其の七:翁
―翁―
街にはいくつかの神社があったが、その神社は比較的街の外れ、小高い山の麓にあった。
石畳の参道には桜の木々が植えられ、春先になると、その華やかな桜の花びらと相まって美しく映える。
参道を程良く歩くと、古ぼけてはいるが清涼感のある石造りの鳥居が見えて来る。そして、その鳥居をくぐると正面に社殿が顕れる。
社殿は正面手前に拝殿があり、その奥に本殿がある一般的な造りをしていて、正面から左手に神楽殿が併設されていた。
神楽殿とは文字通り奉納神楽舞などを行う為の舞台であるのだが、この神社でも、年に数度神楽舞が行われている。
赤岡は一度だけ、その神楽舞を観たことがある。
あれはもう何年も前の事、そう、四・五年も前の頃だろうか、舞手は十二・三の美しい少女だった。
赤岡には神楽舞の知識は無かったのだが、今思い返しても、その少女の舞はすばらしかったと思う。
舞は巫女装束で行われていたのだが、静から動へ、また、動から静への動きはもちろんの事、少女自身の美しさが、神楽舞に華やかさと、そして神聖さを加えていたのである。
あの時、あの場に居合わせた者が、すべからく舞に惹きつけられた事は疑いようが無い。
「ここに来るのも、あの神楽舞以来になるのか……」
赤岡は社殿の右手に位置する社務所に向かって歩き出した。
五月のはじめ、昼を過ぎてそろそろ四時にさしかかろうかという時間、社務所に人が詰めている様子は見うけられなかった。
あまり規模の大きくない神社では、常時社務所に人が詰めている方が珍しい。よって赤岡は、社務所の裏側にある神主の家へと直接訪ねる事になる。
赤岡が用のあるのは、別にこの神主では無いのだが、上社へ向かう場合には、一応下社の神主へ顔を出す事が決まりとなっているからである。
実は地元の人間でも、この神社に上社と下社があることを知る者はあまりいない。そして、上社へ上がる場合に、下社へ声を掛ける事を知る人間は、それこそ限られた人間のみしかいない。
電話で連絡は入れているものの、その決まりを破ることは、赤岡には到底考えられなかった。
と言うよりも、そうしなければならない理由が存在したのである。
その理由とは、信じる信じないは個人の自由だが、上社へ向かう道は、通常の者が見つけられぬ様になっていたからだった。
結界―――と言う言葉は、赤岡もその目にするまでは物語や幻想小説の中だけのモノばかりと思っていたのだが、一度でもそれを体験すると、否定する方が難しい。
社務所の横を通り過ぎ神主の家が見えてくると、そこには、下社の神主が赤岡を迎えてくれた。
「どうも、お久しぶりです」
赤岡は、過去に何度か上社に用が出来たことがあり、目の前の神主にもその都度あっていたのだが、今回も、道案内としての役目を果たして貰う事となった。
「万笙先生には連絡を入れておきました。どうぞ、こちらです」
その神主は自らの役目を良くわきまえているのか、多くを語らず、赤岡の挨拶に軽く返辞を返した後、先に立って入り口までの案内にたった。
赤岡はゆっくりと、その後を追う。
下社の神主は社務所の裏を通り、拝殿を横目に本殿の裏側に回ると、何ら周囲の様子と変わらぬ、雑木林の前で立ち止まった。
このまま雑木林を抜けても裏山に登れそうだ―――と、いつ見ても錯覚するのだが、何度試しても、どこをどの様に歩いても、すべからく同じ場所へと舞い戻ってしまう。
はじめ、道に迷うのは単純に自分の方向感覚が狂っているものとばかり思っていたのだが、それが結界によるものだと聞かされた時、赤岡は妙に納得したことを覚えている。
しかし、これから会いに行く人物ならばそれもしょうがない。
「それでは、これをお持ち下さい」
下社の神主から、一枚のお札のようなモノが手渡された。
長方形で短冊の様な形のそれには、なにやら文様らしきモノが描かれていたが、結界を通る際に必要となるらしい。
