雑記2
第七層を観て頂ければ解りますように、サヴァンの怪物がその巨大な腕で世界をひき潰そうとしており、その暴風に合わせて幾万のアスペルガーが街に襲来致します。彼らはスキゾで淵源を闇とする支離滅裂な言語で、街を冒涜侵略致しますが、その頃人民はとうの昔にコクーニングされておりまして、アラユル方向に超対称性を張り巡らしている次第でありましたので、真新しいヒッグス人民服とでもいうべきものに包まれながら静謐な死に堕しております。このような有様が3000000年程続きましたので、スキゾフレニアな暴君達は、時間的にも空間的にもフラット化した力場に対して酷く辟易し、近くにも遠くにも、自重で押しつぶされるようにして確率論的に消失していきました。これが後にリーマンショックと呼ばれる事件の真相でございます。
関係ないけど帰り自転車をこぎながら思ったことひとつ。哲学というのは個別精神と世界の合わせ鏡という現象である。遊離し定位置を持たない内存在が、鏡としての表面(世界)に自らを投射するミラーニューロンの働き、つまり無限運動の後に残る幽霊としての実体、それが哲学だと思います。その意味ではやはり哲学は形式化された死骸ではなく、常に空隙を埋めるように反転し続ける躍動する軌跡である。ドゥルーズやん。俺は統一理論好きとは言ったもののそれは自我とは隔絶した空間でのこと。確かに、人間の精神のうちに現われる哲学ということでいえば、それは「器官なき身体」まさにドゥルーズですか。その意味で言えば正にランダムで、フーコーが「着地点を想定して人間存在を形式化することの危険性」をチョムスキーに説いていた動画があったが、散逸構造のように流転する人間物語、極めてロマンチシズム!!
コンビにでバガボンドの最新巻が目に付いたので立ち読んでいたが、もうなんか精神性の袋小路みたいなものに延々と話を費やしていて笑ったけど俺の好みではあるから尚うける。当然だがバトルだろうがSFだろうが純愛だろうが究極的には精神性の袋小路を脱するための神妙な戦いを紡ぐ道を避けられない。軽妙であるか重々しく病的であるかの違いはあるとしても。武蔵、武芸者であるが、思想性の両立である。卓越した思想は、強靭な身体感覚も必要とする。その意味で言えば文武両道というのは、どちらもできるのが凄いという話ではなく、奇貨な思想性を得るためには強靭な肉体が必要であるという意味合いのほうが強いのではないか。実際身体感覚から得られるものは実に多い。なにしろ身体は世界と面を接しているのであるから。
もう随分精神が反転してきた。何か見えたような気がするときがあれども、まだ何も見えない。いや抽象的な次元で言えばもう底が見えたとも言える。それを物理的な次元に反転させていえば、大量の金があればそれでいいということ。ニーチェがいうような古代的強者から、キリスト的観念論弱者が優位を保って自我を存立させうるにはただ金と萌え出ずるような思想性があればそれでいい。金という抽象的な力があれば数の暴力にある程度対抗できる。
古典読み込みの有用性について熱く語ってるねぇ。たしかに愚者は経験に知者は歴史に等と言わずとも最新理論なんて当代とシンクロしてしまっているようなものは技術論に過ぎず、正に浅き「経験」に過ぎないと思う。見通しなんて概念とは遠く隔たっている?。技術論なぞ論外で、心理学も技術論にすぎず、複合的見通しということでいえば、文学論に近いような領域で、近視眼的実用主義者を踏み潰しましょう。結局のところ、知の至る所とは、「革命的保守」か「保守的保守」かというところに落ち着くのでわ。
やっぱり物語の主人公は「超人的」ななにかでなくてはね。等身大、身近、なんてクソみたいな話である。21世紀の悪い癖だ。それは有機的なシステムが人間を時代状況に合わせて馴致する再帰作用ですよ。時代を下れば蓋然性を持った歴史の堆積になるが、当代を構成する縁起の一部分としてみれば、それは豚であり不要なゴミであり、着色することはできない。超人の形は時代毎に違うわ。その前に立ち塞がるのは、エクリチュールだったり近代合理主義だったりモダンタイムスだったりするのだゎ。鶏が先か、××が先かの違いだわ。時代意識を滅多打ちにして血みどろにしてやるのが粋というものなのだヮ!!!
