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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

空蝉の

ヘッドホンの中の無音

作者: 彼方此方

耳をつんざく空気音と共に零れた不要音に目配せすれば、ぎこちない音の流れは途切れ、穏やかな静寂が戻る。

せきとなった青年は舌打ちしながら、鞄の中をしばらく探った後、

「わっりぃ。ちょっと弦、切らしてた。買ってくんで、待ってて」

と一言残し、重い防音扉を開けスタジオの外へ飛び出した。

厚い防音扉の締りきる音と共に、飛び跳ねだした無秩序な音の反乱に規則性を探し求めることを諦めた省悟は、肩からストラップを外し、落とし処が見つからぬからぬ心と共にベースをソフトケースへと投げ込むようにしまう。

「俺、バイトの時間が来たから帰る」

「お、おう」

いつもの口上に、見慣れないメンバーが動揺を見せるが、そんなものは気にしない。そもそも、助っ人位しか使えるメンバーがいない入れ替わりの激しいこのバンドに省悟の行動を止められる人間も居ないだろう。

「何でショウゴ、ギター弾かねぇの?あのリフ、ぜってぇーショウゴの方が上手いのに」

ベースと少ない私物が入れられた鞄がわりのケースを担いだまま、片手で靴を履き、スタジオの防音扉に手を掛ければ、スタジオの奥、ドラムセットの隙間から、今回、声をかけてくれた一樹が苦い顔で無理を通せない願いを口にする。

「俺、元からベースだし」

だから気にするな。とは、けれど言えなかった。

みんなバイトでなんとか食いつないでいて、毎週のスタジオ代を持ってくれるユウジの存在は多少の乱雑な演奏が耳障りであってもありがたいのだ。

それでなくともメンバーとして入った当初からボーカル兼任でギターは既に一人居たし、ベースの方が付き合いも長く慣れ親しんでいた。しかもベースはバンドをイメージつける大きな力をもつ。だから省吾はためらわずベースを選んだ。ただそれだけだ。

楽曲だってカバーのみならず省吾が提供するものを皆喜んで試して、率直な感想を与えてくれる。こんな恵まれた環境にケチをつけれるほど省吾は世間知らずでいられる年齢でもない。


「省吾、頼んでたやつ、入荷したぞ」

「あ、店長。ありがとう」

呼び止められ、通り過ぎかけたレジに駆け寄り、見上げたショウウィンドウ越しの空は灰色で、時折、窓ガラスにストライプの模様を描く。

手渡されたヘッドホンはネットでの評判もピカ一の癖に値段も省吾のバイト代を食い散らかすほど高くもないもので、急激な人気に常にどこの家電量販店も楽器店も品切のものだ。人気が出すぎて初期ロット以降急激に品質を落としていくものもある。今手に入らなければ諦めようかと悩んでいたものだった。

省吾は耳から入れるものだけは、出来るだけ真っ直ぐなものが欲しかった。生きることに厳しさを求め、夢見ることを無謀だと笑われる世の中なのは百も承知の上だ。

だからヘッドホンの中、音に溺れるその数分間だけは、自由でいたかった。

月末も相まって小銭ばかりが踊るだけの財布の中身に、来週バイト代が入るまで取り置きしてもらう為の手段に考えあぐねれば

「明後日、新しいピアノが入荷するんだけどさ、デモお願いできるかい?」

バイト代は、こいつ分も込みで弾むからさ。

と店長が厳つい顔をぐしゃりと崩し笑いかけてくれた。


前払い分だと手渡されたそれを、早速ベルトに吊るしたケースの中のスマホのジャックに差し込み、首にかけて、店からから駅ビルのそう広くない通路に飛び出す。

人気のない階段を転げるように飛び降り、携帯とは逆のジーンズのポケットから取り出した定期を片手に改札を駆け抜ける。

電光掲示板の表示をちらりと確認しつつ、右側の奥の階段を左に下がってから二車両分歩みを進めると、いつもの電車が数秒の誤差さえないのではないかという正確さで駅構内に滑り込んできた。