赤岡はそれを、内ポケットの中へ大切にしのばせた。
私はこれで―――それを見届けた下社の神主は、一言そう告げると、元の方へと去ってゆく。
さて―――それを見届けた後、赤岡はゆっくりと上社への道を、歩みはじめるのだった。
一見獣道の様な、細く幾度も曲がりくねった道をしばらく行くと、下社と同じように、石畳の階段があらわれた。
記憶では、この先百メートルほど続くのだが、その全てが上り坂なので少々厳しい道のりとなる。
赤岡は石の階段へと足をかけた。
石畳は相当の年月が経っているのか、所々の角が丸くなっていたり、雨だれの為か、小さなくぼみが出来ていて歴史を感じさせる。
階段はゆっくりと右にカーブして、上へ上へと続いていた。
上社の社殿は、街の方角からは深い木々に覆われていて、この時点では姿を確認することが出来ないのだが、道も中程を過ぎ、やがて終盤へと差し掛かると、そこに、下社よりもやや小さめながらも凛とした雰囲気を持った建物が見えてくる。
ふぅ―――と、赤岡はその姿を見ると、呼吸を整える様に息を吐いた。
榊神社、これが赤岡の目指していた場所である。
やがて石の階段も終わり、正面に木造の鳥居を目にすると、そこには一人の好々爺然とした翁が赤岡を待ち受けていた。
「よう来なさった」
「万笙先生、お久しぶりです」
「うむ、もう四・五年になるのかのう、立ち話も無かろう、中に茶を用意しておるで、一息つくが良い」
赤岡に先生と呼ばれた翁はそう言うと、促すように、社殿の脇にある自宅の方へと歩きだした。
「一息つけたかな」
その翁は、赤岡が上り坂で呼吸を乱すのを知っていたのか、氷を浮かせた冷たいお茶を用意していた。
「お気遣い、ありがとうございます」
赤岡は冷たいお茶の礼を言うと、姿勢を正した。
「さて、お互い昔話を語るほど、時間がある訳じゃないでな」
「はい、それでは今日ここに伺った理由を、お聞き下さい」
赤岡は今まで学園で起きた出来事を、順序よくまとめて万笙へと語った。
和田美智子が突然騒ぎを起こして意識を失い、近くの病院へと収容されたこと。そしてその事件を調査した事。その調査をした菊池という青年の事。さらには、調査報告をした菊池の違和感など、赤岡は自らの感じた事も含めて詳細に語った。
特に、調査報告をした菊池の様子と、和田美智子が未だ目覚めない事に関しては、説明にも力が入った。
赤岡は今朝方病院の方へ連絡を入れていたのだが、和田美智子が、未だ目を覚ます様子を見せないと言う報告を受けていた。
「ふむ……それで?聞く限りでは、多少気に掛かる部分もあるが、わざわざここに足を運ぶ様なわけでもあるのかのう」
「はい、私も通常であれば、和田美智子君の事件をノイローゼと言う形で発表出来ればそれに越したことはありません……しかし2点ほど、先生も気に掛かるとおっしゃった部分だと思いますが、どうしても見逃すことが出来ない部分があります」
「菊池と言う青年の事と、和田と言う娘が目覚めないと言う事かね」
「そうです、菊池と言う青年は、先ほども説明したとおり優秀な人間です。その彼がどうしてあの様な結果を報告したのか……それも、いつもと変わらぬ目をして」
「君は菊池と言う青年に、何を見たのだね?」
そうなのだ……私は菊池が『普段と全く変わらない状態で』あの様な無理のある報告をしたことが、どうしても納得がいかないのだ。
赤岡はその事を、どうしても見逃す事ができなかった。
「通常、催眠術などに掛けられたとして、深層に眠る意識のせいか、どこかその挙動に不自然さが残るはずです……それが、菊池君には見られませんでした」
「催眠術では無いと?」
「ええ……彼の目は全く正常の者と変わりませんでした。それが一番恐ろしいのです」
そうなのだ、彼は自らの発言に『違和感』を感じずに、まるでそれが『真実』であるかのように語ったのだ。
