘蛛は足元をひたす自身の白い血の池に足をとられて立つことすらおぼつかない。
「さすがは化物。無茶をしよる」
土蜘蛛から少しはなれたところで身体のほこりをはらう頼光へ綱が訊ねた。
「さて。いかがいたしましょう?」
「くずれた倉のもとでは足場が悪い。やはり、ひきずりだしてとどめをさすべきであろう」
頼光は切先の欠けた太刀を強引に地面へ突きたてると、土蜘蛛へ向かってずんずん歩きだした。綱も頼光の反対側へまわろうとしたが、
「ああ、よいよい。儂ひとりで充分じゃ」
とかるく手をふった。
土蜘蛛はガチガチと歯を鳴らし、射殺さんばかりに頼光をにらみつけるが、頼光はまったく意に介さず土蜘蛛の片側へまわりこむ。
頼光は一本だけのこった土蜘蛛の右足の傷口へ腕をつっこむと、そのまま小脇に抱えて巨大な土蜘蛛の身体をじりじりとひきずりだした。
「ゲヒィィ! ……おのれ……おのれ!」
痛みに耐えかねて吼える土蜘蛛が、これ以上ひきずりだされまいと精一杯の抵抗をみせた。予想以上の抵抗に頼光はひとりごちる。
(ひとりで充分だと云ったが、こいつはなかなかに手強い。今さら綱に手を貸せと云うのも癪じゃ。はてさて、こいつはどうしたものかな?)
ふたたび土蜘蛛をひきずろうと渾身の力をこめた瞬間、なにかがうしろから土蜘蛛の巨体を押す感覚があった。
頼光はそのいきおいを借りて、土蜘蛛の巨体を投げ飛ばすようにガレキの山からひきずりだした。
「……いやはや、これではどちらが化物かわかったものではありませぬな」
ひきずりだされたいきおいそのままにころがって、あおむけに倒れた土蜘蛛の巨体を目のあたりにして、さすがの綱も目を丸くした。
「なんぞ云うたか?」
「いいえなにも。お見事にござります」
頼光は地面に突きたてた太刀をひきぬくと、へくへくと虫の息をしている土蜘蛛の首を躊躇せずにはねた。
土蜘蛛の巨大な身体がビクリと痙攣して永遠に動きをとめた。
「……おわりましたな」
「うむ」
綱が土蜘蛛の死骸へ近づくと、腹のまん中に深々と斬り裂かれた疵があった。頼光が板敷とともにたち割った疵である。
綱が土蜘蛛の疵へ手をかけて腹をひき裂くと、山のようなドクロがガラガラと音をたててころがりでた。
「よもや、これほどとは……な」
頼光が嘆息した。
千はゆうに超える数であろう。これだけ大勢の人間がだれに知られることもなく化物の餌食となっていたことに慄然とした。
「お館さま、これを」
ゴツゴツといびつにゆがむ胃の腑を上へ向かってひき裂くと、未消化の生首が二〇個もでてきた。屋敷の老婆のものもある。頼光と綱は合掌した。
11
「死者たちの魂を丁重に弔ってやらねばならんの」
「なにか穴を掘る道具がないか、倉の方を見て参りましょう」
「うむ。頼む」
頼光がうなづくと、綱がガレキの山と化した倉へと走った。
なおも頼光が土蜘蛛の死骸を検分していると、土蜘蛛の下腹に異様な膨らみがあることに気づいた。
(……これは?)
頼光が太刀をあてると、膨らみが爆ぜて、中からなにかが飛びかかってきた。
「キシャアア!」
喉元めがけて飛びかかってきたそれをはらい落とすと、ビチャッ! と白くはじけてつぶれた。
仔蜘蛛である。仔猫ほどの大きさもある七~八匹の仔蜘蛛が足元をわさわさと這いまわっていた。
「綱! 仔蜘蛛じゃ! 一匹でもにがすと面倒なことになろうぞ!」
頼光が足元の仔蜘蛛を斬りつけていたが、のこりりの仔蜘蛛たちが四方へ散りはじめていた。
異常に気づいた綱が思わず箙へ手を伸ばすが、弓や箙は洞窟の出口へ置いてきたままである。
「くっ!」
洞窟へ向かって駆けだした綱は足元の一匹をたたき斬ったが、すでに窪地の壁面をのぼりだした仔蜘蛛や、洞窟の出口へ向かっている仔蜘蛛がいる。
(まにあうか!)
