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雑記1

肉体的感触もさることながら、精神的感触もますます謎だ。世界の多重性は、ゆらぎは、複雑系は、抽象度を下げ、抽象度を上げ、その反復の度合いを、速度を、上げても、まだスタート地点だ。感覚の世界相は瞬間ごとにその調べを変える。感覚器官はなんと遅くて、私は喜びと焦燥によって同時に身を焼かれ続ける。ヤァ、幸せだ、ヤァ、不幸だと。全ての象徴はどこにある。中心か、それとも遍在か。ユービックはそんな悩みにも的確な答えを返してくれます。使用上の注意を守ってご利用頂ければ何の問題もございません。

今の十代の実存はどうなっている?どんな色でどんなイコンで、どんな形の不条理性を幻視している。そしてどのように共通しているのか。勿論セマンティクスは神の如き不動を誇っているし、あどけないキャラクターは常にレゾンデートルの揺らぎに怯えている。そこに宿る原風景は、歴史という不可逆性の中で色鮮やかな変奏を繰り返し続ける。デュオニュソスは踊り、アポロンもまた踊る。そこに何の断絶があろうか。

酩酊の神も、形而上の神も、まさに新しい概念マップの中に脱皮する時であろうか。2.0でもインフィニティでもニュージェネでも、「人間的な、あまりにも人間的なシンギュラリティ」でもなんでもいい。ただ、踊る時が終わる前に、新たな曲が始まる、その絶望的なまでの希望を。

動的構造としての人生論は打ち捨てよう。快楽とは、ただ観察することであると。

サエンだの後追いの意識だの何だの、結局最後は、力強いまでの積極的意思に彩られた、その実静的で死者の悦楽としての事象の観察、それだけが縹渺として世界の表層をなでていく。

この世に「無い」ものはない。この世には等しく存在する。だとしたら存在、それだけ強く存在を願う。狂騒の意識は、存在をただ何かしら娯楽的なものとして世界へと受け入れさせるだろう。

若い頃の悲しいまでに原色の、有機的なイメージはもう死んだ。俺の中で有機的なイメージは死んだ。そして100年以上前のドイツのおっさんは、それを歴史的な仰々しさを持って、神は死んだと叫び、泣きながら馬車馬にすがりついた。死ねばいい。キチガイのための墓は用意されている。意味的世界は常に墓場を用意している。世界の中に意味的世界があると、そう思うのは誰であり、誰でなかったのか。構造だけがそれを知っている。

いずれにしろアラユル言語概念(プラトニズムでもわびさびでもからも物理的な制約からも、動的な脱構築を行わねばならない。動的ゆえ、それは刻一刻と開放・収束の回帰を繰り返し、断続的な観測を行う即自である。

それこそ創造とは、アンブロシアの如き時間的豊饒の上に、断続として浮かび上がる一瞬の作物である、と。

卑小で塵芥の如き自我は、自ずから死んでいるし、生物学的な死を迎えることはあっても、実際死を迎えたことにもならない。

ニーチェが歴史病とかいいつつ、主知主義的な醜悪な教養俗物を罵っている様が脳に浮かんだ。

実際人間をシステム論的回帰的自我で拘束するより、実存の強壮の中で世界を絡め取っていく、騎士の時代の到来であるか。それでも紅茶は飲もう。

それでも、生活は、実存であるか。否である。それはどこまでも否であり、卑小な自我は生ではないのと同様、人間は常に実存から遠く隔たっている。スマホはいじるが、自分の精神構造は寸毫もいじれない、劣化ルンバの時代である。

人間的な悪は、非人間的な悪よりも、さらに悪である。

やっぱり物語成分メインのゲームじゃないとキツイよなぁ。この歳になってアイテム集めたり反応速度競ったりしてもねぇ。それならリアル美術品蒐集したり数式でも解いてたほうがマシだし。

関係ないけど、所謂‘超常’的なものが把捉できないにしても、現代技術程度ではカテゴライズできない程度の、或いは短時間的なパラフレーズには収まらない程度の作為的な事象なら造成できるんだろうね。それは俗的な次元でいえばある種のパワーエリートであり、ハレの領域であれば純自然的なカリスマであったりするのだろうと。

命からがらのカオス的状況、悪意に晒された貧民的圧倒さ、そんなものが非日常的神聖を帯びているように芸術表現されるが、実際そんなものは百十数年程度遡れば、寧ろ日常だったのであり、動物の世界であればそれ以外に何もない。だからそこに何ほどかの意味があるならば、それは再帰的な意味付けによって基地外染みた、人工的な自意識の宴、としての装飾のおぞましさを讃えよう。

何をゴミみたいなものを崇め奉ったり持て囃したりしているのか。悪質な新興宗教に奉仕してる小動物と大部分変わらん輩達。ゴミみたいな価値観、ゴミみたいな人物。モジュール片手に津々浦々を飛び回っている‘解った風な’人種ももちろんその類でありますし、背中に昆虫を搭載した安物の自動機械でございます。

宗教的なもの、とは他の何かと比較した時に宗教的なもの、となるのであり、‘科学的’とは世界を圧倒している唯一の宗教的なものである。本来的に宗教を定義するとすれば、この世界に宗教以外のものはありません。何当たり前のことを言っているのだろうか。

人類の歴史は、人類の言葉でいうところの宗教の変遷の歴史。

今はまだyoutube、ニコ動にもCM入ってきて昔はなかったのにウザイなぁ、とかだけど、その内もっと島宇宙化が進むんだろうなぁ。人間をエンジニアリングする時代がくるまでは、タイプA人種=A業界の広告、タイプB人種=B業界の広告とか。まぁ今も実質なってるんだけど。

タイプA人種がC業界の広告に誤って接続されて精神障害⇒サンクションDへ。とな。

そうか、経済も膨大なフィードバックによって成り立っている以上、始点と終点の数量関係だけ無時間的な前提で演繹しても何の意味もないな。どのようなスパンでどのような緩急でもって支出が行われるかということが、社会心理学的、文化状況などに対応しながら複雑に展開していく。そこを全く考慮せず、茹で上がった猿の群れが、ワンフレーズポリティクスの安酒に泥酔しながら白痴的に財政出動し、政策を乱発する。

自己抽象度から構造抽象度へ、へl-ノエマとノエシスが絡まりあって、自己意識が無限回帰の拷問に晒され始めてからもう20年近く。世界をメタ化するのではなく自己をメタの領域まで引き上げる運動。色々な概念が上位レベルで同じ概念の複数の側面に過ぎないというような日常。そしてそれは弁証法のような動的な「結果」ではなく、最初から設計されている静的な「絵画」である。

抽象度を失った時に人は死ぬんじゃないだろうか。

年を取るごとに知識と抽象度がトレードオフしていく。

人為的にゲシュタルトを解体することにより抽象性を補填できる。

或いは拡張さえできる。

違うわ、知識とトレードオフなわけないだわ。ゲシュタルトは常に解体される必要があるし、その際には自重が必要だわ。年月に比例せずに自重が一定のままだと、自明のように解体が起きず、抽象性が死ぬんだわ。

定期的にゲシュタルトが解体される状態を時間軸にそってトレースすると、その動的な線が一つ上の次元のゲシュタルトだわ。つまりそうやって自己認識が拡張されていくのだわ。

