其の十:病室
―病室―
「多分あれだろうな……」
病院の五回、階段を上りきった後の踊り場の影から覗き込んでいた雨宮は、病室の前に看護師が付いている病室を見つけると、それにあたりを付けた。
「だけど貴弘」
雅美も雨宮同様、踊り場の影から少しだけ顔を出して確認する。
「あれが美智子の病室だとして、美智子はまだ目を覚ましてないんでしょ。一体どうするの?」
「まあ、病院側が本当の事を言っているかも知れないが、目を覚ましているとも限らない。目が覚めていればそれに越した事はないし、目が覚めていなければ、それを確認するだけで良い」
「う〜ん、まあそれは良いとして貴弘、一体どうするの……アレ」
と、雅美は病室の前でつまらなそうにしている看護師を指さした。
「雅美」
「なに?」
「お前、今から病気になれ」
「ええ!?」
「うん、そうだな、お前は今から『あの看護師』の目の前で貧血になれ」
「ええ!?」
「うん、うん、それが良い」
「ちょっと貴弘」
「まあ言うな。お前が高血圧ならまだしも、貧血なんてこの先絶対にあり得ないとは思うが、今日初めて貧血になれるんだ、喜んで貧血になれるよな」
雨宮はしれっとした顔で言うと。
「初めての経験って良いモンだろ」
と、意味ありげな表情で雅美の背中をたたいた。
「絶対にあり得なくて悪かったわね」
雅美は鬼の形相とひじ鉄で答える。
「うぐっ、まあそれは良いとしてだな雅美様、あの看護師の前で貧血になってもらえると非常に助かるんですけど」
「……ま、良いけどさ。だけど、私演技なんてした事無いのよ、それに、貴弘じゃ無いけど貧血なんて経験ないし」
「それは何とかなる。貧血の経験が無いんなら、気持ちが悪いって言っても良い。とにかくあの看護師をドアの前から離してもらえれば、それでオーケーだ」
「だけど、あの部屋が美智子の病室じゃ無かったらどうするのよ」
「美智子の病室じゃ無くても、間違えましたで済むさ。それよりもさ、ほら」
と言って雨宮は、雅美の背中を押しだした。
ちょっと貴弘―――雅美は文句を言い掛けたが、病室の前にいた看護師が雅美の姿に気が付いた。
もう、やるしかないじゃない!
雅美は覚悟を決めた。演技の経験など無かったが、やる事が決まれば江戸っ子の血がそうさせるのか、決断は早い。少しうつむき加減に看護師のいる病室の方へと歩いてゆくと、壁に手を掛けてうずくまった。
実際、ここまでやる必要があるのか疑問に思ったが、もう、やってしまった事は仕方がない。
自分が適当に看護師を惹きつけて貴弘があの病室に入れれば……
「どうしたのあなた?大丈夫」
演技とも知らず、看護師は壁に手を掛けてうずくまった雅美に気が付き、駆け寄ってきた。
「す、すいません……私、友達のお見舞いに来ていたんですが、急に目眩がして ……」
「貧血?」
「は、はい、普段から貧血気味で……体育とかも見学が多いんです……」
と、雅美はいつになく弱々しい風体を装って看護師の方へと身体を預けた。
ちなみに、雅美の体育の評価は常に5だった。もちろん、5段階評価である。
「困ったわね、私、ここを離れる訳にはいかないんだけど……それに、人に身体を預ける程の貧血なら、きちんと診てもらった方が良いわ。ナースコールで誰かに来てもらおうかしら」
「ええっ!」
「わっ、びっくりしたぁ、どうしたの突然大きな声を出して」
「い、いえ、貧血気味で力のコントロールが出来なくて」
苦しい言い訳だとは解っていたが、これ以上の説明など思いも付かない。それよりも、この場に別の看護師など呼ばれでもしたらまずい―――雅美は看護師に預けていた身体を離すと、乾いた笑顔を作りながら言った。
「あ、あの、いつもの事なので、少し休めばよくなると思うんです。そうだ、下の階に長いすが置いてありましたよね、申し訳ないんですが、そこまでで良いので、肩を貸していただきたいんですけど」
「う〜ん……顔色がさっきより悪くなった気がするけど」
悪くもなるわよ―――と、心の中で思いつつも、雅美は少し戦法を変える事にした。
