其の九:接近
―接近―
「さて、ここが和田美智子君の病室だよ」
友田は、乃亞を病室の前まで案内すると、自ら病室のドアを開けた。
今は外部の者が入らない様にと、個室の中でも滅多に使わない大きめの部屋を用意していた。室内には大きめのテレビをはじめ、およそ他の一般病室とは一線を画したホテルの様な造りになっている。
もちろん、部屋の中は空調が管理されていて、窓を開ける必要はない。
ところがである、友田がドアを開けると、病室の中を五月の爽やかな風が流れ込んでいた。
「おい、この部屋の窓を開けたのは誰だね」
「窓が……」
友田が後ろに従っていた看護師に詰問すると、看護師は私じゃありませんと頭を振るだけだった。
そんな友田達のやりとりを横目に、乃亞は友田達の横をすり抜ける様にして病室の中へと入っていった。
「あ、おい君……」
つられる様に友田も病室の中へと続く。
病室は個室となっており、ドアを開けると直ぐに仕切があって、全体を見渡す事が出来なくなっているのだが、それをすり抜ける様に乃亞は部屋の中央へと向かった。
仕切を越えると、正面に開け放たれた窓が見える。中央右手に大きなベッドが設置されていて、和田美智子はそこで規則正しい呼吸を繰り返していた。
乃亞は部屋に入ると、和田美智子の姿を一別した後、開け放たれた窓の方へと急いだ。
「……」
「おい、君。榊君と言ったかな、勝手な事をされては困る」
続けて入ってきた友田は、乃亞が特別何をしている訳でもなかったので、とりあえず安心したのだが、依然、油断をする気がないのか、それとも自らの威厳を保ちたかったのか牽制の声をあげた。
「申し訳ありません……」
乃亞が素直に謝るのを見て気持ちを落ち着かせたのか、友田はベッドの上で未だ目を覚まさぬ和田美智子の様子を確かめた。
もしかしたら目覚めているかも知れない―――と、僅かばかり期待した友田だったが、規則正しく呼吸を繰り返しながら眠り続ける姿に、淡い期待が消えた。
しかし、落胆した表情を目の前の少女には悟られては行けない。
友田は平静を保ちながら和田美智子の脈を取った。
脈拍は通常のそれとほぼ変わらないし、呼吸が乱れると言った様子も見られない。ただ、通常と違う事があるとしたら、一向に目を覚ます様子が無いだけだった。
一体、どうしたと言うのだろう……当初の見込みでは、外傷も無ければ脳波も安定していたし、簡単な検査の結果、これと言った病気の予兆らしきモノが何一つも見つけられなかった。
なので、特に詳しい検査も行わなかったし、きっと直ぐに目が覚めるだろうと、タカをくくっていたのだが―――友田はベッドの上で規則正しい呼吸をしている和田美智子を見て、ため息をつかずにはおれなかった。
「さて、そろそろ良いかな?」
一通りの作業を終わらせると、友田は一刻も早く和田美智子の精密検査を行いたいと言う思いと、目の前の少女を早くこの病室から返したいと言う思いから、もう良いだろう―――と、あからさまな表情を作って乃亞へと告げた。
先ほど乃亞が病室へ駆け込んだ際、相手が以外とおとなしく自分の言葉に従った事から、少し強気で出れば、目の前の少女は何も反論出来ないとたかをくくったのだ。
ところがである。
「申し訳ありませんが、5分程、私と和田美智子さんの二人きりにさせていただきます」
「な―――」
友田は一瞬、目の前の少女が何を言ったのか理解出来なかった。
「しかし君、この通り彼女は一向に目を覚まさない状況で、一体何をすると言うのだね……彼女に何かをするのなら、医者としては承知出来ないな」
当初の予想では、とりあえず目の前の少女を病室に入れ、適当に面会させて早々に追い返そうと考えていた。
和田氏からの依頼で仕方なく案内はしたものの、やってきたのが高校生らしき少女であったので、何が出来る訳でもない―――と、安易に考えていた。
この程度の年齢ならば、こちらが少し威圧的に出れば何も言えなくなるだろう ―――と。
しかし目の前の少女は違っていた。