カワイイものが好きだ。綺麗な景色が好きだ。面白い話が好きだ。賑やかな催しが好きだ。流れていく日常が好きだ。
嫌だ。全部ミンチにして腐肉の塊にしてしまえ。存在が怖い。存在しているものが怖い。もう外界の感覚が殆んど無い。今の年になって気づいた。遮断していて殆んどの感覚が無い。生の感覚が殆んど無い。小説化されたような抽象的な世界の表面だけを撫でている。何も感じない。茫漠と何か脅迫的に苦しみだけを感じる。苦しみだけ感じながら小説のページだけどんどん進んでいく。暗い。読んでる部屋が暗い。電球は無い。最初からどこにも付いていない。
猥雑さに囚われ、段階的なものが全て濁った韜晦に埋もれていく。酒など飲んでいる場合かはもう知らない。←などとネガティブな様態で捉われるから馬鹿を見る。力を与えたい。ネガティブといわれるやうな、認知に限りない光と融和を齎したい。それが恭しく卑屈な者達に対する救いとなる。エスタブリッシュ面は死んだ。所謂付加価値というやつは死んだんだ。おっとそんなことはどうでもいい。「八正道」はどうでもいい。"合理的"思考に付随する苦しみはゴミで、身一つそのものの苦しみが、より純粋に身をつんざく苦...悩。思い込みは偽者の苦痛を生み出し、家畜を生み出す。還れ、土へ。機能主義、イギリス経験論、全て豚箱に捨てて次代への供物としよう。スティーブジョブズだろうが禅だろうが俗なるものは須らく豚の餌<曰く機能主義>にまみれていく。力強く還ってこい、夥しい亡霊達、釈迦の「無記」でも、「不立文字」でも何でもいい。日常とは何だ?それは降り注ぐ甚大な悪だ。大乗<つまり日常>が供給する善とはつまるところ悪そのものだ。悪に善で対抗し死んでいく気弱な善人は無謬である。ワインでも飲んで落ち着け。初級編として西洋的なるところの脱構築を日常に適用してもいい。メディカルなものは排して、否定神学的に自分の善の意義というものを日常に再定義しても構わない。苦しみは特権であると定義して冷笑していろ。自作のマニ教でも、思いつきの「他力本願」でも何でもいい。棺桶に押し込められる美しい死骸達は全てを手に入れる高貴な権利さえ持っている。
第一フェーズで、「意味」それ自身に「無意味」のレッテルを貼り、「意味」=特異点から言葉の世界へと向かって放出してくる抑圧力に抗うという「外側」の力として眼前に現れる。第二フェーズで、「意味」それ自身の「苦痛」としての質量が、定義づけなど関係なく「内側」から失われていく事態に直面し、捉えようの無い「終わり」として、自分自身に並行していく。
空腹に耐えかねていると、ガイア仮説の拡張でも「火の鳥」でも何でもいいけど、繰り返すミクロ/マクロの連鎖がクラインの壷の如く脳内で回天する。仮にそういう散逸構造が層を成して個の外側に拾っているとすれば、子供時代のほうがそれに憑依されたような態になることは自然。そしてエックハルトのような茫漠とした言語イメージと、ノマドと呼べるような不規則な可能性で乱立する記憶体が、自分を撫でる。言栓不及。邪悪な苦痛は、低錬度の欲望を糧に、世界仮定を操作するツールの腐れ果て。
小説って人間に興味がないと書けない。離人症に書けるのは詩だけ。詩が文学の最高峰にあったのは、文学が貴族のためにあった時代の要請に従っただけのもの?神秘主義は民主制に似合わない。今思ったのは、理性とやらに偏重した21世紀、という使いフルされた言葉。でも実際は古されるには早く、後何十年、何百年続くのか解らないということ。理性とやらは或る意味単細胞にでも簡単に使用できるため、非常にキツいものがある。まぁ、救いようの無いなんて何時の時代も同じ。まぁ辛ければ塞ぎこんで死んでいこう。それが人間の世界というもの。
裾野が広ければ頂上も高くなるなんて文化産業でよく言われてるような言葉と一緒で、妄信者が10億人いれば、頂上も賑わいを見せるのであれば、GJ釈迦、と言わざるを得なく?裾野では仏像でも散々蒐集しているのがよいのです。そういえば副島隆彦がコミケを見て、これは完全に形を変えた現代の宗教だ、的なことを言ってますが、当然ですがこれは完全に同意です。大学時代からずっと思ってますが、そういう意味で言えば、見た目のコミカルさからは想像できないほどに、それは強靭なものです。政府がソフトパワーだなんだのと干渉してくるのも、宗教の力を国家が制御しようとするのと同様の雰囲気?といえば大袈裟であるが。まぁ59歳のオッサンが言ってることなので、外国人の学者が語る日本人論のように、若干エェーwという部分はありますが、自分が60になった時に、若者の文化をみて同じような分析をできる自信はありません。だから面白く読めるのです。