日本版マッカーシズムか。確かに日本が戦後(敗戦状態)から脱却するためにはそうゆう徹底的な何かが必要だとはいつも思ってましたが。的確な表現だな。日本版マッカーシズム。沖縄とかも最近いよいよ変な勢力が跋扈してるみたいだし、治安維持法再来とか恐れてること自体が間抜けになりつつあるんだろし、歴史の健全なサイクルとして暗躍勢力は暴力をもって排除するのが「正常」なんだろうね。

感覚的とか、天啓的な直感とか、そういうものを理解しない人の頭ってどうなってるんだろう。安物のプラスチックでできたニューロンとか、規格化された業務用血液とかが流れているのかもしれない。

悲劇を描くには強い精神が必要だよne。弱ければ自分の描いた悲劇にやられてしまう。その意味だと、悲劇は無くなっていくのかもしれない。印象論だと昔の小説は当たり前のようにバッドエンドが多かった。え、モノガタリなんだから当たり前でしょ?程に。

『なお、まれに悲劇のうちには「機械仕掛けの神」(デウス・エクス・マキナ)によって事件が解決される筋をもつものもある。』

あらゆることがメタデータ化することによって、日常世界における些細な情報についてさえブラックボックス化されていくのか。意識活動はいよいよ抽象の度合いを増し、方法と観念の乖離は極大化していくのか。

ラングはよいけど、パロールは本当に無理だわ。無理だわ。バイオリズムを外部環境に接続できない。性質的なものもあるし、育成環境的なものも大いにあるんだろうけど、もう全部ぶち壊しながら行くしかないのd。倒せ、倒せ。毎日が現代美術みたいならいいのに、曲がり角ごとにゲシュタルト崩壊を起こせばいいのに。

仏教の悟りって、意識的にゲシュタルト崩壊をコントロールできる、即ち世界の再帰的構築と何が違うんだろう?

抽象度の高い思考に親和性の高い個体のほうが、ゲシュタルト崩壊しやすいのではないか。さぁ。

言語と人間の間の歪みがあらゆる領域でトリガーになってるのかな。

そこのところ少し細かく見たほうがいいのかもしれない。

『脳には文字の読み書きを行う中枢領域は存在せず、他の代替機能を使って文字の読み書きをしている。ディスレクシアの人々は通常の人々とは異なる脳の領域を使っており、そのためスムーズな文字の読み書きが行えないと考えられている』

ショウペンハウエル的な苦しみとか、形而上学的な矛盾とか、これのせいじゃないのか。人類がエクリチュールによる情報処理を完全に生得的なものにした時、病的な自律的個の幻想は打ち砕かれ、完璧な自動機械として再生するのかもしれない。

示唆に富む。確かにそういう意識が減衰する一方だ。今、モノガタリといえば定型パターンの定型組み合わせに過ぎない。その定型パターン=安い個性ということです。カセクシス-カタルシスの力強い表現も、普遍的絶対性への憧憬も何もかも、打ち捨てられている。意識の開放系は、動的なものからより静的なものへ、平面的なものへと萎縮していくのでしゅ。

「集団的に「考える」なんてことはありえない、それは付和雷同するってこんとなんです」の下りで、東浩樹によるルソーの一般意思と全体意思の違いの説明を思い出した。隔離された個々の意思の数学的総和が一般意思であると。いずれにせよネットによって逆説的に増殖してしまった付和雷同的なものなど最もおぞましく唾棄すべき代物であると。

まとめてしまうと絶対性、普遍性なんてものは統計的、集合知的に外部機械に集積搾取されるものであって、放牧された人間はネットゲーム世界の中で安い個性と戯れていろと、自分の尻尾を追いかけてグルグル廻っていろと。凄い世界。

自己と戯れているか、自己と闘っているか、か。全くそうだぁ。自己を表現したってしょうがない。集合知から帰納的に得られる世界はおそらく壊死する。そうだ、多様性というキーワードがある。集合知的、帰納的な単一生命など、淘汰の論理で消去されるじゃないか。シンギュラリティだろうがなんだろうが、「世界」から見れば単細胞生物と変わらない。その時、各々の論理をもった多様性のユニットが、今の個人と同じ位相を占めればいいだけ。でなければテクノライズの世界のような穏やかな死を迎えるか。

本来ローコンテクストであるべき哲学の営み(べきといってもそれは現代に限るのかもしれない)において、極めてハイコンテクストな表現を多用する。それがある種の一流の流儀なのかもしれない。というよりは性向であると。ありがちだが特にニーチェを読みつつそう思う夕べ。こいつはまさにイメージの悪魔であると。存在がイメージの塊であると。意味性の破れが爆縮する「場」そのものであると。厳かな蛍光色が奔る膨大な情報群の中を凄まじい勢いで回帰し続ける、偉人どもの大群である。

哲学とは、人類の廃絶された異空間で、自動機械のように、意味の剥奪された形を内から外へ、外から内へ、転写する拷問である。

どっかの写真家に対する評で、壊れなければ世界は捉えられない、というような、パラフレーズ。まさにそうであり、まさにそのように生長する。

そうだな、ローコンテクストであるということはまさしく現代的な話ではないか。プラトン以降、或いはエジプト的な病理である。ローコンテクストであり、すなわち敷き詰められた論理と蓋然的に立ち現れる歪み、即ち一神教である。ならばハイコンテクストか、違う、テクストがどうではなく、世界との対峙の仕方である。

キチガイはハイコンテクストにならざるを得ない。それ故に残る書物もそうなる。何故なら世界は社会の外にあるから。それもまた正確な言い方ではなく、社会の外側としての「セカイ」である。論理生物がやることである以上、そこには常にフィードバックがある。世界は社会に、社会は世界に、だが世界へと転落していく完全なる死体が、常に必要である。

既得権益を定期的に細かく裁断し、立法は議員が行い、実質を伴う強固な三権分立と、政教分離だけでなく政財分離も行う。這い回る虫を踏み潰し、ノイジーマジョリティー(目障りな多数派)を戦車でひき潰す。

既得権益、即ち<人間社会>の同義語であるが、それ故歴史上定期的な裁断<革命>が行われ、そろそろ類を見ない規模の裁断が行われてもいいのではないか。それは最早レイヤー間の革命などと呼べる小規模なものでなく、世界の隅々、人間の精神の奥底まで徹底的に裁断し、永続的に裁断し続ける。時代の節目ごとに「歴史の終わり」だの「人間精神の終わり」だの騒ぎ立てるわけだが、今、全ての既成事象をバラバラに解体し、それでもなお我々の過去の遺産を技術として乗り継ぎながら、「人類以前の人々」が創りあげたこの世界を、我々の世界に書き換えていくのだ。

自律的ハイコンテクストと名付けよう。つまり自己存在の内部で、抽象度の高い概念を自由に(自己存在の内部ゆえ)膨大に積み上げ、バベルの塔のようにどこまでも聳え上がっていく。そして勿論その逸話の通り、言語は通じなくなる。今度はあらゆる個人同士で言語が通じなくなるのだ。そしてそれ故世界は廻る。自律的ハイコンテクストは、遺産である神聖な石盤の上で、無量大数の星となってそれぞれが鎮座しているのだ。

具体性詳細性というのは表現する場合に意味を為すのであって、理解するには抽象度だけがあればいいのかもしれない。具体性は出力の際に沈着し、花開く。そしてドイツ人が街を歩いている。