始発から二駅目のまだ若干座れる余裕を残す車内。右手の長椅子の三番目か四番目が省吾(しょうご)の特等席だ。

ここならベースを足元に置き、抱えたまま座れるし、人も留まらないので降りる時立ちやすい。何より床から上に延びるポールがベースを守ってくれる。


ざわつく車内の心が擦り切れる日常の騒音から逃げるため、座ると同時に省吾は少し不格好な黒いヘッドホンを耳栓に、スマホに詰め込んだ音楽に心を飛ばす。

思っていた以上に低音がずっしり伸びる。高音が飛び逃げない。やはり当たりだったと、車内を忘れ思わずにんまりと笑みが漏れた。

ヘッドホンの中、音漏れしないギリギリのラインまで音量を上げれば脳に処理しきれないほどの大量の情報が激しく流れ込み一時的にハングアップさせる。一種のトランス状態に近いであろうこれを省吾は<無音の音楽>と呼んでいる。



省吾にとって音楽は昔から特別なものだ。

例え一瞬であろうと、嫌な事を全て忘れさせてくれる。

行ったことのない国を教えてくれて、見たことのない景色を見せ、やったことのないことを体験させてくれて、会ったことのない人々と対面させてくれる。

とうの昔に壊れるどころか砕け散った楽しくない省吾の家族も、両目を閉じ、両手で隠しても見せつけられる楽しくない省吾の現実も、音楽は浸り溺れている間だけは省吾から忘れさせてくれる。

思わず溢した本音にまるで童話の中の少女が燃やすマッチのようだと冷やかし囃し立てたのはどの大人だっただろうか。


省吾は音楽というものを一度もちゃんと習ったことなんてない。

店長から先程声をかけられたピアノだって独学で、そこそこ形にはなって聞こえているもののクラシック畑で育てられた人とはやはり雲泥の差がある。

この耳と目だけが省吾の先生であり、人恋しさから一人足繋く通ったショッピングモールの売り物のテレビと楽器屋、そして店内に流れ続けていた音楽が今の省吾を組み上げた。


今、耳に刻まれるのは省吾の知らない異国の民族音楽をベースに作られた国内の有名バンドの音楽だ。数年前、パタリと活動を休止し、ファンはかなり動揺したらしいが詳細は音のこちら側にはなにも伝えられないまま月日は過ぎた。

けれど、そんなこと、省吾にはどうでもいい。だって、音は今もここに息づき確かに省吾の心を揺さぶっている。彼らが確かに存在した証がここにある。



バイト先まで通過する駅は四つ。

ビリビリと自身を揺らし外の薄暗さからか車内の様子が写り込む窓ガラスに視線をやれば、雨粒が斜線を急激にかつ大量にえがき出した。

先程、スタジオを出る時、降り出した雨が本降りへと変わり、雷を呼んだのだろうか。灰色から黒色に色を変えた雲の隙間に銀色の輝きが迷うのが見てとれた。


着いたらバイト先まで全力で走らないとベースが濡れてしまうな。そんなことに想いを馳せつつ、身体の前に抱き抱えるように持ったベースからふと視線を上げた先、地下に潜った為か電車の明かりが切り替わりか何かで一瞬消えたように感じられた。

よくあること、というか、毎日体感しているはずの事だった。

なのに、何故かその日の省吾は違和感を感じ、瞳を閉じ浸る筈だった音の楽園に踏み込めないまま、窓に写り込みこちらを見つめ続ける、何処にでも居る冴えない風貌の学生を見つめ返した。



さほど混んでいない車内だった。だから続くその違和感に音楽に浸っていない省吾もすぐに気がついた。

省吾の右隣、確かに空いているはずの席にいつの間にか座る一人の少女の姿が窓の中、見えたのだ。

省吾が気がついた事に気がついたのか。美しい金糸の刺繍にきらびやかな鉱石からつくられた飾りが縫い付けられた露出の高い衣装を纏った少女が、確かにガラス窓越しにコトリと首を傾げ大きな耳飾りを揺らしながらニコリと省吾に笑ってみせていた。

