エンペラー確率論
「もしも貴方が皇帝になろうとするじゃない?そうした時に、必要になるのはやはり運だと思うのよね」
彼女は昨日のTV番組を話題に出すかのような気軽さで呟いた。
「だってそうでしょう。貴方みたいな人がそんなに偉くなれるはずないもの。でも彼らだって人類の運命の激流の中でそこに辿り着いただけなのよ。貴方だって父親が皇帝なら当然世襲するはずでしょ」
「つまり父親が皇帝であるという強運が必要って事?」
「それもあって困ることはないわね。でも、貴方はもう既に環境も運命も与えられ決まってしまっているのよ。このまま冴えない人生を送る」
彼女の表情は僕を侮蔑しているわけではないようだ。寧ろ上等のウイスキーでも飲んだかのように上機嫌である。
「運とは運命なの。ここから成り上がるためには人知を超えた力が必要なのよ。皇帝が全員世襲なわけ無いでしょ。それに、世の中の童話には不思議な力を得て上り詰める話なんて枚挙に暇がないわ。でも彼らは不思議な力を手にしたわけではなくて、その力を得るための運を何処かで拾ってきただけなのよ」
舐めるように飲んでいた生温い自販機のカップコーヒーが底をついた。諦めてコップを置き、興奮して少し紅潮している彼女の顔を眺めた。
「少なくとも君は容姿という点では僕よりも運を持って生まれてきているよね」
冷笑しがてら発した言葉は皮肉と本心が入り交じっていた。
「あら、でも女性が皇帝になるのは不可能だわ。それは女帝よ。もしも私がほとんどの皇帝になれる運を持って生まれてきたとしても、最後に性別で引っかかってはなんにもならないわ」
「つまり僕のパラメタは僕にしかならない。そして君も」
時計の短針が真上を向き、ちらほらと学食に人が増え始めた。僕たちは食器を返却して人の流れに逆らうように生協棟を出た。外は強い風が吹き荒び、少し油断すると目にゴミが飛び込んでくる。僕の掛けている眼鏡は小さい外敵相手には役に立たないようだ。照り付ける日差しは僕の長袖のパーカーを脱がすには十分だった。僕は彼女と別れ、図書館へと向かった。図書館は薄暗い地下に位置しており、階段を降りた先にゲートがある。
日本文学の棚から気楽そうなタイトルの本を数冊手に取り、中をめくってその中の一冊を自動貸出機へと持っていった。前回は友人の勧めで太宰氏の短編小説集を借りて読んだ。酷く憂鬱な気持ちになったので、次は楽しい小説を読みたかった。
出口のゲートを通るとちょうど友人の妙田が階段を降りてくるところだった。彼の持っている本の背表紙は瑠璃色に鈍く輝いていた。
最寄りの夜都駅から、朝はそこそこの人通りがあるバス通沿いの道を二十分歩けば僕達の通う大学にたどり着く。毎日往復四十分間のウォーキングは怠惰な大学生に僅かな健康と莫大な遅刻のリスクを押し付ける。その復路を僕は妙田と並んで歩いていた。
「君の彼女は相変わらずのロマンチストなんだな。こないだ神社の境内に一人で立ちすくんでいるのを見たよ」
妙田は皮肉の効いた口調で突然喋り始めた。
「彼女というよりはガールフレンドだよ。おともだち。彼女が僕と仲睦まじくデートしているところを想像できるかい?それこそ神社に一人でいる方が絵になってる」
彼はへいへいそうですかなどと零しながら無精髭を生やした顎を撫でた。
「それで、そのお友達は一体何をしていたんだい?あの日はまだかなり肌寒かったぞ」
「きっと変わりたかったんじゃないのかな」
「ほう。お前までロマンチストになっちまったか」
彼女はきっと可能性を探しているんだろう。
「しかし彼女は変わってはいるが相当の器量良しだぞ?変われるものなら俺が変わってほしいね」
僕は考える素振りを見せた。彼はまだ髭を気にしながら歩いている。