ハイコンテクスト化、これが全てのキーワードなんだろうな。

そこに反撃を加えるのは、メタ性を備えたインディビデュアルハイコンテクスト。

神性は、縦の力は、宿木に、ヨリシロに、世界の歪に顕現するょ。

世界は平らになり、歪はよりその歪みを増していく。

ベネディクトアンダーソンの言うトコロの「想像の共同体」たる国家は、メタ情報化の洗礼を受けて、どのようなレイヤーに分割されていくのか。或いは統合されていくのか。文化的側面で起きている島宇宙化と平行するように新たな領域へと細分化されていくのか。そして細分化されることによりノマド的ネットワークへ緩やかに包摂されていくのか。或いは強大なシステムによって革命的に包摂されていくのか。どちらにしろ面白そう。

技術に忠実であることが重要なのではなく、表現したいことを伝えることが第一義であるということからしても、芸術表現というのはやはり病質性の一種であるといえる。客観的(客観など存在しない的話は捨象して)世界観ではなく、あくまで主観的、実存的衝動から発せられる粘着的な表現こそ、称揚されるべき。歴史が病的であると同様、文化が病的であると同様、表現とは病的であるわけで、欠落と充足の間の如何ともしがたい反復運動こそ表現であるから

関係ないけど理屈にもいろんなレベルの理屈があるし、真理にもいろんなレベルの真理がある。それが解らないなら世界は平面的で、全く起伏の無い凡庸なものになる。それは極論であったり、近視眼的合理性であったり、それもまた色々なレベルのものがある。世界はそもそもあらゆるレベルを含み、人間は有限的にその部分を占有するのであるから。

比喩がうまいとか馬鹿らしいほどにシンボリック。とか色々あるけど、結局は雰囲気なんだよね。抽象度高すぎてすぐに飽きそうなもんなのに、妙に実在感があるというか物体性を帯びているんよね。部屋の隅におかれた怪しげな壷のように。どういう文脈だったかタンジブルという単語を使っていたが、抽象性のなかに転がる確かな手触り、それこそがキーワードかもしれない。

短編は率直にバカバカしいことが書けていいよね。お手軽実験小説。長編小説で率直なキチガイ性を大演出すれば混沌の極みだが、短編ならばそれはいつだって象徴性の奔放な広がり、そして穏便に感情の枠に回収される。それが軽快な笑いを誘引する。

そう…タンジブルな象徴性・・俺が人生で愛着を抱けるとしたら正にそのようなものだけ…。そこが鍵だ。忘れないようにヒザに書いておこう。

言語の限界が世界の限界であるとヴィトゲンシュタちゃんは言ったが、こと個人の要請から言えば、脳の潜在力の数%しか使っていないのと同じように、言語の限界など直面することはない。それは限界に直面したのではなく、言語の使用方法を開拓していないだけ。

ツール・環境が一般化して「平均的」感覚が上がるというのは、笑ってしまう程度でしかない。自転車が普及したからといって、皆が競輪の選手になるわけではない。

枠が壊れると自由になるわけではない。自我を統一する枠があるからこそ別の領域へと伝うことができる。だだ漏れれば周辺に散逸し消失する。海へ飛び込めばそのままお亡くなり、舟を浮かぶれば次の島へと行けるように

考えることは制限することである。と呟き。バークリーのもじりじゃないよ、と呟き。猫のとなりでうずくまる。屋根から犬が落ちてくる。

普遍性を獲得し始めてるのは確かだと思いますょ。

でもまぁデータベース消費でも、動物化でも、ポストモダンでもいいけど、

そういった近代後期を抽象化したような結晶とは別に、極めて日本的な

文化意匠を多分に含んでいる。それはジャポニスムの時代から変わって

いないと凄く思っている。その意味で言えば、純粋なSF的抽象化の波が

世界を飲み込むことはヲタク文化の拡散とは関係ないのかもしれない。

もし本当に拡散、併呑が行われるのならば、それは世界化ではなく、世界

の日本化であろうと。それは不思議ではないのかもしれない。

それはいつも言うように、日本がある種の動物化の先端を行く文化体

として存在していること。文化のふきだまり・最果て、適度に外界から

遮断された列島、エントロピーの高さ、汎神論的、それらが時代の早い

段階で末人を量産し始めた。そう、それはもはや日本化ですらないのかも

しれない。日本がたまたま末人世界の先行モデルであっただけだ。

永劫回帰、やがて世界はジャポニスム。ユニバーサリズム。

いやしかし、ケータイ小説でもラノベでも、或いはビジュアル系の成れの果てみたいなものでもいいけど、文化的・言語的芳醇さの衰退は凄まじいものがあるよね。水平的広がりの終焉というか。水平ではなく垂直の多層性・濃密さが高まっているんだよみたいな話かもしれないけど、恐らく今の旧人類からすれば水平的広がりを失った表現の貧困さみたいなものは絶望的なものになっていくのかもしれない。しかし、ちょっと未来の人類にすれば、0と1の強弱だけで満足する自動機械としての人生が燦然と輝いているんだろうね。

裾野の広がりなんて話があるように、様々なジャンルからの摂取、歴史観の醸成、マルチな視点こそ、頂きの高みを担保するはずなのに。専門家はより専門馬鹿になり、自家中毒を起こす。だがそれは機械という視点から見れば自家中毒ではなく効率化なのだ。もはや体系的思想などというものは人間から剥奪され、システム的に集合知から醸成されるものであると。本当か?

システム論、ネット技術などに仮託して現代思想を語る風潮があるけど、正直言って現代を語る、モデル化できる思想体系など紀元前500年の時点で全部出揃っているように思う。そしてそれらの思考の方が、2000年以上の時を経てレトリックと数理的思考を往還しながら洗練されただけあって、論理的にも心理学的にも余程透徹した視野を得ることができるよ。

でもあれだなぁ。ヲタクが死んだなどと言ってるけど、当然旧ヲタクに類されるような人種(ある普遍的傾向をもった)とは別の人種がそのジャンルに入ってくるということは当然コンテンツもそれらに合わせて変質する(ノーマル化する)わけだから、ヲタクという人種はまた別の文化次元目指して別の変容を遂げるだけではないのか。そもそも相容れない傾向を持つからカテゴライズされてたわけなのだから当然だろうに。

ゲーム性よりも、物語が上位にくるべき。それは非合理性の祝祭。そう思うのは私がネクストジェネレーションに拒絶されているから?そんなことはゴミほどの意味も持たない。ゲーム性とは自然現象に過ぎない。 物語も、自然現象に過ぎない、が、そこには人間という名の幻想があり、観察がある。いつから観察していた?それはもう何度も。この星が生まれる前から、また別の星で。そしてはるか未来、はるか別の星で。

しかし何処の国も民主党はだめだ、みたいな話は同意するゎ。カールシュミットの友敵理論じゃないけど、そもそも政治的なるものがリベラル主義なんてものと殆んど無縁なんだって。政治的なもの、が原理的に敵を殲滅することとほぼ同義である以上、常に生死ギリギリのやり取りが持続する状態で、どこのクルクル理想主義者が入り込む余地があるのだと。観念論者なんてものは学者・文学者から天啓のごとく顕れて民衆を巻き込むものであって、常態的な「政治活動」の場などにお呼びじゃないのですよ。

葉を汲み上げ、そこに多重的な意味を付与する。或いは剥奪する。その空間的な広がりが感染という名の毒を引き起こすのかもしれない。その意味だと、単一の意味で鋭く屹立する結晶化した言葉は、短編小説に向くのか。そして。。長編小説となればより長大な周波数で、言葉と言葉の間に励起する力場のようなものが人生を律動させていく。