「和田美智子さんと二人きりになる事も、許可されていると思いましたが」
と、こればかりは少しも引く気は無いと言った姿勢を見せてきた。
友田としては、これ以上強引に少女の申し出を拒否するわけにはいかない。少女の言うとおり、和田から面会の許可ならず二人きりになる事も承知する様にと、言われていたからである。
「……」
それに、これ以上何かを言えば、目の前の少女を通じて和田の方へも報告が行くに違いない。何を隠している訳ではないが、失態を続けている自分としても、これ以上は強く出られなかった。
「分かった。だだし、五分だけだ。彼女はこれから精密検査を受けて貰うのでね、本当は面会も断りたかったのだが……」
友田は最後に、少々くぎを差しながらも、了承せずにはおれなかった。
「ありがとうございます。それでは五分後、私がこの病室から出るまで人が入らない様にお願いします」
くっ―――
「分かった、病室の前に看護師を待たせておくから、時間になったら看護師に声を掛けてくれたまえ」
そう言うと友田は、付いてきた看護師にドアの前に残る様に指示すると、自分は自らの部屋へと帰って行った。
カチャ―――
ドアが軽い金属音を立てて閉まるのを確認すると、乃亞は和田美智子のベッドへと近づいて行った。
「和田美智子さん……聞こえていますか? 今から私は、貴女の中へ入ります」
そう言うと乃亞は、親指を自らの額に、そして小指の先を和田美智子の額へと軽く当てると、小さく何かをつぶやいた。
「我が言は御言なり、我が前に在りし一霊四魂には静を、悪しき四魂を祓い給え清め給え、掛巻くも綾に畏き神伊邪那岐大神……富普加美 恵多目 祓い給え 清め給え」
そして言い終わると共に大きく息を吸い込み、乃亞は和田美智子へと唇を重ねて息を吹き込んだ。
んぅっ―――和田美智子から吐息が漏れる。
そうした後、乃亞はふわりとして、自らの身体が宙に定まらない状態の中に投げ出されていた。
周囲は深く、真の闇に囚われていて一切の音も無く、宇宙空間に投げ出されたかの様に自らの位置すら定まらない状態である。
これが、今の美智子さんの状態ですか―――乃亞はそうつぶやくと、また、言葉を紡いだ。
「ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、ここ、たり、もも、ち、よろず」
乃亞の発する言葉は、一切の音も通さぬ暗闇の中でも、透き通る清水の様にこだまする。
「全て世は、陽の昇らぬ事は無い様に、人の心にもまた、陽の昇らぬ事は無く、全ての罪、穢れもまた、その陽によってうち払われる事でしょう。願わくば氣吹戸主神のお力を持ちて、全ての闇を吹き払い給う事を畏れ多くもお願い申し上げます」
闇に閉ざされた空間の中に、凛とした乃亞の声が響き渡る―――すると、何処からとも無く、一陣の風が周囲の闇を巻き込むかの様に吹き荒れると、今までの様子が嘘の様に光りがあふれ出した……そして、自らの殻に閉じこまるかの様に、膝を抱える一人の少女が現れていた。
乃亞はそれを確認すると、ゆっくりと近寄って声を掛けた。
「美智子さん……聞こえていますか」
……
「美智子さん、私は榊乃亞と申します。美智子さんを連れ戻しに来ました」
……
「美智子さん、貴女は今、病院のベッドで眠ったまま、夢の中でさまよっている状態です……あの夜、貴女に一体何があったのですか」
……
「今はもう、貴女に危害を加える者はここにはいません―――」
「い……やっ」
「美智子さん?」
「いやっ」
「落ち着いてください。貴女に危害を加えようとした者はここにはいません」
「いやぁ!私は誰のモノでも無い!!私は私だけのモノよ!!」
乃亞の問いかけに、和田美智子は全ての接触を拒むかの様に、自ら、その両耳を塞いで拒絶の声を挙げた。
これは、彼女が病院に運ばれる前と同じ症状ですね―――乃亞は和田美智子がどうしてこれ程までに他者に対して拒絶の体を取るのか、一番興味深い事であったが、取り合えず、何時までもこのままでは埒があきそうもない。
天天急々如律令!