映画だとかライブだとか、あとはネットの動画サイトで見かけるような、この街には不釣り合いな異国のおとぎ話に出てきそうな少女の姿に驚きを隠せず何度も空いた席を撫でて確認する省吾に、左隣に座っていた年配の化粧が濃い女性が居眠りから顔を上げ訝しげに睨み付けてくる。


ヘッドホンから途切れることのない音の羅列を聞きながら、本能的にこれは見なかったことにすべきだと省吾が瞼を閉じ、何時ものように音の海に浸り溺れようとしたときだった。


人が少ないとはいえ狭い車内の中だった。

省吾の耳にする音が聞こえているかのように少女は車窓の中、激しく白く細い素足で複雑なリズムを刻み、躍動的に大きく振り上げられた腕から伸びた華奢な指先で繊細な旋律を舞い始めたのだ。

思わず息をのみ窓を見入る省吾に、再び隣の豚が化粧したかのような女性が睨み付けてくるがもう、気にする余裕も省吾にはなかった。

省吾が求める音が、音楽が、そのまま具現化したかのような少女の踊りに息が詰まる。確かに溺れる程に深く激しく大きな波をたてる音の海に省吾はいるはずなのに、そこはどこまでも静かに凪いでいて、ただ異国情緒漂う清純な少女だけが激しく踊りを舞っていた。



気がつけば車内放送で次の駅がバイト先の駅だと連呼されていた。

再び息を飲む省吾の隣、牝豚が何かぶつぶつ言っているがヘッドホンのお陰で何も聞こえないとスルーする。しかし、見つめ続けていた筈の少女の姿はいつの間にか窓ガラスから消え去り、省吾は窓に写り込みこちらを見つめ続けるベースケースを抱き抱えた自分自身を見つめ返すことしかできなかった。




<無音の女神>


フラりとなんとか降り立った駅のホーム。走り抜けていく突風に煽られつつ数ヵ月前、ネットで見かけた噂が省吾の脳裏を横切る。

都市伝説のようなものだと思っていた。

共通点は<無音>と<少女>というキーワードだけで、噂の内容も幸運の兆しから悪霊死神レベルまで様々過ぎるからだ。

あの幻の少女がそうだとは限らないし、ひょっとしたらついに省吾の心が致命的に壊れ悲鳴を上げただけなのかもしれない。

けれど、それでも省吾は、またあの少女とまみえたいと心から願っていた。

もしも都市伝説のように願いを叶え死を与えるという女神様ならば、更に最高だ。もう半分は捨てたような命だ。投げ出しても手を伸ばし、彼女の持つ、その音の高みにすがりたい。

いや、そんな陳腐な願いなんてどうでもいい。彼女と同じ音を共有する。それだけでも十二分に幸せだと思えた。


ホームの放送が次の電車の到着を知らせる。

とりあえずは次に彼女に出会える可能性を保つため、生きていかなくてはならない。

省吾は、ぶるりと頭を振るいヘッドホンを大切にベースケースのポケットにしまうと、現実の厳しさに向き合うためバイト先に向け、ホームの階段を力一杯駆け上がった。




いつも通りのバイト先は、いつも通りの忙しさで、けれど彼女の踊りから獲たインスピレーションから涌き出る音が省吾の脳内を埋め尽くしていった。

早く音を形にしたかっただけだ。なのに、『今日はいい笑顔だね』『頼りになったよ、ありがとう』とバイト先の皆から声をかけられる。何より不思議だったのは、上がりの際、いつも感じるまとわりつく泥のような疲労感がこれっぽっちも感じられなかった。

これは、壊れたか死神の方だったなと高を括った省吾はその日、暖房のない自宅に帰ると薄い布団を体に巻いて、一睡もしないまま溢れる音をかき集め形にしていった。




迎える筈のなかった、今までの人生で一番穏やかな朝日を目にして以来、省吾は電車が地下に入った瞬間から、車窓にトンネルしか見えない筈の区間で彼女との逢瀬を繰り返すようになった。


当初はあちら側にいつ連れていかれるのか、いや、いつ命を喰い尽くされるのかとも思っていたが、窓ガラスの中の少女は省吾の中の音に興味は示すものの実体としての省吾に一切関わることはなかった。

激しいベースの鼓動の中、突き刺さるように輝くギターの乱反射を思わせる少女の舞いは彼女の手首と足首につけられた聞くことの出来ぬ鈴の音に心を馳せさせる。

新たに生まれ出でる音と消え去っていく音のコントラストは儚くて美しい。

こんな音を作ったなら彼女はどんな風に舞ってくれるのか?