個別事象、事実はいくら集積してもそれ以上のものではない。全体は個別の総和を超える、と言わなくても、複数の要素感に立ち上がってくる容易に言語に還元できないクオリアこそが重要です。というかそれが娯楽性です。分解と、微視的観点しか持ち合わせない昆虫、それこそ島宇宙。物語ではなく楽屋裏話ばかりに嬉々とするその痴呆性に全てが現れている。実に醜い。

ジャッジメントとは、恐ろしく恣意的で人間的なものだ。それ故にジャッジメントは、最も非人間的な、無時間性の中で下される時、完全なる芸術性を帯びる。人間が去った時、その空虚な空間にジャッジメントが訪れる。人間が去った時、その空虚に眩しい光が立ち込める。その光の中で、小さな抜け殻がコロコロと鳴いている。もはや何も観察されるものもない世界の中で、小さく脆い人間の抜け殻がコロコロ鳴いている。

結局あらゆるものが相対主義の檻の中に収容され、アポステリオリな人工イメージだろうが、生物学的現実であろうが、等価に無尽蔵に交錯していく世界<認識システム>が覆っていくということ。相対主義が古代ギリシャ以前にあったなどは特に関係なく、相対主義が生存的現実、認知構造全てにインプリントされつつあるのね。

都市は劇場ではなく工場である、ていいね。現在のツイッターだの各種掲示板だの見てると、無益に空転する批評やらコメントやら寝言やらが、おぞましく情報量を膨張させ、そのくせ全て流れていく、その全てが精神ネットワークの生み出す無色の排泄物といったところだろうか。それはどの程度まで無罪で、どの程度まで不快なのか?コミュニケーション等というものは殆んどの割合まで、工場が生み出す産業廃棄物に過ぎない(商品ではないのだ)。

内的結合から外的結合へ、などと言っても。それは認識主体が個我である前提でのことだ。そもそも物理現象に内的も外的もない。そして人間という種は物理現象フレームの中の生体現象座標を変更しにかかっているのだ。

あ、エントロピーの高い宗教関連で。西洋の都市がシンボリックであるのに比べ、アジア圏の都市がカオティックで、エリア均一的に増殖していく、、ってこと。それはまた構造主義・有機結合、つまりアジアにおける暗喩的で政治的な日常に浸潤した力をも表象している。つまり?何言ってんの。

これだけは言いたい。かつて秘密とは、秘密として、秘匿されて存在していた。今、秘密とは捏造され、秘密として存在させられている。もやは秘密とは矮小な自我の劣等感を反映した幻影にすぎない。

パターン化とあらゆるものを捨象してきたからこそ解る。多様性の潜在力を。レトリカルを捨象して弁証の狭い道を通り抜けてきたエーゲ文明の系譜が、やがてポスト構造主義的に、遅咲きの世界へと啓かれたように。極めて独善的で予測可能性のキチガイが、多様性の色彩を分析し、多様性へと遊泳していく。

捻じ曲がった実在は、色素を伴う。

点在する色素を社会の各所に、或いは局所に

配置・増殖することによって場を形成する。

物理性から精神性へと傾斜する。

死民は歴史書に多くの注釈を与え

今、テキストと注釈のみが体となった。

実存は色素となり歴史書を何度も改定する。

死民とは標識である。堆積し反復し

追体験し、無限に回帰する標である。

死民革命とは標の無限増殖、つまり

破壊的で取り返しのつかぬ、病の治癒である。

セカイ系って別にアニメ小説だけの話じゃないわなぁ。人間の認知構造自体がセカイ系になっているのだもの。その場合、神秘主義と違うのは内面化された世界が自家中毒の如く同じ回路を廻り続けることだろうね。脱我という意味での、他者性を含んだ「世界」へ向けての内面化という自由さが、セカイ系にはないのだよう。もはや世界という表象に啓かれているのは「システム」であり、その意味で旧来の意味での個体は、生物学的にいう個体ではなくなっている。今、システムは人間=動物の位置にあり、人間は世界とは隔絶されたフローとなって漂流している。気づけば茫漠とした色素の砂漠に起臥している。大衆向けの神秘主義に辟易しながら今日も精神を摩滅させていくんだ。

見立ての力、マイクロコンテンツ化、ね。もしかすると時代が下るごとに比喩する力が減衰していってるのかもしれない。比喩、つまりメタファーでも形而上学でも抽象化でもなんでもいいけど、そういった「外」へ向かう力ですよ。知力=比喩であるといったのは古代の誰であったか。まぁ近代的自我だのなんだのはもう死滅したのです。まぁ●は死んだなどと言わずとも、最初から所謂●はいないのと同じで、並列で膨大な関係性の一部を切り取って実践自我などと言っていたものが、物理的な場所だけでなく、精神的なものの中からでさえ締め出されてしまった(勿論その区分けも認識に過ぎない。だがそれが世界なのだから区分けは存在するのょ)だけのことです。

技術が理論を生み出す流れから、理論が技術を先導する流れみたいな中世近代の話もありますが、肉体(技術)が機械(技術)へと移行する流れを理論が先導する、というのが自然です。そして理論は、徐々に肉体(技術)とは演繹的な繋がりさえ失っていくのだろうが。まぁその時はすでに肉体と人間は同義ではないので何の問題もないだろうけど。

汎神論の部分で、かつて浅田彰が「コンピューターゲームの世界に妙に親和性のあるアルカイックで神話的なイメージ」みたいなことを言っていったのを追想する。宗教性(大乗宗教的な感性ではなく)が科学云々と関係なく永遠に人間活動と不可分であることを思えば、過分にフロー化した人間ネットワークの中に極めて純粋な形で原始宗教的なものが復活してきても何の不思議もないです。

郊外化とか中間集団がないとか、作為の契機を醸成する宗教観念がないとか、いろいろ原因があるとして、近代社会として致命的な欠損を抱えた日本がこれからも有機的に機能するためには。まぁ少なくとも国ユニットが並存し続けるであろう後数百年においては、他民族に滅せられないために排外主義(島宇宙的な国内において)に陥らず、想像可能性(永劫回帰でも場の論理でも)を個体にインプリンティングしていかなければならないのか。その前提として基底レイヤーから世界を通覧できる人材を量産しないと駄目なのかぬ。ドイツ倫理委員会のようなあって然るべき装置を社会の至るところに配置して、工学と「世界概念」の不可分性を300年遅れ位で学習しなければならないのね。後発工業国として、「成る」思想態度は自然に対してはありかもしれないが、人工的な自然(=科学)に対しては致命的な無防備となるのです。日本はシンギュラリティの際には泡沫のように蒸発するのかもしれない。

考えてみると、規律訓練型権力フーコーに絶妙マッチする日本人と、環境管理型・ゲーム理論的、帰結としての場にマッチしそうな中国人、という見方をしたらどうなの。その時点において日本人のメリットがなくなるんじゃないの。まぁそれはSF世界での日本性みたいなことで常に頭をよぎることではあるけれど。だが逆にその時点が訪れた瞬間、日本人一流の順応性で被環境管理ユニットとして身を翻すのだ。そしてそれは90年代からすでに始まっているのでは?いや、70-80年代からすでに?