綱がそう思った刹那、洞窟から矢が射かけられた。一番遠方の壁面にいた仔蜘蛛がはじけてつぶれる。
「お~、いたいた。お館さま、おさがし申しあげましたぞ」
洞窟の中から野太い声がすると、大きな足が仔蜘蛛を踏みつぶしていた。
「金の字! 貞光!」
洞窟からあらわれたのは坂田金時、碓井貞光、卜部季武の三名であった。〈頼光四天王〉である。
頼光の声に応えるかのように碓井貞光が二本の矢を一度につがえてはなつ。
二本の矢はそれぞれ別方向へ向かって飛んでいき、見事、二匹の仔蜘蛛を射ぬいていた。まさに神業である。
「そいつでしまいじゃ!」
綱の声に洞窟の右脇の壁を這いあがる仔蜘蛛を卜部季武が薙刀で刺しつらぬいた。
「一体なんでござるか、これは?」
「いや助かった」
「ご無事でしたか、お館さま?」
「しかし、お主らどうしてここが?」
「まったく、お館さまもお人が悪い。綱とふたりだけでこんなおもしろそうなことを……」
頼光と〈頼光四天王〉の五名が同時に云った。
おたがいの云ったことがききとれず、みなが黙ると、洞窟の中からおくれてのどかな声がひびいた。
「そなたらが昨日の午后よりふらりと姿を消したままお帰りにならないことを心配されて、卜部どのが私のところへ相談へ参ったのでございます」
座した姿のまま、ふわふわと宙にういて洞窟からあらわれたのは、袍に身を包んだ小太りの男であった。
巨大な土蜘蛛の死骸やたくさんのドクロや生首のころがっている凄惨な現場に似つかわしくないほど柔和な笑みをうかべている。
「……おまえか、拝み屋」
「晴明さま!」
頼光が露骨に不快そうな顔を見せ、綱が襟を正して目礼した。
京の都でその名を知らぬ者はいない大陰陽師・安倍晴明である。
陰陽の秘術に精通している晴明にとって、人さがしなど天地の精霊や式神を使役すれば雑作もない。
「なぜ、お前までこんなところへでばってきた?」
頼光が険のある口調で晴明へ訊ねた。
生粋の武士である頼光は陰険姑息な呪術を嫌悪している。
そのため妖しげな術を使う陰陽師も忌避していた。
はやい話が偏見にもとづく差別である。
「金時どのと賭けをしたのでございます。私たちがつく頃に、おふたりの化物退治はあらかた片づいておりますゆえ、ものものしい戦斧なぞ必要ありませぬとなんど申しあげても、おききわけくださらないものですから」
「なにやらこざかしいものがうようよと這いまわっていたではないか!?」
坂田金時が大きな戦斧をかつぎなおして鼻息も荒くつめよるが、晴明はなに喰わぬ顔で反駁した。
「私は、あらかた片づいておりますゆえ、と申しあげましたよ」
「……あれをあらかたと云うのか?」
金時は憮然としたようすで碓井貞光と卜部季武の顔を見まわすが、ふたりは肩をすくめただけだった。かれらは最初から晴明の言葉を疑っていない。
「ま、あらかたではあろうな」
綱も首肯した。
晴明ほどの陰陽師であれば、合流した三人が仔蜘蛛退治に間にあうことも承知していたのだろう。
もとより知恵と弁舌で金時が晴明に勝てるはずもない。
「……それに頼光様と四天王のみなさまだけで、一九九〇個のドクロと二〇個の生首をお弔いされるのは大変でございましょう? 私の式神なら穴を掘る手間だけでもはぶいてさしあげられます」
瞬時に正確な犠牲者の数を云ってのけた晴明に内心舌をまきながら、頼光は強情をはる。
「よ、よけいなお世話じゃ」
「よけいなお世話でございましたか? ……先ほど化物をひとりでひきずりだすのも、いささか御苦労なさっておいでのようでしたが」
晴明の目が意味ありげに笑っていた。