こんなリズムを打ったなら彼女はどんな風にステップを刻むのか?

あれ以来省吾は寝る時間も惜しんで音を紡ぐようになった。

くだらないメンバーだと思っていたバンドのどんな音にでも次に繋がる可能性が見いだせるようになった。

求める事が多すぎていつも以上に練習し、久しぶりに激しく指の皮膚が裂ける。それが純粋に嬉しかった。


少女との車窓での邂逅を繰り返す度、省吾は、苦しみの中、もがき足掻いていた省吾を生かしてくれた無音の中の音楽が、今、省吾の中の音を糧に非日常の幸せを芽吹かせ花開かせようとしていることを実感していった。




「最近、ショーゴ、機嫌がいいよな。作ってくる曲も、なんつーか……すげー良いよ。店長もさ、言ってたよ。前より世界が広がったっつーか……深まったっつーかってさ。何かあったの?」

みんなが揃うスタジオの中、動画サイトにupする為の機材の準備の最中、一樹がエフェクターの位置を調節する省吾に声をかけてきた。

「どうだろうな?自分ではわからないよ」

話すつもりもないが、<無音の女神>のおかげだと言っても誰も信じないだろうなと思い省吾は薄く笑ってはぐらかす。

彼女に出会ってから、省吾は決して彼女のことを誰にも話さずにいた。話すほど親しい人間が周囲にいなかったこともあるが、なによりも誰よりも尊いその存在は誰かに話した瞬間、消えてしまいそうなほど虚ろで、省吾の不安を一身に駆り立てるからだ。省吾は彼女のことを失うような可能性は万に一つも作りたくなかった。

「女?」

「ギターやベースが上手い奴に彼女なんかいるわけねーだろ。んな時間があれば練習してるよ」

「確かに」

優二の的を射た言葉に、いつの間にか助っ人から本メンバーに上がった成瀬がキーボードを叩きながら大笑いして崩れていき、ギターとマイクの調節をしながら和志がニヤリと同意を見せる。気がつけばこのバンドのメンバーの入れ替わりも落ち着いて、省吾が作る世界観を売りに音楽性もかなりしっかりとした方向性を持ち始めていた。

一樹の話だと、先月上げた動画の再生回数は今までで一番で、どこかしらから連絡もきたらしい。


「じゃ、始めんぞ。一発で終わらせねーとショーゴがいつも通りバイトいっちまうし、今夜から和志が帰省すっからな」

一樹の声とクスリとした皆の笑い声の後、スタジオ内に、省吾が焦がれるモノとは異なる静かで、音を乞い求める無音が広がった。

暫しの無音の後、ギターのメロディアスなソロが歌い出し、省吾がドラムの一樹と一緒にその音の海に躊躇いなく飛び込めば閉じた瞼の裏、あの車窓の少女がもっと、もっとと言わん限りに省吾の音を求め躍り乱れるのが見えたような気がした。



いままでの差し引き分だと言わんばかりに急激に訪れる日々の幸いは、省吾に無条件に<無音の音楽>にも似た感覚を与えてきた。ヘッドホンの中、最大音量で与えられる処理しきれない音の流入と同様に、いままでに感じたことのない一人ではないという幸福感が脳を一時的にハングアップさせる。その幸福感の要因の最たる存在は間違いなくあの少女、<無音の女神>以外なかった。

目を閉じ耳を塞ぎ沈黙を守りたい現実は今までと差して変化もなかった。けれど、少女との邂逅の時の悦びの為だけに日々濃くなっていく白い息を吐きながら薄い布団を体に巻いて寝る時間も惜しんで音を探す日々は、どう思い巡らせても今まで省吾が生きてきた中で一番濃くて、一番幸せな時間だった。