意味・想像界に深入りすれば小説家となり人を造る。

物性・象徴界に遊泳するなら宗教家となり神を創る。

テンプレ化により『人為的』な意味で集合無意識の稼動範囲が収斂されるように見えるとしても、それは物理界の意味での規則性という意味では始原と変わりはしないんだろうけど。その意味では人間意識という歴史体の中で、人間意識という法則が収斂されているのだろうけど、だとすれば主観もまた物理界を機軸に、つまり古典的な意味での肉体を感覚器官として保持する。それが特異点の自然な在り方なのではないのかよと。

芸術とは矛盾である、真理とは矛盾である、そのような類の言説を古今の知者がのたまい、実存と形而上学が水と油のように反発し続ける歴史があり、ヒルベルトプログラム的な静的体系の大波を、ゲーデルの不完全性定理の如き崩落が飲みこむ、そのような転変が常に真存在を時間的ユリカゴの中から追い落とすのならば、現前するうねりを神経に転写し、白痴のように振舞う、もとい白痴そのものだけがただ、キリスト教的原罪たる『認識智』を正統に体言するユニットとして称えられるべきなのではなかろうか?だが、その意味ではすでに称えられているのである。単純に存在するだけで、称えられている。その程度にはこの世界は鮮やかな絵の具を保持しているのである。それは幾ばくかの救いにはなるのだろうか。

オカルティックなものが、科学と対立する、等という、神秘主義者も・科学者も、同じくミミズなのであって、限界的にはそれらは同一に帰着し、科学が非科学を生み、非科学が科学を生む。或いは機能主義アポディクティケ実存主義レトリケを往還しながら人類活動が進展してきたことも然りであり、それはシンギュラリティ以前以後も同じなのだと。思索可能なあらゆる状態という定義は、計算可能性の総体と同義ではないのであるから。オカルト脳のぱっぱらぱー、と科学脳のチャッチャラチャーは等しくスリコギの中で肉片となるがいい。

世界は自明ではない。世界に対して麻痺することは自明ではない。年月とともに世界を受け入れるものとして限定してしまうのは、成熟ではなく、安物のフィラメントが短命に焼ききれてしまっただけのことだ。その後の人生に意味はない。回路が生きている以上、世界は常に新しい法則をもって自我を脅かしにくる。その自明さが解らないようであれば、できるだけ早く首を吊ったほうがいい。

石灰にまみれた砂利の上で、のんのんクラリとバランスを取る『革命家』エイロネイアが、細い指先でパズル(思想イコン)をいじくりまわしている。幾何学模様を幾層にも重ねたように天上へとそそり立つ未来的ビル群の中で、その男は時間が止まったような口調で呟いた。いや、特に何も呟いてはいない。

『僕は皮肉屋なんだ。』

周囲をうろつく猫達のうちの一匹が唐突にそう言った。

『僕も皮肉屋だよ、皮肉しか言わないんだ』

左足の千切れた太めの猫が重ねていった。

それはパラドックスか。パラドックスなのか?

いや、パラドックスではない。

そして猫の数はどんどん増えていく。

緑色の猫、緑色の猫、虎縞の猫、すこし緑色の猫、

分裂しては分裂し、時々くっついてはまた分裂していく。

<革命家>エイロネイアは睫毛をいじりながら、ため息をついた。

はぁ。いや、ため息をついたわけではない。そして特に呟いてはいない。

雨はどす黒く降り注いでいるが、空は一向に青いままだ。

何が問題なのか、猫の数か、或いは周囲を取り囲む数万人単位の

警官達か。猫はしゅうしゅうと音を立てながら、その色に見合った毒を

周囲に撒き散らし始めている。この世界で人気の、古事記・第二期

の中に出てくる、淀みキャットという類の物の怪らしいが。

確かにこれだけの尋常ならざる猫が絨毯のように一面を覆い尽くせば

「七万人」の警官達が一触即発の雰囲気を漂わせながら警棒を

振りかざしたとしても不思議ではないだろう。

ちなみにこの「国ユニット」ガルポネに配備されている警官の数は

74万人だ。その約七分の一がこの薄汚く高貴なスラム街「アイランド」に

集結しているのだ。これは前世紀のコミケとやらには及ばないが

結構な規模のマニアックなイベントとみてもいいのではないだろうか。

『はい、できましたー。それでは思想イコンを暴走させまーす』

間延びした声でそう宣言すると、ふにゃふにゃと体を揺らし

懐から出したメガネをかけると、やつはパズルを地面に置いた。

ピピピピ。

目玉が大きく肥大した猫の群れがパズルに向かって集まりだし

その上に覆いかぶさるように融合していく。

七万四千人の警官たちは警棒を振りかざしながら周りを取り囲んでいる。

所謂NPCというやつだな。特に自我は持ち合わせていないらしい。

目も眩むような緑色の光が空間に充満し、エイロネイアは背中に

パンダをかかえながら、天使のような純粋な邪悪を放ち始める。

『思想イコンは、この世界を最も純粋な形で結晶させます』

『すなわち、時間性の終着です。時間性の終局です』

エイロネイアの中のプトレマイオスが無感情にそう告げた。

いよいよこれはまずい。この世界までメルトダウン(思想停止)してしまう。

<みゃーーーーー!!!>

奇声を上げながら僕はBダッシュした。


(選択肢)

⇒ 雷神斬ライジングサン

   ブランディッシュスピア

某日本人の先生が言うように、場の哲学というのなら、或いは人間という名の言語的認識の「範囲」としての個体ならば、夢はいつだって広がる。場に励起する流れが認識なのだとすれば、認識の様態を天文学的にはっちゃければ、逆励起された場が、自由自在に拡張されていく。場の共振とはそういう意味で。だが、それが真理として持つ意味は、一般的な意味での生物的境界を超えた場は、もう生物学的な意味を内在しえないという厳然たる事実であります。世界は音楽であり、音楽を内在するなら、もはや生物ではないのです。

夕暮れの秋葉原の街を歩いていると、唸る様なNPCの大群の流れの中、どこからともなくピコピコとした電人モナドどもがやってくる。全身が根本的なレベルでブラックアウトし、その上を虹色の粉末が漂っている。頭部には七本の角がそれぞれの角度で生え、体長は3㎡ほどだ。普段は皆、気にもとめないが(皆というのは勿論あの店の常連のクソ野郎どものことだ)、時々目が合ったりすると、酷く痛めつけたり痛めつけられたりする。そのような日常をやつらはこの街で繰り広げているのだ。電人モナドの知性はちょっと気の利いた宇宙トカゲほどのものだが、殺害力はTVに出てしまうような連続殺人鬼に匹敵する。ピコピコ。

その時、僕(私)の隣を気だるそうな素振り(あくまで素振りだ)で歩いていた秋茄子女子が突然強く足を踏み鳴らした。

『誰が!電人理論なんて!言ったのぉぉよおおお!ぇぃい!低脳が!』

天に向けて手をブンブン振り回すと、極めてナチュラルな角度で

地面に身を投げ出した。

まるでコンテクストという日常に読点を打つような趣を感じさせる。

『電人が!意思した通りに!世界が!動的に定義される!』

『誰がそんな繰言を言ったのよ!ぇぃぃぃぃ!!』

マトリックスの要領で地面から勢いよく跳ね上がった秋茄子女子は

尚も憤懣やるかたない態で、斜め前の電人に宇宙カラテチョップを見舞う。

ドゥィシッ!!