(よもや、先ほど土蜘蛛の巨体がなにかに押されるように感じたのは、儂の目には見えぬ晴明の式神が手伝ってくれていたと云うのか? ……まったくよけいな真似を。それならいっそ綱に手伝ってもらった方がマシだったわい)
知らぬところで晴明に借りをつくってしまった頼光が、苦虫を噛みつぶしたような顔で折れた。
「しかたあるまい。ここはお前の顔をたてて、式神とやらに手伝ってもらうとするか」
「恐れ入ります」
晴明は慇懃な態度で頭を下げると、宙に座していた足をくずし、地面へ降り立った。
なにやら呪文をつぶやき手をたたくと、窪地の空をおおっていたもやが瞬時に晴れて蒼穹からまばゆい光がさした。
「おお!」
頼光の前で晴明への賛辞は禁句だが、さすがの〈頼光四天王〉も思わず感嘆の声をもらす。
「たまっていた邪気を祓い、土蜘蛛の張っていた結界を解き申した」
晴明はたもとから人型の小さな紙切れをとりだすと、右手で宙に五芒星を描き、紙切れに小さく息をふきかけた。
紙切れが晴明の手の中から消えると、窪地の一画が見えない式神の力によって、ごそごそと掘りおこされていく。
「穴を堀りおえましたら、犠牲者の亡骸を埋め、丁重にお弔いしてさしあげましょう」
「うむ。頼む」
頼光がすなおにうなづいた。鎮魂や成仏は頼光の云う〈拝み屋〉晴明の方が適任にちがいない。
「お館さま、この化物の首はどうします? オレの戦斧に突き刺して京の都へ運びましょうか?」
晴明の鼻をあかそうと、なんとか戦斧の使途をひねりだしたい金時であったが、頼光は頭をにふった。
「こたびの土蜘蛛退治は勅令ではない。退治た証拠も必要ない」
「もったいねえ。このデッカイ化物の首をもちかえれば、お館さまの名声もますますあがる上に、恩賞だって出るかもしれねえってのに」
「金の字。でる杭はうたれると云うことわざを忘れるな。儂ら武士がめだちすぎれば、朝廷でもその武力に脅威を感じ、儂らを排斥しようとする輩がでてこないともかぎらん。力は敵に誇示するもので、味方に誇示するものではない」
「はあ……そう云うものですか」
金時がいたずらをとがめられた子どものように、大きな体をすくめてしょげた。
「さすがは頼光さまでございます」
晴明が深々と頭をたれた。
陰陽師として朝廷や人間の深い闇をのぞいてきた晴明には、頼光の言葉がよくわかる。彼自身、高名で強大な力をもつゆえに幾度となく命を狙われてきた。
「綱! 金の字! 土蜘蛛らの死骸をガレキの倉ともども燃やしてしまえ。季武と貞光も手伝ってやれ」
「御意」
〈頼光四天王〉は口々に返事をかえすと、きびきびとした動作で土蜘蛛らの死骸を始末にかかる。
洞窟の外で退治した赤鬼青鬼の死骸も見えない力で運ばれてきた。晴明は何体もの式神を使役しているらしい。
頼光も四天王とともに仔蜘蛛の死骸を拾いあつめて、ガレキと化した倉へつみあげた。
やがて犠牲者を埋葬する穴を掘りおえたと云うので、全員で一九九〇個のドクロと二〇個の生首を丁寧にならべて埋めた。
何体もの式神を使役している晴明までもが、および腰でドクロを運んでいる姿を見て、頼光は意外に思った。
「それでは、まず先に犠牲者のお弔いをおこないたいとぞんじます」
すべての犠牲者を埋葬しおえると晴明が云った。いつの間にか埋葬したところに供物をのせた簡素な祭壇がしつらえられていた。
「……よろしく頼む」
頼光はそう云ったあとで、となりへ立つ綱へボソッとつぶやいた。
「まったく、拝み屋の術とはブキミなものだな。……便利ではあるが」
「御意にござります」
すなおに感嘆しない頼光の稚気を見すかした上で、綱が追従した。頼光たちは無言で合掌し、晴明の鎮魂(成仏)の儀式をながめていた。
小半刻にもおよぶ鎮魂(成仏)の儀式をおえ、額に玉のような汗をうかべた晴明が皆みなへ向きなおって云った。