「変わるっていうのは、お互いが交換するような、そういうことじゃないんだ。たとえ君が彼女の姿になってもそれは君でもないし、彼女でもない」
「でも俺の人生は大きく変わるよな?」
「でもそれは君じゃない」
おぉ、なるほどなぁうぅむとうめき声のように呟いた。妙田は伝えにくいことを喋っても納得する振りをしてくれるから喋りやすくて好きだ。
駅まで着いたところで突然妙田が見せたいものがあったんだと言い出した。東京行きの上り電車は五時を過ぎると帰宅時間のピークに入り一気に混み始めるので、それまでならと断りを入れた。
妙田は少し躊躇いがちな笑顔をしていた。
喫茶店に入った途端に妙田は一番奥の席に向かった。僕は並んでコーヒーを二杯頼み、彼の元へと向かった。
「いやさっきの話で、言おうかどうしようか悩んでいたんだがね。確かに俺はオカルトとか、呪いとか、まぁ信じる質じゃないしな」
妙田は喋りながら厚い本を鞄から取り出した。図書館で手に持っていた本だろう。表紙の文字は読めなかったが、中央には女性らしき人物が描かれていた。その女性には奇妙なことに左腕が無かった。
「なんだいこれは。中身も英語じゃないな。ラテン語か何かかな?全く読めないよ。それにやたら不気味だ。これを僕に見せてどうするんだ?流石にこの本を読めと言われたらセットで辞書を買ってくれないと」
「いや違うのさ。これはあげられないし、貸すこともできないと思うんだ」
妙田にしては口が回らないし声に張りがない。普段遠慮無く教室で喋る彼にしてみれば喫茶店で声のトーンを落とすことはないだろうに。不思議そうに本を眺める僕を見て彼は続けた。
「そいつは突然、いやまぁゆっくり聞いてくれよ。俺にもよくわからないから、質問は最後に聞くからまぁ聞いてくれ。実はな、先月ばあちゃんが死んだんだ。ばあちゃんって言っても遠い親戚のだから、通夜だけ行ったんだよ。そしたらな、猫が二足歩行で歩いてたんだよ。いや、確かに俺は酔っぱらってた。酔っぱらってたけどありゃあ確かに猫だったぜ。便所に行こうとしてた時に縁側から落ちちまってな。その時に縁側の下にいた猫に気づいたんだよ。暗くて殆ど見えなかったけどな。そいつは獣らしくもなく落ち着いた様子でそのまま出てきて俺の顔のすぐ近くまで来たんだよ。そんですっくと立ち上がって、歩き始めたんだよ。俺は慌てて飛び起きると、そいつを追っかけたさ。そしたら何故か蔵の扉が開いてるんだ。持っていた携帯の明かりを頼りに中に入ったらさ。」
彼は一息ついた様子でコーヒーに口をつけた。話しぶりからするとこの本がその蔵にあったものなのだろう。
「なぜか俺はこの本が無性に気になってな。思わず持ってきちまったんだよ。誰にも言うなよ?確かに蔵には他にもガラクタがわんさか転がっていたよ。でも書いてあるのは日本語だったぜ。どれもさ。いくら古いとはいえ日本語の判別くらいできる」
「なるほど、さっき君はこの本について調べに図書館に来ようとしていたのか」
妙田は頷いた。どうやら吐き出す相手を探していたようだ。
僕はその本がどういうものなのか知っていた。彼女が変化を求めて祈り、僕の元へと届いたのだろう。ならば僕はこの本を彼女に届けなくてはいけない。
「その字体は見たことがある。彼女なら読めるだろうね」
僕はたくさんの嘘をついた。
あの本は妙田の元へは帰ってきていないようだ。彼女ごと消えてしまった。あの猫は二足歩行の可能性を手に入れた。彼女は何を手に入れたのだろう。既に僕たちは彼女を彼女と認識することはできない。でも、彼女に巡り会える可能性はゼロじゃない。
変わらない僕に残された最後の可能性は、それだけは決して0にならないと思った。