乃亞は手を組み合わせて印を造り短く言葉を紡ぐと、最後に和田美智子の両肩に気合いを入れるかの様に手を当てた。
「は―――ぁ」
と、両肩に手を当てられた和田美智子は、それまでの混乱が嘘の様に、一気に強張った身体から力が抜け落ちた。
静寂の中では、和田美智子の規則正しい呼吸の音だけがこだまする。
「美智子さん、落ち着きましたが?」
和田美智子が落ち着きを取り戻したのを確認した乃亞は、そっと、囁く様に彼女に声を掛けた。
「私は……」
「気が付きましたか?」
「あ、貴女は?」
和田美智子は、乃亞に声を掛けられて初めてその存在に気が付いた様子だった。
「初めまして、私は榊乃亞と申します」
「ここは……どこ、なんですか」
見渡す限り、周囲には壁一つ無い白色の世界。彼女は数度周囲を見渡すことによって、漸くその異変を認識した様子だった。しかし乃亞は、その質問に答えずに話を続ける。
「美智子さん……と、お呼びしてもよろしいですか?」
「え、ええ。貴女は?」
「私は榊乃亞と申します。美智子さん、貴女は今、病院のベッドの中で眠りに付いています。覚えてらっしゃいますか?」
「病院の……ベッド……」
「はい、貴女は二日前の夜、何かしらの出来事によって気を失い、そのまま眠り続けている状態です」
「二日前の……夜……ですか?」
「はい、私は貴女に起きた出来事を確かめるべく、貴女の意識の中に直接会いに来たのです」
―――え?
和田美智子は一瞬、目の前にいる少女の言葉を理解することが出来なかった。
いや、出来るはずがなかった。目を覚ましたと思ったら、周囲一辺、見知らぬ場所に立たされて、見ず知らずの少女に『意識の中に直接会いに来た』などと言われて、誰がそれを理解出来ると言うのか。
人は自らの常識の範疇にあるものを基準に判断を行う。
実際に手に触れたり、その仕組みを解明して理解出来る事象ならば、それは常識として受け入れる事が出来る。しかし、その逆はどうであろう。意識などと言う、手に取ることも出来なければ見ることも出来ない形のないものであり、その定義すら確立されているとは言い難いもの。
その様なものを、瞬時に理解して受け入れられる者など皆無と言ってよい。
しかし和田美智子は、目の前に立つ少女の言葉を、嘘とは思えなかった。
そればかりか、事実、ここが『自らの精神世界の中』であることを、すんなりと受け入れてしまった。
それは、目の前に立つ、自分と同じ位の少女のせいなのか……それは判断出来なかったが、とはいえ、この様な突拍子もない話を、不思議に思わない自分に違和感はなかった。
「榊……乃亞さん、と仰いましたね。私は一体どうしたと言うのでしょうか?それに……」
「乃亞で構いません」
「それでは乃亞さん、私は一体どうしたと言うのですか?二日前の夜に、何があったと言うんでしょうか。それに、貴女はどうしてこんな―――」
「美智子さん、私は先ほども申したとおり、二日前、貴女に何が起きたのかを調査する為に来たのです。何も、覚えてらっしゃいませんか?」
「二日前……」
「はい、二日前とは言っても、貴女に取っては直前の記憶と言う事になるのでしょうね。貴女は二日前の夜、友達である国府田雅美さんの部屋を出てから自室に戻り、それから一時間ほどの後、寮の廊下で何かにおびえる様にして気を失いました」
「私が―――」
何も覚えてないのですね―――乃亞は和田美智子の様子から、彼女があの夜の事を記憶していない事を悟った。
何が起きたのかを理解する前に気を失った……あるいは―――乃亞は病室の窓が開いていた事を思い出す。
記憶を―――消された?