「鎮魂の儀はとどこおりなくおえましてございます。あとはそのまがまがしき化物どもの骸を焼きつくせばしまいでございます」
晴明が指を鳴らすと、土蜘蛛どもの骸が劫火につつまれた。塵ひとつのこさんばかりのいきいで轟と燃える。その光景をながめながら頼光が綱へ声をかけた。
「……とんだ紅葉狩りであったの」
「なんの。紅葉狩りより、よほど有意義な狩りでござった。このような狩りであれば、不肖・渡辺綱、いつでもお供つかまつります」
「ふふ、云いよる」
頼光が笑った。
「ひでえよ、お館さま。どうしてオレもお供させてもらえなかったんですか?」
ふたりの会話をきいていた金時が口をとがらせて訊ねた。
「貞光と季武は出仕しておったし、お主はまぐさの上で大いびきだったのでな。あんまり気もちよさそうだったので、起こすにしのびなかっただけじゃ」
頼光の言葉に綱たちがほほ笑んだ。馬小屋でのんきに昼寝している金時の日常がありありと目にうかぶ。
「しかし、三人ともよく参じてくれた。心から礼を云う」
「へへっ」
と金時が笑い、
「もったいないお言葉、かたじけのうございます」
と貞光が頭を下げ、
「お館さまも童っぱではないのですから、でかける時は館の者へ行き先だけでもお伝えください」
と季武がさとす。
「うむ。以後、気をつけよう」
頼光がてれたように頭をかいた。最後に晴明のもとへ歩みよる。
「晴明も大儀であった。……そう云えば、先ほど金の字と賭けをしていたと云ったな。なにを賭けた? もとをただせば儂のためじゃ。金の字の負けは儂がはらおう」
「……みなさまとともに夕餉をとり、酒を酌みかわしたいと云ったまででございます」
「そんなことか。夕餉ならばおまえの豪奢な屋敷で、美しき御妻女とともにとればよいではないか。なにを好き好んで儂らのようなむくつけき男衆にまじりたがる?」
頼光が皮肉っぽく口元ゆがめて云った。
有名な話だが、大陰陽師・安倍晴明は恐妻家なのである。
晴明の妻女は美しく人あたりのよいことで知られているが、陰陽師の妻であるにもかかわらず、頼光以上に陰陽道のふしぎな術がきらいときている。
屋敷の中でこまごまと働く、目に見えぬ式神たちの存在がぶきみでしかたないらしく、屋敷内での式神使用は厳禁されている。
そのため、晴明は子飼いの式神を屋敷内ではなく一条戻橋のたもとへひかえさせているほどである。
頼光の皮肉に晴明は拗ねた瞳で答えた。
「あれは外面如菩薩内面如夜叉でございます。なにをするにもいちいち細々とかしましく、屋敷では心休まるいとまもございませぬ」
「外面如菩薩内面如夜叉」とは、外見こそ美しいが性格は悪いと云うことだ。
心の底から嘆息する晴明をいじめすぎたか? と頼光は少し反省した。
「さすがにそれは云いすぎであろう。佳人と名高い御妻女を不当におとしめるものではない。……しかし、儂らがお前の御妻女同様、陰陽師を毛嫌いしていることは承知であろう。にもかかわらず、なにゆえ儂らにこだわる?」
大陰陽師としての威厳をすっかり失った小太りの中年が、背中に悲哀をにじませながら忌憚のない心情を吐露した。
「霊力の高い頼光さまの陰陽師としての資質に惚れこんでいる部分もあるかとはぞんじますが、人間として裏表がなく快活なあなた方のことがうらやましいのでございます」
「……おまえ、ひょっとして儂らを莫迦にしておらぬか?」
単純だと云われている気がする。
「人の有りさまとして正しいと云っているのでございます。金時どののように生きられれば、どれほどすばららしいことかと」
「金の字が手本か。やはり、おまえは儂らを莫迦にしておるようじゃの」