「そうですか……解りました。私、一人で戻ります。看護師さんにはお仕事がありますものね。私みたいなただの貧血で、看護師さんの大切な仕事のじゃまをしては申し訳ありません。ごめんなさい看護師さん、私がもう少し頑張れば良かったんです。じゃ、戻ります」
と言うと、弱々しさを保ちつつも、階段のある方へと向かって歩き始めた。
「ああ、ちょっと待って……下の長椅子までで大丈夫?なら、やっぱり付き添って行くわ」
来た!―――雅美は内心、相手の看護婦が食い付いてきた事を感じた。
『押してダメなら引いてみな』と言うのは、江戸っ子のお爺ちゃんの言葉だ。生前は、鉄砲玉みたいだった―――と、おばあちゃんに言われていたとおり、無鉄砲だったお爺ちゃんだが、おばあちゃんに交際を申し込むときにはあの手この手で攻めたらしい。結局おばあちゃんを落としたお爺ちゃんは、何度もその時の話を、楽しそうに語っていた。
雅美はそれを思い出して、実行してみたのだ。
目の前にいる女性も一応は看護師だ。目の前で辛そうにしている人間が助けを断られて、それでも健気な姿を見せれば、放っておけるはずがない……って、なんだか私、虚しい気持ちになるのは何でだろう。
人をだます事に一生懸命になっている自分に、雅美は少しばかりの虚しさを感じずにはおれなかった……が、とにもかくにも目の前の看護師を、病室の前から離れさせるのが第一の目標である。
多少の事には目をつぶるとしよう―――と、雅美は自分で自分を納得させる。
「あ、ありがとうございます……助かります……」
雅美は多少の罪悪感を感じながらも、貧血で苦しむ可憐な少女の役を演じ続けた。
私って、以外と演技の才能があるのかしら―――と、こちらも多少の勘違いを持ちながら。
だがしかし、この行動のおかげで病室の前に張り付いていた看護師を、階下の長椅子までではあるが、引き離す事に成功したのも事実である。雅美は看護師の付き添いの元、一階下にある長椅子まで行くために、階段のある方へと歩き出した……
って!?階段には貴弘がいるじゃない!!
どどどど、どうしよう。
雅美は階段に向かう途中、その事実に気が付いた。
この五階は一般病室とは違い、限られた人しか使わない場所らしい―――と言うのは雨宮から聞いていた話である。
「きっと美智子も、五階の特別病室に入っているに違いない」という雨宮の言葉から、二人はここにやってきたのだ。そして、看護師が病室の前で待機していると言う、いかにも怪しい場所を雨宮は美智子の病室だと断定し、その為に今こうして、自分がその看護師を病室の前から引き離したのだ。
それなのに、階段で待ちかまえている雨宮が看護師に見つかったら元も子もなくなる。一般病室とは違い、この五階の病室に入院している人達は、『訳ありな患者』もいると言う。つまりは、雨宮がこの看護師に見つかれば、必ず咎められると言う事だ。
もしその際、上手い言い訳でもあれば良いが、嘘がばれれば、自分の嘘もばれるだろう……嘘がばれれば、学園側にも連絡が行く。
―――それだけはまずい。
学園側に知られ、厳重注意される程度ならばこれと言ってなんの問題も無い。しかし、それで学園側からの監視が厳しくなって、これからの行動に制限が加えられるのは上手くない。
事件の調査は始まったばかりで、これからまだまだやらなければならない事は山ほどあるハズ。ここで躓いて、これからの調査がやりづらくなっては、犯人を追いつめられる可能性も低くなる。
雅美は考えれば考える程、冷や汗とも脂汗とも取れない嫌な汗が、吹き出してくるのを感じた。
「あなた、大丈夫?凄い汗だけど……本当に体調が悪そうね。やっぱり先生に診てもらった方が良いわね」
そんな焦りもつゆ知らず、ダラダラと汗をかき出した雅美を、看護師は本当に体調が悪いモノだと勘違いしていた。
「だだだ、大丈夫です。下の長椅子で休めば直ぐにも直りますから」
―――ひぇ〜
雅美は『本当に』目眩が起きそうだった。
そうだ、お爺ちゃんはこうも言ってたっけ……江戸っ子は嘘だけは付いちゃなんねぇ―――って!!