『まぁ最近確かにコンソメ宇宙だのモナド侍だのと、センチュリー論壇のクソどもが煩いね。そろいもそろってハ○ヒみたいな顔しやがって、あのデザインチャイルドどもは。』

実際あの工場生産されたかのような自信満々なやつらの顔が気に入らないのだ。いつの時代もマスメディアに跋扈するオピニオンリーダーとやらは昆虫と同類なのだ。

秋茄子女子の純粋なる暴力に晒された電人は、悲しげに道路に転がり歩行者天国の華麗なる犠牲者となっている。ご愁傷様だ。

『だいたい、電人はただの異世界人に過ぎないわ。それも極めてパラレルワールドに近い定義の中で、極めて人類に隣接した領域のね』

あぁ、そうだ。電人のレゾンデートルとして、この世界で言われている説は二つ。

世界S(この世界)とは何の因果関係も持たない異世界人説。そして、この世界の根源サイファの動的イデアとして存在する説だ。

そして自他ともに認める天才科学者にしてネオ神学者、クラスタ教教祖の秋茄子女子は前者の異世界人説の立場なわけだ。

『はぁ。。ったく、ぁぁぁゴルァァ!!!』

知的な般若と化した女史が、勢いよく後ろを振り返り電人Bにローリングソバット。関係ない通行人を巻き添えにしながら20mほど吹っ飛んだ。

こんな暴挙に及んでもお咎めなしなのはS級セレブの女史だからこそだ。

遺骸と化した電人二匹を回収するため、神殿コミュニティの飛空艇が

時空の境目から姿を現す。七色の光源とともに蠕動しながらNPCの群れの

中を器用に通り抜けてくる。この次元ツールは最大14次元先までを移動できるのだ。フョンフョン。

『回収ピコピコ、ひとまるふたまる』

電人が四角くなったり丸くなったりしながら回収されていく。

関係ない通行人も若干回収しながら引き上げる飛空艇。

『精度に問題があるわね。』

欠伸をしながら女史は飛空艇に向かってメローイエローの缶を放り投げる。

ガッ

『ピコピコ。ふたまるふたまる』 シュィーン(帰還)