「より深く、心の奥深くまでに入り込み、人の心をコントロールする…… そしてそれを、全く本人が認知していないし疑問に思う事もない」
「そこに、何らかの呪術の力が働いている……と?」
「分かりません。しかし私には、菊池が何者かに催眠術とは違った方法で操られているとしか考えられないのです」
赤岡も、目の前にいる翁、万笙との出会いがなければこの様な考えは浮かばなかったはずである。現代において、科学の恩恵を受けながら生きている人間に取って、呪術だのと言う非科学的な発想など浮かびようが無い。
しかし、非科学的な世界もこの世には存在するのだ。赤岡は知っていた。
退魔士と呼ばれる存在がいる―――最初赤岡は、その存在を知識としては知ってはいた。それこそ、小説や物語の中でいくらでもそれを確認できるからである。
その代表的な例と言えば、平安の世に名をはせた陰陽道の安倍清明があまりにも有名だろう。真実こそは分からないが、それこそ歴史に名を残し、多くの物語として語られ、現代においてもその人気が衰える事がないのだから。
とはいえ赤岡は、その様な存在を全く信じることが出来なかった。人の身で有りながら妖魔と戦い、呪を操り、非現実的な出来事を当然の様に行う存在など受け入れ様が無い。
ともすれば、今でも受け入れたくない気持ちの方が大きい。
がしかし、目の前で繰り広げられた出来事を否定出来るほど、赤岡は割り切れては居ない。
そう―――赤岡は、目の前で戦う万笙の姿を見てから、受け入れざるを得なくなったのだった。
「ふむ、では今回うちに来た理由は、その和田美智子という少女を昏睡状態に陥らせ、菊池と言う青年に呪を掛けた者。それを排除して欲しいと言うのかな?」
翁は赤岡の全てを射抜くかの様な鋭い視線を向けて問いかけた。
この好々爺の、どこにこれ程の激しさが眠っているのか、疑問に思う程の鋭さだった。
赤岡は一瞬身のすくむ思いがしたが、自らの使命を思えば、この視線にも耐えられる。
「どうか、万笙先生のお力をお貸しいただきたい」
赤岡は翁の視線をまっすぐに見つめ返し、深く頭を下げるのだった。
そんな赤岡の姿を見て翁は、しばらくの間目を閉じて沈黙した後、元の好々爺に戻って静かに告げた。
「よろしい、今回の事は引き受けましょう」
「あ、ありがとうございます。万笙先生のお力があれば、事件は必ずや明白となるでしょう」
赤岡は胸のつかえがスッ―――と、おりた気がした。
なぜならば、この目の前に居る好々爺こそ、日本の裏社会に知らぬ者なしとさえ言われた、一代の退魔士であるからである。
「じゃが、今回の件を調べるにあたり、一つ、条件がある」
「は、はぁ、私に出来る範囲であれば出来る限り」
「なに、金銭的なモノではないのだが……それと、先に言わせてもらうが今回の件でわしが動くことはないぞ」
え?―――
「先生それは……」
「まあ待ちなさい。今回の件を軽く見た訳けでも、わし自身が面倒と思っての事でも無いのだが、事件の調査と処理には、わしの一番信頼する者に任せると言う事じゃよ」
「は、はぁ」
「なに、学園という場所にわしの様な者が乗り込めば敵にも知れるし、その者どもが身を隠すかもしれんしのお……今回の件には、一番適任な者がおるのじゃよ」
「それは、そうかも知れませんが……それで、その一番適任と言う方は今どちらに」
「ふむ、それでは呼んでくるかの」
そう言うと翁は、次の間に居た翁の伴侶へ、その者をここへ呼ぶ様にと告げてまた同じ場所へと座り直した。
「そのお方はこちらにお住いなのですか?」
「おお、住んでおるとも……住んでおるから少々心配でのお」
それはどの様な―――と、赤岡が理由を問おうとしたとき、ふすまの向こう側から、涼やかな女性の声が聞こえてきた。
「お祖父様、お呼びでしょうか?」
「おお乃亞か、こちらへおいで」
お祖父様……に、乃亞?