雅美が混乱に陥っていると、階段の踊り場はもうすぐそこまで迫っていた。
一歩、また一歩と、どうしよう―――と言う堂々巡りの焦りとは関係なく、階段の踊り場にどんどんと近づいて来る。
も、もうダメだ―――と、観念したその時、雅美と看護師は踊り場にたどり着いた。
「え?」
と、その光景に、雅美に張りつめていた緊張が、一気に抜け落ちる。
そこには、雨宮の姿は見つけられなかった。
「はぁ〜」
思わずため息がでる。
「ねえあなた、本当に大丈夫?」
「へ?」
隣で付き添っていた看護士は、雅美の脱力さ加減に本気で心配しだしていた。
「だ、だだ大丈夫です。いつもの事ですから……ははっ」
く〜貴弘のやつ、これじゃ本当に貧血になりそうだわ!
雅美は、初めて貧血と言う感覚を知った。
「だけど貴弘、一体どこに隠れたのかしら……」
「さてと……」
雅美はうまくいった様だな。
雨宮貴弘は、雅美が看護師を引きつけて四階へ降りてゆくのを確認すると、手早くその身を病室の前へと滑らせて行った。
階段の踊り場から左に曲がると、廊下を挟んで両側に病室のドアが並ぶ。一般病棟に比べると、五階の病室は大きめに作られているのだろう、個室のドアの数は三分の二程度だった。
看護師がついていた病室は、左側の手前から三つ目。歩数にして二十歩。
一、二、三、四、五、六……
誰かがこの病室に近づいています―――
乃亜は短くそう伝えると、美智子に向かい直った。
「美智子さん、もうあなたは目を覚ましても大丈夫です。ただ……少しお願いがあります。今からここに来る人は、どうも病院関係者とは違う方の様です」
「私はまだ、目を覚ましていない……と言う事ですね」
彼女の意図することを察したのか、和田美智子は、乃亜がすべてを言い終わる前に自ら口にした。
「良く、おわかりになりましたね」
「何となくですけど、乃亜さんは、私に起きた事を調査してくださるのですよね。私に取っては全く覚えのないことなので何とも言えませんけど……今ここに向かっている人が病院関係者ではなく、乃亜さんがわざわざそれを伝えると言うことは、その人も調査対象の可能性がある―――と」
「その通りです。幸い、この病室の中には身を隠す場所があります。この病室に入ってくるかどうかは分かりませんが、もし、この病室に入ってくるならば、私はその者の行動を観察しておきたいのです」
「わかりました。それならば、私はまだ眠ったままの『ふり』をしていれば良いのですね……ですけど、近づいてくる人が、病院関係者ではないと、どうしてわかったのです?」
「それは、近づいてくる者が、不自然な位に気配を消しているからです」
乃亜はそれだけ言うと、和田美智子には聞こえないほどの小さな声で何かをつぶやいた。
すると―――周囲が一瞬にして暗闇に包まれ、和田美智子の精神世界から、二人の姿が消えた。
十五、十六、十七、十八、十九、二十……と。
雨宮貴弘は、目指す病室の前に立っていた。
ふむ、目測通りだな―――
一応周囲に目配せをするが、気が疲れた様子はない。
「もっとも、一般人には見つかるわけもないけどな」
一人つぶやくと、雨宮は病室のドアに手をかけた。
鍵が掛かっている可能性も考えたが、さすがにそこまでは心配いらなかった。慎重に、音を立てないようにドアノブを回すと、ドアはすんなりと開いた。
雨宮は素早くその身を病室に滑り込ませる。