まぁ、精度に問題はあるだろうが、前世紀の警官とやらよりは大分マシだろう。

人間が治安の維持を担っているなんて恐ろしすぎて想像すらできない。

『はぁ…さっさと<殺人少年S>でも買って帰るか。

 寒くてたまらん。物理的にも精神的にも』

『きゃほ!あのシリーズ出てたんデスか!需要があるのが凄い』

心底愉快そうな顔をしながら女史が左右に揺れる。

『そういえばアレイ君はどうですか。ちゃんとやってるす?』

心配してるような素振りで(あくまで素振りだ)女史が聞いてくる。

『才能はありすぎる位だけど、嫉妬深いのがたまに瑕だね』

意味不明なことを私(僕)は呟き、厳かなクリスマスのポーズで誤魔化した。

チリン。チリリン。

『あぁ…酒が飲みてぇわ…』

それにしてもいよいよ解らない。私(僕)が治安維持ユニットW-2(ワールド)に配属され、革命家ロマンティサーと呼ばれる反乱分子を狩り初めて20年、

スピノ姉弟のような一種のシリアルキラーがロマンティサーと認定され排除対象となることなどなかったのだ。解析調書が述べるところに依ってもとても概念危機

の要素になるようなタイプのイレギュラーではないように思えるのだ。

哲学因子フィロソニウムの危険性が喧伝されて以来80年余、数多くの

識者、著名人が革命統御法によって隔離、或いは処刑されてきたが、ここにきて

何らかの新たなファクターが現出した、ということなのだろうか。

そんなことを考えながら、イヤホンから流れる『洞窟のテーマ』に合わせて

首を小気味よく揺らしていると、隣に座っていた青髪の留学生、もとい

ステレオタイプ<思春期>攻ヶ峰アレイが不機嫌そうな顔をして、僕(私)の

ことを眺めている。

「ぬむ。何?」イヤホンを外して穏やかに聴いてみる。

青髪は不満そうに口をへの字に曲げ、少しだけ縮みながら、

弟のような、妹のような曖昧な領域から言葉を発した。

「またアウト(外部世界)のことを考えているの?」

ふむ、こりゃ驚いた。言葉<ギャポネイ>すら危ういお子様かと

思っていたが、外装振動のパターン解析だけで思考内容を

類推したのか。これは古代人種の生き残りか?等と幾分

ロマンティックな妄想をしてしまう。

『いぁいぁ、最近タフなロマンティサーが多くてね。

 色々疲れるんだよ…』

実際そのとおりで嘘を付いているわけではない。

これも前世紀から言われている嘘と真実の適切な配合という

アルゴリズムだ。自責パターンには該当しない。

アレイ君は青い髪がさらに青くなるような手際で頭をフルフルすると、

『仕事で疲れるなんて嘘です。存在さんは本当はイレギュラーなんて

 興味がないんです。きっとそうです』

そう独りごちたのだった。

ふむ、そうかもしれない。少なくとも君の前ではそう振舞っても

かまわない、そのように思ったのでぼく(私)は更にアルコールを摂取

することにしたのだ。

『マスター(店主)!。ソーテルヌを!』

『めちゃくちゃ甘いやつをね!』

店主は3回転しながら恐ろしい速度でお辞儀をした。

「デュオニュソス、或いはバッカスの御心のままに!」

そのようになった。

アレイ君は少々寂しげに、しかし僕とゴル女の哲学談義に

加わって一夜を過ごしたのでした。

店内には前世紀の所謂「ゲーム音楽」が流れている。

僕はバローロを幾分乱暴に喉に流し込んで、瞬間咳き込んだ。

「カホッ、カホッ」

世界が震えると同時にマルブランシュ(愛玩動物)が口を開く。

「夏帆って誰ぉ…?」

知るかクソが。お前の脳内にでも住まわせておけ。

等と口にするとこの男は涙いっぱい夢いっぱい、部屋を満たして

しまうので、微笑みだけ返しておこう。

店内の喧騒と「中ボス戦」の音楽に合わせて指を鳴らし、

残りのバローロを口に含み、馥郁たる香りに陶酔していると、

電子鈴を鳴らしながら、もう一人来店。流れる紫髪。

世界大統領、ゴルギアス女史の登場である。

長い、髪が長すぎる。若干、靴で踏みつけている。

鋭い巨大アーモンドのような瞳をカッと見開き、背をそらし

威厳のあるポオズでこちらに向かって言い放つ。

「足りないわよ!もっと酒を持ってきなさいよ!」

そう、もう酔ってやがる。顔が若干、大分赤い。

そして側転を繰り返しながらこっちにやってくる。

冗談じゃない。クソ野郎ばかりだ。これでノーベル賞を取っているんだから

いったいどんな世界だ。『俺の世界がラノベすぎるので登場キャラがおかしい』

とかいう小説を出版してやろうかと思うほどだ。

僕(私)はイヤホンで耳を塞ぎ、げんしけんのOPテーマで心を癒す。

「あ、また存在ワールドに入ったょぉ…」愛玩動物が切なげな表情で

呟くと、定位置に到着したゴル女がすかさずガルーダミルクを注文する。

「接続詞抜きで!」

店主アリストパネスはニヤニヤしながら、

「それは6?それとも8の?」と聞き返す。

「もちろん『6』よ。魔大陸とか最高だからね。世界はデカダン的に輝くのよね」

サイヴァネティクウスTVからは今週の処刑情景が流れている。

店内の音楽と混じり合って女史の好きそうなカオスを醸し出している。

足りない。確かに酒が足りない。そうだ、注文しよう。

「へい、マスター(店主)、ヴァルヴァレスコを!」

30度に傾きながら、古城のポーズで店主が応答する。

「2006年しかありませんが?」

店内には例の飛空艇のテーマが流れている。

「2006年?果実味とか?」「もちろんです」

「じゃぁそれで」

店主が店の奥に消えると、愛すべきクソ野郎二人と哲学談義

を交わしながら、いろいろ策謀をめぐらしたんだ。

『言葉は機械語ではない』

『言葉は悲鳴に起源を持つ』

その料理屋にたむろする2流の思想家は言ったもんだ。

苔むした銀色の階段を登れば『有哲楽』その店はある。

薄汚れた木の扉を勢いよく蹴破れば、昆虫によく似た

なじみの店主が微笑みながら、にじり寄ってくる。

僕は、私に向かっていうの。

「お酒はバローロ、水なし、つまりストレートで」

心地良い水草の中を泳ぎながら店主は私に言う。

「つまりバローロ2009年。いつものでいいね_?」

そりゃそうだ。僕はボウヤじゃない。

「水なし、添加物なし、社交辞令なしでね」

ギトギトと音を鳴らしながら店主が離れて行き、

その代わりに友人のマルブランシュが部屋の奥からやってくる。

この男、思想も身だしなみも一級だが、味覚音痴のクソ愛玩動物である。

人間と同じスケールの変てこな愛玩動物が口を開く。

「ふぇぇ、存在なんでいるの。存在なんでいるんょぅ。。」

小刻みに震えながら地面に沈み込んでいく。

ここは二階だから、一階の小宮さんから苦情が届くのも間もなくだろう。

僕は私は返答する。

「そりゃぁ、いるさ。LV上げをしなけりゃ次のステージに行けないだろう」

店主が微笑みながら僕の手元にバローロを置いた。

形而上学と、前期古代ギリシャ的なフュシカ、その有機的な合一をこそ希求する。そう、それが何よりFANTASTICなのだと。涙は出ない。ただ形而上学なサーキットの中を勢い良く加速し、限界的な意味においてはそれを破戒し、外界へ根を張り巡らす。その永久機関を個人内部に反響させ、動力とする、それが全てに対する答えであると。『おじいちゃん、何をやっているの?』 『次の冒険の準備だよ、一緒にくるかい』  世界は何層先に行こうとも、青い空、青い海。そして少し皮肉に満ちた、入り組んだ灰色で構成されているの。

ある種の人間工学を望む人種がいる。だがそれに臨むことはその実存そのものを脅かす。歴史はそれを否応もなく「ありえぬ事態」としてそれを斥けてきたが、時代がそれを受け入れたとしても、悲劇はアイも変わらずその人種を痛めつけ続ける。BGMはいつも美しい。それは世界の美しさを反映している。だが人は世界ではない。美しさはいつも世界に還元され、人はただ苦しみの残骸の中に取り残されるだけだ。聴こえる、英雄を讃える流麗なメロディーが。『腐敗した美しさ<ロマン>と、生長する美しさ<力への意思>のハザマで、浮遊し、翻弄される人間が、ただただ儚く人間として消えていく。人間は消え、世界への切なげな一体感がだけが記念塔のように聳え立っている。

記念塔は久遠の時の中でひとつになり

僕ははるか未来に目を覚ます。

そう、僕は一人で、

今起きた、そして僕はいなかった。

<…>

ハジマリマス

結局、特異点が永遠に不在な時点で、人類の歴史なんて形而上学と実存哲学を永遠にサイクルし続けるだけじゃないか。ゼロ年代の想像力読んだ時に言った不満そのままやんか。

その意味で言えば、機械(理性)が人間(信仰)を凌駕することは原理的にありえず、機械(理性)が人間(信仰)をその内に転写するか、或いは人間(信仰)が機械(理性)を取り込む形で運動速度を上げ、同じようにサイクルを繰り返すだけのどちらかに落ち着くのではないか。

もし人間(信仰)が消去され、機械(理性)だけが延々とリゾーム状に世界を巡っていくのであれば、それは自然であり、あるがままの世界である。もちろん消去されない世界もあるがままの世界である。世界の最小単位とは物語であり、膨大な物語が重なり合い、真っ黒となったスクリーンが世界である。

修辞学レベルに全てを収斂する東洋思想の真髄という意味でも、表意文字に多量の情報を付加する意味でも、それの延長としての漫画的表現、ネット時代の表現形式は極めてアニメのような表象として生き残るのではないか。アポディクティクなコンピューターと、レトリックの人間、そのような一時的・表層的(根源的)な違いを最期の砦として人間時代末期(末人)を生きるのだろう。その次はただ気持ちのよいトランスとして未来を視る。さぁ、陶酔させておくれよ。

壊れるような高揚と躍動を精神に与えておくれ。そうでないと、凍え死んでしまう。足りないのならマグマのような生血と、気ちがい染みた論理性と、整然とした狂気を体中に打ち込んでくれ。そうでないと、精神の形がどんどん異形になっていく。不愉快だ。それは不愉快にすぎる。

「つくる」「うむ」「なる」の三本柱ですか。まぁ確かに自然フュシスな考えとして存在を生成と把握するのがエントロピーの高い素朴な概念として受け入れられるとしても。その動的存在の最終形として、静的なイデアを美的観念によって配置することも、ある種の人間にとって極めてフュシスな態度であるといえるだろう。それこそ所詮、世界は人智を超えるという万能の免罪符の前では等しく並び立つだろうて。

構造は見える。構造は見えるがそこにいる人間が見えない。もうずっと人間が見えず、ただ豊かな色彩が他の動物とともに敷き詰められている。再帰という言葉がある。再帰と、サイキックという言葉を並べて失笑する。全ては再起の檻の中にある。再帰は幻想ではなく、ただ合理的な手順である。だからたちが悪い。業魔ではなく悪鬼に近い。ラーマン・クロギウス症候群。構造の悪夢は、より詳細な構造に注意を向けることにより自壊を防げる。そしてその自転車操業でやり過ごせる程度には個の寿命は短い。だがそこに無垢の色彩はなく、毒々しい鮮やかな色彩があるだけだ。忙しなく望遠レンズのピントを調整し続け、気づけば夕闇に包まれている。ただそれだけの人生だ。

所詮思想も地域性に深く根ざしているわぬ。現代も昔も騙し騙され生き馬の目を抜く中国のような場所で、活道理・活物の思想である儒学が生まれ、或いは高等遊民であったり象徴システム的社会の中では、抽象度がどんどん上昇する。勿論全てはキッカケにすぎずあらゆる場所、あらゆる時間において、ノマドな交通は至るところに発生し、硬直した死骸の中からプラグマティズムの幼蟲が発生し、或いは軌道を外した運動が徐々に死後硬直へと向かう。いずれにせよそれらは個人の生体組織の通時的・共時的連関においても同じであり、そのようにしてより大きなシステムへと連結していく。

エドマンド・バークだの荻生徂徠だの、忙しい。保守主義だの、革新主義だの、結局のところ生来の性格問題にすぎない。耶蘇の時代には、100人の耶蘇がいた。記憶とは、病気である。歴史とは、病歴である。歴史学とは、病跡学である。