赤岡はその人物が、どういった者なのか興味をそそられた。
乃亞と言う名前からすると女性の様だが……そして万笙の事をお祖父様と呼ぶからには、翁の孫と言う事だろうか?
「失礼いたします」
女性の声が静かに告げると、ふすまが静かに開かれた。
最初は少しだけ、そしてしなやかな女性の指先がふすまにかかると、人一人分のスペースがあけられ、その女性は正座したままその身を滑らせて来た。
一連の動作には全くと言って隙が無く、優雅ささえ感じられる。
予め来客を知らされていたのか、その女性は赤岡の方へ向き直ると、深々と頭を下げて挨拶をしてきた。
「はじめまして、榊乃亞ともうします」
神楽舞の―――赤岡はその女性を見た瞬間に、あの時観た神楽舞の『少女』の姿を思い返していた。
そう、この少女こそ、榊万笙の孫娘であり数年前に赤岡が見た神楽舞の舞手である、榊乃亞だった。
「さて乃亞よ、わしから一つ、頼み事があるのじゃが」
翁はそう言うと、孫娘である少女へと向き直った。
「ここに居るのはわしの古くからの友人の倅でな、今は佐久間学園と言う高校の理事兼学園長をしておる。もちろん、ココに居ると言う事は相当の理由が合っての事と分かっておると思うが、一つ、乃亞に協力して貰いたい事が出来た」
「お祖父様、それは……」
「うむ、退魔士としての仕事なのじゃが、乃亞よ、明日から佐久間学園に入学して、ある事件の調査をしてくれんか」
―――え?
その驚きは、乃亞と赤岡の同時のモノであった。
「赤岡君、この乃亞ならば学園の中でも怪しまれまい」
「え、あ、ですが……」
「なに、実力の方は心配ない。わしのお墨付きじゃて」
「は、はぁ」
「お、お祖父様、私は―――」
翁は、乃亜の言葉を優しく遮った。
「なあ乃亞よ、お前は何時までもここに居るべきじゃない。過去に拘る気持ちばかりでは何も得る事はない」
……
「今回の事は、お前に取っても良い機会じゃ」
……
少女の表情には、苦悶やとまどい、それから不安や逡巡と言った様々なモノが入り交じって居た。
赤岡には、この二人の間に何があったのか推察しようも無い。無いのだが、この乃亞と呼ばれる少女に、何かしらの過去がある事だけは察する事が出来た。
そしてそれは、少女をこの屋敷に縛り付け、外の世界へとつながる事を拒否させる程の深刻なモノであるに違いない。
翁はそんな少女に対し、慈しむような優しい瞳で語りかけた。
「乃亞よ、まずは一歩だ……少しずつで良い、少しずつで良いから、お前には歩き続けて欲しいのじゃよ。綾乃の為にも」
―――
少女は、綾乃と言う言葉に一瞬の逡巡の情を見せた。過去の事と何らかの絡みでもあるのか、それは赤岡にも判らない。
場に、しばらくの静寂が訪れた。
この場から一歩、外の世界へと足を踏み出すか出さないか、その葛藤が少女の中で渦巻いている、そんな静寂の間であった。
そんな静寂を作り出したのもこの目の前にいる少女なら、それをうち破ったのもまた、少女だった。
少女は静かにその瞳を閉じたのち、
「分かり……ました」
と、何かを決意した表情でまっすぐな瞳を翁に向けるのだった
つづく