この五階にある病室は個室になっており、噂通りに他の一般病室とは違って完全な防音になっている。訳ありの患者も多いと言う病室なので、その辺の設備は必要なのだろう。
雨宮はしかし、気配を消すことをやめなかった。
目の前にある仕切となっている衝立から、素早く病室の中をうかがった。
もし病室の中で、医者が患者を診ている最中だった場合、戦略的撤退を行う為である……が、雨宮の読み通り、部屋の中には誰もいなかった。
いや、誰もいないと言うのは誤りである。
部屋の中央右手に大きなベッドがあり、その中で、雨宮も良く知る人物が、今も眠りについていたからである。
「んんっん」
もっともらしく咳払いをしてみる。
が、やはり美智子は目を覚ますどころか、声に反応する様子もない。
「……」
よほど眠りが深いのか、それとも未だ目を覚ましていないのか、今の段階では判断出来ない。
雨宮はベッドへと近寄った。
「おーい美智子、起きろ、朝だぞ……」
今度ははっきりとした声に出して呼びかけてみる。
しかし、それにも反応する様子は見られなかった。
「美智子、起きないとキスしちゃうぞ〜」
「……」
雨宮は美智子の顔を覗き込むと、一つため息をついた。
今まで、大体予想していた通りだった雨宮だが、和田美智子が目を覚ましていないことだけが想定外だった。僅かな可能性としては考えていたモノの、本当に目を覚ましていないとは思っていなかったのである。
雨宮は、未だ和田美智子が目を覚ましていないと言われていたが、それは事件の性質上、見せかけの事だとたかをくくっていたのだが、考えを改めなくてはならない。
「どうしたもんかね……」
雨宮は腕組みをしながら考えた。
雅美が時間稼ぎをしているとは言え、残された時間はそう長くはない。とは言え美智子が目を覚ましていない状態では、手の打ちようがないし、この先事態が展開するはずがない。
強制的に目を覚まさせる方法を考えてみる。
まず、美智子の状態を考えてみよう。何らかの病気を考えれば、強制的に起こす事はやってはいけないだろう……しかし、見た感じでは集中治療の器具がついているわけでもないし、その他、検査器具もつけられていない。と言うことは、肉体的な要因ではないと言うことか。
だとすれば、内的要因なのだろう。
内的要因―――すなわち心の問題。
あの夜、精神的な問題が起きて、美智子は意識を取り戻さないのか…… いや、自ら殻に閉じこもっているのかもしれない。
だとすれば、美智子が目を覚ますのは長引くかもしれない。いや、このまま目を覚まさない可能性もあるのではないか。
「……」
それ程までに精神的な衝撃を受ける事とは何なんだろう―――と、雨宮はその事に興味を覚えたが、何にせよ、美智子が起きなくては調査が難しくなる事は目に見えている。
それに、犯人を捕まえるとしても、彼女の意志も確認しておかなくてはならない。
「どうしたもんかね……」
やっぱり強制的に目を覚ましてもらわない事には始まらないのだろうか?
美智子もこのまま目を覚まさなければ衰弱してしまうだろうし。
雨宮は組んだ腕に力を入れた。
「眠りの姫を起こすには、王子様のキスと相場は決まっているんだけど、俺に出来るかどうか―――」
「何が出来るんでしょうか?」
なっ―――
突然背後から声を掛けられた雨宮は、いつものへらへらとした表情を保つ事が出来なかった。
つづく