出来立ての音源を一樹のノーパソからスマホに入っている無表情な打ち込みの上に上書きした省吾は、福袋を用意する店長に呼び止められ明後日からのお年玉やら一年の計狙いのデモンストレーションの打ち合わせを終わらせると、足取りも軽くいつものバイトへと向かう。途中、ふと気がつけば駅ビル内の通路や店先を先日まで明るく彩っていたはずのツリーや星はすっかり姿を消し、気が早い店は本番は明日からであろうに、すでに琴や尺八の音色を響かせていてた。


今夜は大晦日で、バイト先の店はオールナイトということもあり、省吾はいつもより遅めの時間の入り予定だった。だが、いつもの時間とずれても彼女は車窓に現れるのはかなり早い時点で確認できていたから省吾に彼女と会えないという不安は一切ない。縛りはどうやら一日一回という回数と、あの区画という二点に限られているようだった。

いつもと変わらず人気のない階段を急くように飛び降り、首に馴染むヘッドホンが繋がるスマホがぶら下がるのとは逆のジーンズのポケットから取り出した定期を片手に改札を駆け抜ける。

電光掲示板の表示をちらりと確認しつつ、右側の奥の階段を左に下がってから二車両分歩みを進めると、目の前に電車が滑り込み、生暖かい息をはきつつ口を開けて省吾を招き入れた。

いつもの三番目の席に座って車内を見渡せば、時間のせいか、今日という日のせいか。いや、一番の理由は路線周辺に大きな神社や寺がないためだろうが、いつも以上に……というか、いかにも酔っていますという体を見せる、今日という日にあって、あからさまにスーツ姿のサラリーマンの男性と今乗り込んだ省吾しか車内には居なかった。

この時間ならば車内での年越しとなるだろう。

走行音以外響かない車両の窓は、今まで省吾が見た中で一番、表面積が広かった。胸の高鳴りを激しく感じながら省吾はヘッドホンを耳に当て、先程、録ったばかりの音に心を飛ばす。

ビリビリと自身を揺らし今宵も眠らぬ街の明かり映し見せる窓ガラスに視線をやれば、待ちに待った切り替わりの一瞬が訪れる。

よくあること、というか、毎日乞い求め体感しているはずの事だった。

なのに、何故かその日の省吾は再び、けれど前回とは異なった違和感を感じ、少女の舞い踊る音の楽園に踏み込めないまま、窓に写り込みこちらを見つめ続ける、省吾自身を一瞬見つめ返した。



そう言えば、ずいぶん前にあっさり省吾を置いていった、けれど、唯一省吾に温もりをくれた今は亡き祖母が言っていた。

晦日(みそか)の夜は狭間の日。お前は聡い子だ。だからこそ隙間を覗いたらいけないよ?人の世とそうでないものの世がほんの少しそこで繋がってしまう夜。それが晦日の夜なんだ。だから、一年の最後の大晦日にもなればもっと恐ろしいものが隙間に蠢く。だから、お気をつけなさい』


言われた言葉を、今日という日だろうか、それとも感じた違和感のせいだろうか、省吾はなにげに思い出した。

そう言えば、〈無音の女神〉である彼女と初めて出会ったのはいつだったのか。

記憶を辿る中、今日もガラス窓の中で生まれたばかりの音とリズムに跳ね回る少女がどこからともなく現れ、音もなくクスリと省吾に邪気なく笑って見せた。

あぁ、そういうことか。

省吾の中で妙にしっくりいく。

数ヵ月前、彼女に出会ったあの日は月末、晦日であり、今宵は大晦日だ。


短い間みていた夢は、幼い頃、心ない大人に囃し立てられた、まさに童話の中の少女がすがっていた希望そのまま過ぎて、自分でも苦笑がこらえられない。


ネットの噂から〈無音の女神〉などと彼女を表現していたものの、元々省吾は神様なんて信じていなかった。もし本物の神様が居たとしたならば省吾の家族はバラバラにならなかっただろうし、居たとしてもあんなに残忍で我が儘としか思えない事を本当に人間に望んでくるのなら省吾はこれ以上関わりたくもないとずっと思って生きてきた。