イスラエルのように常に周りからの脅威に晒されている国が、臨戦態勢であることを強いられるように。隔絶された精神は常に律動し疲弊する。大国病になるにも金がいる。力もいる。誰が嘘つきだって?その嘘も残りの9割を守るためのものだ。嘘もつき続ければ真実となり、人格の一部に取り込まれる。そうすればようやく自由になれる。
偏狭なものには未来が無い。白痴のように啓かれた精神が世界を何処までも飛翔していく。
思索的なものは或る粋を超えた当りから、極めて肉体的で日常的で非論理的なものに回帰しますよ。頭でっかちな若い左翼学者が年を経るごとに右翼的なものに傾斜するように。そこらの馬の骨がいうように、論理でなく感情で動く『人間』。勿論それも、片側の世界の話で、観測地点によって両輪のように廻る。勿論その『人間』とは人間「論」などと無縁の白痴の派生です。打算的ということを超えた半キチと、極論理性の両極を揺れるのであれば、もはやそこにニヒリズムはいらない。思想性を限りなくそぎ落とした馬鹿っぽいほどの娯楽性をオルタネイティブして。
善悪は自分が決めるもの。その中でも強い影響力を持つものが法という暫時的なものを決める。だからそれはルサンチマンを吸収して一つの体系たり得る。それに従うも従わぬも自由。結局それがNietzscheの言うところの超人であろうし、それは春秋戦国時代の領主のやうなものであろうて。自分の領地を守らんとして戦い死んでいく。雑兵に甘んじること耐え難ければ、己が法に殉じ最期の時まで闘い続けよう。
ひねくれた狂気は人間らしい。それを通り過ぎた、天使の微笑みのような、向日葵畑に佇んでいるような優しい狂気が欲しい。それはもう人間の世界じゃない。
楽をするために即物的な打算を張り巡らせることに資源を使えば、その分俺の欲しい心地良さは消えていく。即物的なサイクルがうまく廻るようになり、リソースが余り始めたら、それを使ってまたどうにかすればいいじゃない、という問題ではないのです。Aルートで幾ら余剰が生まれたとしても、Bルートで得られるものとは、そもそも形質が違うのであるから。それを、『精神の不可逆性』と名付けることにしよう。精神性とは一つしか選べないのであると思う。親和性は、神話性となって、魂を縛るんだ。
少なくとも今2012年時点の世界では、中間集団が弱いというのは徹底的に弱点ではあると思うなぁ。まぁ実感としてもね。日本であればお寺やら町内会やらがそれに当たるだろうけれども全部ぶっ壊れたから。芸術、ということで言えば、教会、なんてものはアールブリュット的な芸術であれパトロンとなり得る機構だと思いますよ。企業的価値による包摂化が進んだところのこの廃墟ですよ。大体において企業共同体のようなものが中間集団を装って(実際はゲゼルシャフトの権化そのもの!)社会を換骨奪胎したせいで、まさに構造的貧困が不可逆な形で社会をボロボロにしたのではないか。言っているように社会システムにおいても常にヒルベルトプログラムの敗北と同じ事態が繰り返し続けるのであれば、とある価値体系のインデックスに身を投げ出す実存主義を気取って人生を貫いたところに美の真髄があったとしても何の不思議もないではないか。
人間とは技術とは同体ではない。ならば現在はまだ、進化する技術を1とした時に、それに対応する人間性というのは、過去と同じくそれぞれの特性を発揮するわけだ。技術と相対する技術屋、技術と相対するスポーツ選手、技術と相対する文学者、技術と相対する狂人。そもそも前から言ってるように「人工」とは存在しないのであるから、技術=自然で、あるということにおいて、技術と相対するということは自然と相対することと何ら変わりがないということ。相対の仕方はそれぞれ変化し続けるということ。その意味で技術は人類の見方だ。馬鹿正直に意味を晒す。つまりそれだけ人類は相対の仕方を得るということだ。「環境管理システム」とやらは結局のところ近代の「交通システム」ほどにお優しい変化を人類に与えるだけではないのか。まじうける。
人にはそれぞれ自分にしか見えない世界がある。あらゆるものがテンプレ化していく2000年代で、何かを書くとしたら、その小さな世界しかないでしょう。それもすぐに論理エンジン的なものに侵食されて、人は楽園に連れて行かれる。かつて個我などと呼ばれたものは、無限に裁断された細かい時間の中に幽閉される。知恵とは磁石であり、其処に引き寄せられた砂鉄は永久に逃れられない。磁石に吸い付かない砂塵は病気です。1行目に戻りますが、テンプレ化は個我の表層を撫でますが、深層を語りません。分裂して世界を騙せばその分、時間を稼げます。