言葉とは裏腹に頼光が笑った。
みながみな坂田金時ほど直情でも軽挙でも困るが、頼光も金時の無邪気さや人柄のよさは気に入っている。
(……孤独なのだな、この漢は)
頼光ははじめて、大陰陽師としてではなく、人としての安倍晴明をかいま見た気がした。
「あいわかった。今宵は儂が館でおまえを饗応しよう。たらふく呑み食いさせてやる」
「まことにござりますか?」
「この頼光に二言はない。……ただし忘れるな。今後もおまえとなれあうつもりはない」
頼光がふいに真顔で云った。晴明も真摯な面もちで応えた。
「……肝に銘じてございます」
晴明には頼光の云わんとすることがわかっていた。
天下に轟く名将と大陰陽師が手をくめば、この国を手中におさめることもむずかしくない。
性根いやしき権力の亡者どもにとって、かれらの関係が密になることはそれだけで脅威なのだ。
少なくとも、京の都ではまわりにいらぬ敵をつくることとなる。朝廷とはそう云うところだ。
土蜘蛛どもの骸が塵ひとつのこさず完全に燃えつきたことを確認すると、頼光たちは洞窟へ向かった。
「お館さま。これはいかがいたしましょう?」
一足先に洞窟へ向かい、自分の弓箭と烏帽子を拾いあげた渡辺綱が、頼光に折れた太刀の切先をかかげた。
「ふむ。惜しいがどうなるものでもあるまい。捨て置け」
「頼光さま。御太刀を拝借ねがえませんか?」
頼光の言葉に晴明が手をあげた。
頼光が折れた太刀を鞘からひきぬき、綱が折れた切先を晴明へ手わたした。
晴明が折れた太刀と切先をあわせて両手でつつみこみ、口の中で呪文をつぶやくと、折れた切先が継ぎ目もわからぬほどきれいにつながっていた。
よみがえった刀身へ指先でなにやら文字を書きつけると気をおくる。
「えいっ! ……これで二度と折れることはおろか、刃こぼれすることもございません」
頼光には、一瞬、刀身がぼんやり光って見えたが、ほかの者にはわからなかった。
「陰陽の術とはそら恐ろしいものだな」
頼光が太刀を鞘へおさめ、かるい違和感に気づいた。太刀が鞘の中で少しひっかかっている。
清明がそのわけを説明した。
「陰陽の秘術は無から有をつくりだすものではございません。有りようをかえる力にござります。ですから、その御太刀もまったく元どおりと云うわけではございません。三寸ほど短くなっております」
「万能の術ではない、と云うことか。鞘もこしらえなおさんといかんな」
晴明はうなずいた。
「生まれかわった太刀に新しい名が必要じゃ。晴明、なにか善き名はないか?」
訊ねられた晴明の顔に喜色がうかぶ。
「……〈蜘蛛切〉がよろしいかと」
「〈蜘蛛切〉か。みなはどう思う?」
「善き名かとぞんじます」
〈頼光四天王〉が異口同音に答えた。
「みながそう云うのであれば、まちがいあるまい」
頼光が満足げにうなづいた。
〈頼光四天王〉も晴明と視線をかわして無言でほほ笑んだ。
陰陽師を毛嫌いしていた頼光が、戦場で命をあずける太刀の名を晴明につけさせたのは信頼の証しであり、新たな絆の証しであった。
「今宵は祝宴じゃ。とっとと帰って、大いに楽しもうぞ」
「御意」
もやの晴れた大空に太陽が白くかがいていた。
12
……云い伝えによると、頼光と晴明が私的に酒を酌みかわしたのは、あとにも先にもこの一度きりであるらしい。
〈拝み屋嫌い〉で有名な頼光と大陰陽師・安倍晴明との間に私的な交流があったと云う記録はない。
頼光と綱の土蜘蛛退治の一件は、どこからか朝廷の叡聞にたっし、ふたりは報償をたまわった。頼光が摂津守・正四位下、綱が丹波守・正五位下に昇叙される。
また、別の話になるが、のちに頼光は〈頼光四天王〉らと、最強の悪鬼・酒呑童子退治へいどむこととなる。