少しだけ変化を見せたかのように見えていた省吾の現実は、実際のところ、ちっとも変わっていないのもよくわかっている。どんなに希望を求め未来を信じる曲をつくっても、目を閉じ耳を塞ぎ沈黙を守りたい現実は今もなお省吾の前に冷たく大きく鎮座する。


少女は確かに無音の世界には居るだろうが、良くも悪くも省吾のリアルには干渉してこない。

無音という名のトランス状態の中に住まう少女が女神様なんていう都合の良いものではないことも、省吾はとっくに気がついていた。


これこそが無音の音楽が見せた夢物語だったのか。

それとも祖母が言う隙間からの(いざな)いだったのか。

けれど、気づいてしまった今、はっきり見つめてしまった今、そんなこと、省吾にはもう、どうでも良く思えた。

諦めたと自分に思い込ませながらも心のどこか奥底で恋い焦がれた夢を追い自由を歌う省吾の曲の中、少女は幸せそうな笑みを浮かべ身軽な身体で生を歓喜している。


音楽のお陰で生きてこられたとずっと思っていた。でも違った。ここまで生きてこられたから音楽を愛せたのだ。

音楽の中に無音という名の無我を見つけられるほどに省吾は音楽を心から愛していたのだ。




隙間の向こうに何があるのかなんて省吾は知らないし、少女が省吾の知る姿そのままで、そこに居るとも限らない。

頭から一口でガブリといかれるかもしれないし、延々と続く攻め苦が待っているのかもしれない。

けれどやっと出会えた、一人ではないという、確かに感じた幸福感を、例え夢や幻であろうと、どんな苦しみや痛みを与えられようと省吾はもう失いたくなかった。


俺って真性のマゾだったんだな。自嘲しつつ、そこまで思い至った時、先程別れたばかりのバンドのメンバーの顔が省吾の頭を過った。

せっかく、一緒に音楽を刻み始めた仲間との別れが惜しくないと言えば嘘になる。けれど、省吾はどうしても目の前の少女の中にあるであろう音楽を知りたかった。彼女の愛する音楽を知りたかった。メンバーと過ごした時と同様に、苦しみや痛みをもって真っ直ぐ向き合うことで得られることもあるかも知れない。

省吾は少しだけ瞼を閉じ、深呼吸し天井を見上げたあと、ミュージックプレイヤーを立ち上げたまま、スマホに保存していた幾つものデータを一樹のメールアドレスに一気に送る。

何もなければ、何となくと笑って誤魔化せばいい。

こんな自分に付き合ってくれた仲間へ省吾が唯一残せる、ここに省吾が生きていた証がそこにあった。


その日、省吾は踊りの最中、求めるように伸ばされたガラス窓の中の少女の手を、直接触れることもできないとわかっているのに、思わず握りかえそうと、初めて手を彼女へと伸ばした。

座席足元から伸びるポールに引っ掛かり耳についていた筈のヘッドホンが抜け落ちる。

腰からぶら下げたケースから落ちかけたスマホを握りしめた瞬間、耳をつんざく空気音と共に、省吾はヘッドフォンの中の、今までに感じたことのないほどの噎せ返るほどの大量の無音と共に、確かに少女の手の平の温もりを感じた。



*****



駅を通過する瞬間、突風が音をたてて走り去っていく。

年の瀬の最後の最後まで体に鞭打ち働いて、明日こそは昼間まで寝るんだと久しぶりに、しこたま酒をくらった男は、うとうとしつつも、ふと、自らの認識に不安を覚え目を擦った。

先ほどまで座って居たように見えた少年が、あり得ないことだが、姿を消してしまったように見えたのだ。

よほど疲れたのか、飲みすぎたのか。

きっと、地下の無機質なホームに立っていた人間の写り込みでも車窓に見たのだろうと斜めになった体を起こせば、再び地上に上がった車両から見える外の景色に新年の訪れを祝う花火が小さくみえた。



座席にヘッドホンだけを残して消えてしまった少年に、同じ車両にただ一人乗っていた泥酔気味のサラリーマンは、気のせいだと頭を軽く振ると、アルコールからの浮遊感にも似た誘いに惹かれ、乗車口そばの手すりに身を預け再び眠りに沈みこんだ。


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