和田美智子が、必死に何かを思い出そうとして、それが無駄な努力に終わっている様を見、乃亞はそれが間違いではないと思った。
それも、自分が病室に来るまでの、何分かの間である事も。
そう―――本当に僅かの差で。
「美智子さん、思い出せないのならば無理をしなくても良いのです。ただ、そう言う事実があった事だけは覚えていてください」
「解らない……私は、本当に二日も眠ったままだったなんて……解らない」
「はい、解らない事はそのままで良いのです。それを調べるのは、私の役目ですから」
「乃亞さん、一体貴女は?」
「信じてもらえなくても結構です……ですが、私は貴女の味方です」
和田美智子は、この初めて合う乃亞と言う少女の言葉に、信頼出来うる響きを感じ取る事が出来た。
「あの、こちらに私の友達が入院しているハズなんですが」
国府田雅美は病院の受付に来ていた。
「お名前はなんと言いますか?」
「和田、和田美智子です」
「少々お待ちください」
受付の女性が、手早く手元のパソコンを操作する。
「申し訳ありません、その患者さん、今はまだ面会謝絶になっていて身内の方以外では、お通しする事が出来ない決まりになっています。失礼ですが、貴女は身内の方ですか?」
「い、いえ。私は学校の同級生で身内ではありません」
「そうですか、せっかく来ていただいて申し訳ありませんが、面会することは出来ませんので……」
「そう……ですか。それで、美智子はもう、意識は取り戻したんですか?」
「申し訳ありません、それは私の方からはお話することは出来ない決まりになっていますので」
受付の女性からは、やはりお決まりのセリフしか帰ってこなかった。
雅美は面会が出来ないであろう事を、予め雨宮から聞かされていたのだが、案の定それが出来ないと知って、改めて美智子の事が心配にならざるを得なかった。
「解りました。また、今度来ます」
雅美はしかし、受付の女性にしつこく迫る様なまねはせず、そのまま受け付けを離れると、病院の外で待っていた雨宮と合流した。
「どうだった?」
「貴弘の言った通りだった。まだ面会謝絶だって……」
やっぱりな―――雨宮は自分の考えが間違っていない事を知った。
「それで、これからどうするの貴弘」
「そうだな……取り合えず」
と、そこまで言いかけた雨宮は、ある人物を見て言葉を切った。
「どうしたの?」
雅美が雨宮の視線の先を追う。
「あれは、生徒会長の……」
「鏑木政志だったな。隣の女の子は誰だか解るか、雅美」
「確か……鏑木さんと同じ生徒会の先輩だったと思うけど」
雅美は、鏑木政志といる少女が、彼といつも一緒に行動しているのを知っていたが、名前がどうしても思い出せない。
「俺も鏑木の事は思い出せるんだが、隣の女の子の名前が思い出せない」
「でも、それがどうしたの?」
「いや、別に……」
雨宮は未だ腑に落ちない顔で、
「何でココにいるのかなと思ってな」
鏑木政志とその女子生徒は、雨宮達に気が付かないまま病院を後にするところだった。
それを見ながら雅美は
「生徒会として、美智子のお見舞いに来たとか?」
「ああ……そうかもな」
「何よ貴弘、一体生徒会長がどうしたの?」
未だ何やら考え事をしている雨宮に雅美は不思議に思った。
こういう時の雨宮が、何を考えているのか解らない。
「いや何、鏑木といつも一緒にいる割りに、俺が可愛い女の子の名前を知らないって思ってな」
「……」
「貴弘って、本当に何考えてるか解らないよね」
「まあ、冗談はさておき、生徒会長なら美智子が面会謝絶だって事くらい知ってるはずなんだが」
「でも、一応お見舞いくらいは来るんじゃないの?」
「それも……そうだな。とにかく、俺たちも行動を開始するか―――」
雨宮はそう言うと、気持ちを切り替えるかの様に、病院の中へと向かって歩きだした。
つづく