その時、頼光の佩いていた太刀の名を〈蜘蛛切〉と云う。
〈おわり〉
この物語は鎌倉時代に描かれた『土蜘蛛草紙絵巻』[(重文)東京国立博物館所蔵]を元に小説化したものです。
『土蜘蛛草紙絵巻』は、平安時代のヒーロー、源頼光と〈頼光四天王〉の筆頭、渡辺綱が土蜘蛛と呼ばれる化物を退治する物語です。
能の演目などで知られる『土蜘蛛』とはまた別の物語です。
主人公の源頼光は、中世伝奇文学(?)の世界で、現代のハリウッド映画におけるバットマンやスパイダーマン級のヒーローでした。
陰陽師・安倍晴明と名声を二分していたと云ってもよいでしょう。RPG風に云うなら戦士(剣士)の源頼光と、魔術師の安倍晴明です。
安倍晴明は荒俣宏や夢枕獏のお陰で人気が再燃しましたが、源頼光の知名度は今ひとつと云ったところ(笑)。そんなこともあって、頼光の物語を書いてみたいと思いました。
源頼光と〈頼光四天王〉最大のイベントは「大江山の酒呑童子退治」の物語です。それは『今昔物語』などの現代語訳で平易に読むことができます。
しかし『土蜘蛛草紙絵巻』には読みやすい現代語訳がなかったため「入門編になればよいな」と云う願いをこめて小説化しました)。
大筋は『土蜘蛛草紙絵巻』に沿っていますが、独自の解釈やアレンジをほどこした部分がたくさんあります。
要らぬ誤解を与えないためにも『土蜘蛛草紙絵巻』との相違点を明確にしておいた方がよいかと思い、この章をもうけました。
基本は『土蜘蛛草紙絵巻』の詞書(文章)を元に小説化していくのですが、詞書が失われていて、絵しかない場面もあります。
この小説で云うと、頼光が荒れ果てた屋敷へひとりで突入し、女性の白骨死体や生首などを発見するくだりです。
女性の白骨死体が空飛ぶドクロの正体だったとするのは、私の完全な創作ですが、こう解釈するとしっくりきます。
作者が物語のきっかけとなる空飛ぶドクロの正体を曖昧にするはずもありません。
『土蜘蛛草紙絵巻』の中で最も想像力にとみ、陰惨な姿で描写されているのが、屋敷の老婆でしょう。
なんの元ネタもなく、これだけインパクトのあるキャラを創造したのであれば大したものです(物語全体から若干ういている気もしますが)。
また、絵巻の詞書の「髪を前へ掻い取りて、灯を睨まへたる眼、透き漆を差せるに似たり。火の光に輝き合ひたり。」に感心しました。
灯火をにらむ化物の美女の美しい瞳が妖しく輝くと云う場面です。
おそらく、この場面は美女の瞳に映った灯火が、美女の頼光に対する怒りも表現していると思います。高度で巧みな描写だと感心しました。
こう云うところに気がつくと、何百年も前の名前もわからない作者と心がつうじあったような気がしてふしぎです。
昔から「ただあった」物語ではなく、そのうしろには血肉をもった作者がいて、苦心惨憺しながら時間をかけて物語と向きあっていた息吹を感じます。
……まあ、当たり前と云えば当たり前の話なのですが。閑話休題。
頼光と綱は身代わりの人形を押したてて洞窟を進みます。もちろん、この洞窟はアニメ映画『千と千尋の神隠し』同様、異界へとつづく通路です。
ふつう異界で待ちかまえているのは壮麗な宮殿だったりするものですが、古びた倉があるだけと云うのは、妙なおかしみがあります。
このあと『土蜘蛛草紙絵巻』では、詞書にない巨大な赤鬼と青鬼の姿が描かれています。異界を強調するための効果であり、絵師の遊び心でしょう。
しかし、物語の展開を考えると、ここで赤鬼青鬼が現れるのはかんばしくありません。
敵の最初の一撃を身代わりの人形がひきうけなければ、綱の妙案が台無しです。
そのあと赤鬼青鬼をこっそりやりすごして、土蜘蛛を倉からひきずりだすのもムチャです。
ただ、私は絵師の描いた赤鬼青鬼も登場させたいと考えました。
『土蜘蛛草紙絵巻』の詞書そのままに小説化すると綱の見せ場があまりにも少ないのです(絵巻と云う制約もあったのでしょうか?)。
そのため、洞窟の手前で赤鬼青鬼と戦わせることにしました。もちろん『土蜘蛛草紙絵巻』にこんな場面はありません。
『土蜘蛛草紙絵巻』の詞書に、土蜘蛛は「長さ二十丈(約60メートル)」とあります。
18メートルの実寸大ガンダムでも充分大きいのに、二十丈はやりすぎだと思います。絵巻に描かれた土蜘蛛は3~5メートルくらいでしょうか。とても二十丈には足りません。
『土蜘蛛草紙絵巻』では倉の中で居眠りした土蜘蛛を頼光と綱がひきずりだし、首をはねます。
この時、なかなか土蜘蛛が動かないので、頼光が神仏に祈念すると力がわいてひきずりだすことができたことになっています。
なんでも神頼みにしてしまうとご都合主義のそしりをまぬがれえない上にツマラナイので、この物語では頼光と綱に大暴れしてもらっています。
神頼みのなごりを晴明の式神として表現しました。
物語の最後で〈頼光四天王〉と陰陽師・安倍晴明を登場させたのも、私の遊び心です。
特に、安倍晴明はオマケのオマケ(単なる道案内役)くらいのつもりで登場させたのですが、書きすすめるうちに、頼光との間にひとつのドラマが生まれ、〈頼光四天王〉のこりの三人より出番が増えてしまいました。
「キャラが勝手に動きだす」と呼ばれる現象ですが、こう云う時は、想定外のところで物語のつじつまがきちんと整っていくので、自分で書いていないような(物語自体に書かされているような)ふしぎな感覚におちいります。
物語が私を超えていく時、物語をとおして私の知らない私の発想と出逢う時、物語を書くのは楽しいなあと思います。閑話休題。
ちなみに、坂田金時が戦斧をふるい、卜部季武が知謀に秀で、碓井貞光が弓の名手と云う設定も私の勝手な創作なので、鵜呑みにしないでください(……そもそも日本に戦斧なんてあったのでしょうか?)。
頼光の名刀〈膝丸〉も、実はもうひとつの『土蜘蛛』の物語に登場するもので『土蜘蛛草紙絵巻』では言及されていません。
もうひとつの『土蜘蛛』の物語を書くつもりはなかったので(物語後半の展開がほぼ重複)、頼光が名刀〈膝丸〉を所持していたことを紹介しておきたかったのです。
しかし〈膝丸〉ってネーミングセンスもスゴイですよね。
『土蜘蛛草紙絵巻』で頼光の佩いていた太刀は三尺ですが〈膝丸〉は二尺七寸です。そのため、折られた太刀が研ぎなおしたことにすればよいと思ったのですが、太刀の切先を研ぎなおすことなんてできるのでしょうか?
この件も安倍晴明のお陰でムリなくまとめることができました。
『土蜘蛛』の最後でも〈膝丸〉は〈蜘蛛切〉と改称されます。この物語では、そこへもうひとつドラマを盛りこむことができたので満足しています。晴明サマサマと云った感じです(小太りの中年なんて書いてゴメンネ)。
機会があれば、頼光たちの物語をあとふたつ書いてみたいと思っています。
もうひとつの『土蜘蛛』の導入部だけ拝借したまったく別の物語と「大江山の酒呑童子退治」です。
安倍晴明も陰ながら頼光たちへ力を貸すことになるでしょう(あるいは敵になっているかもかも!?)。
ただ、頼光たちの物語を『退儺師アスカ』の世界観と融合させ『退儺師アスカ』前史として書くくわだてもありますので、すなおにつづきを書くかどうかはわかりません。
この物語をきっかけに『土蜘蛛草紙絵巻』や源頼光へ興味をもっていただければ幸いです。
最後までおつきあいいただきありがうございました。