法の部品である役人と、法の製造者たる政治屋が同時に存在するように、活物たる聖人と、死物たる妖怪もまた、同時に存在すべくして存在する。豊穣たる不可解さは、神の威厳をもって世界の隅々まで充満している。ただただそれを眼前にとらえて前へと進む、それが「道」。

人間は言語を獲得し、動物から機械となった。

機械は動物よりも下種だが

道具としての機能は一流だ。

道具は道具として愉快に稼動すればいい。

問題は人間だ。

この時代に至って、言語のクビキを解き放つ

実存のテクニックが人間となる資格だ。

環境管理型社会が機械ニンゲンだけでは

制御できないと、巷間あたふたする現今で、

人間は言語のクビキを効率よく払いのけ、

自然現象となって、卓越主義的に

機械を統御しなければならない。

それが、マトリックス的に、再帰的に、

機械自身の作用であるとしても。

イッポンの足が、映画的に転がっている。

けら、不気味。みろくぼさつ。

イッポンの足は、実存やら再帰やら、

何の関係も無く、静かな赤の中に転がっている。

イッポンの足が、部屋の中で、増える。

ニッポン、サンポン、ヨンポン、と。増えていく。

そのころにはぼくのじがはどうでもよくなり

あら、ら、と部屋の外に飛び出した。

そしたら空は青色。雲は白。

全てが明確で、ハッキリとした世界だ!

僕は、前を歩いている等身大の人形に

踊りかかった!

僕はとうとう元に戻ったんだ。

濁りすぎて何も景色が見えない。或いは、透き通りすぎて、何も見えない。

特異点は僕(私)の中で高速に相似形を反復する。

肉の木が、バラの花に求愛する。

刻み付ける音がデカルト世界を牧歌的に彩る。

ケルベロッセ、ケルベロッセ。

見たまえ再び幼稚な世界が『自然』に広がる。

科学的な汚物を吐き出しながら

整えられた興がビルヂングの合間ヲ林立する。

みどりいろの、さようなら

漠然とした笑みが怒涛のように職員室。

漠然とした笑みが、みどりいろ。

鬼が玄関を入り、廊下を進み、職員室を通り抜け

今、みどりいろの、さようなら。

非日常性というキーワードは常に浮かび上がるわけだけど。それは浮薄なわけでも遊離しているわけではなく、祝祭系の人格にとって、極めて真面目な態度であるわけです。非日常性が言葉をもたらし、非日常性が動力を与える。サイファに開かれたある種の人格にとって、非日常性が日常性であり、世界との落差を生み出し運動を作り出す基本単位なのです。つまり食卓で分かち合い、コミュニティで議論されるべき、日常的切実問題に過ぎぬのです。

AとBの間を往還しながら上の世界へ上っていく。

それは抽象度を、現実感によって研磨する、

崇高な世界の儀式だ。それが、自我だ。

Aの私にさようなら、Bの私にさようなら。

A’の私にさようならB’の私にさようなら。

言葉は、非言語の世界へと渡る手形となる。

それが仏教だ。或いは縦の力、サイファだ。

科学の極北が、非科学を肯定し

世界の限界が、世界への入り口となる。

言葉と純粋なイメージは、

人生何度も私の中でサイクルする。

その度、私から言語は失われ

純粋な効用と物理が私の実存と適合していく。

朱子学などどうでもいい。

理も気も失われ、世界原理がそこにあるだけだ。


鷲崎アトムは辟易しながら、延々と続くタバコの吸殻畑を踏み潰しながら進んだ。いつからこんなに、と彼は頭を振った。タバコも人格も生産活動も、全てが均等なパターンの繰り返しだ。先史時代から続く、物と人類の絶え間ない切磋琢磨の歴史、つまり文化活動の見過ごせない一側面は最早、ゆらぎのかけらもない反復の牢獄に取り込まれている。そこではミルクをかき混ぜる必要も、樽に蓋をして何十年も無益な祈祷を続ける必要も無い。寸分たがわぬ規格品である臣民ペンダントの窓をひらき、こう唱えるのだ。『ライブラリ、その曇りなき救済を』

永遠とも思える無益な行進を続けながら、アトムは24回前の人生で目にした「ヴィネ」と呼ばれるガラスのビンに詰められた3色の液体を思い出していた。それはシステム化される前のライブラリの最下層の神殿に奉られた「御神体」として、全人類の文化構造の異物として、神々しくそこに鎮座していたのだ。「ヴィネ」は、自己再帰的に目覚めたシステムによって当然の如く廃棄されたようだ。再帰的最適化自己アルゴリズムの観点からすれば、その液体は極めて好ましくないユラギを人類に齎すと判断されたのだ。勿論、とうの古代に消滅した文化とやらの残滓として、幾分仰々しすぎるスケープゴートとして、その意味性を歴史の中から永遠に剥奪されたのだった。

彼はあの液体こそ今の自分に必要なものだと痛切に感じていた。

『ライブラリ、その薄汚い欺瞞と自家撞着の塊よ』

いまや殆んど動かない右腕を、イメージの中で勇ましく振り上げると、

ヴー、といううなり声を挙げながら力いっぱい背中を反り返らす。

様々な時代の、様々な地域の陰惨な殺戮のイメージが空間に舞っていた。

類人猿が隣人猿の尻尾に火をつけた。新人類が研ぎ澄ました骨角器で

見知らぬ子供を貫いた。計算高いギリシャの若者が故郷の都市を売り、

数万人の少数民族が強大な帝国に捕囚された。

「ァ”アああア”ア”ア”あああ!!」

衰弱しきった彼の脳髄から口蓋に向けて、言いようも無い哀しみと

前時代的な絶望が、反響し、反復し、何度も往還した。

少数民族!彼は混濁し始めた意識の中でそのワードに強く反応した。

そういえばエルバ族の彼はどうしただろう、と細切れの記憶を伝統工芸

の職人の如く辛抱強く繋ぎあわせる。「彼はどうしただろう!」

せりあがる砂の城に向けて、或いは急速に砂のごときものに近づきつつ

ある自分に向けて問いかける。

そうだ彼なら、俺の言葉を聴くことができる。彼なら俺の言葉を

ラフムドやシーア、この際ヴォルフラムでもいい、シンクタンクの連中

に伝えてくれるかもしれない。アトムは生前の彼の容姿を思い出そうと

努めた。巨大ながらも殆んど存在感の感じられない瞳、褐色というには

あまりにも紫色の肌、整った鼻と唇、小さな顔に釣合わない縦長の体躯に

あわせて芸術品のようにそよぐ白髪。各パーツが有機的に結合されて

何か人類についての極めて重要なメッセージを全身から放っている。

なんとも不思議なものだ、アトムは呟いた。いや、呟いたイメージを

想像しただけだ、と脳が想像した。

『あんなに存在感の希薄だった、彼が、今、消滅の危機を迎えている

 この世界において、この世の何にも増して強力な実在感を放っている』

何故だろう、彼が少数民族のだから?彼の容姿がある種の審美的要求を

強く満たすものだから?。『違う違う違う違う違う違う!!』

彼の中のエントロピー増大に激しく抗う器官(オーガン)が全てのイメージ

をシャットアウトした。それとともに「彼」は急速に実在感を失い、

個性的な各パーツは急速に前時代的美の中へと逆行し、

恐ろしく美しく若々しい何かへと変貌を遂げた。

「それでいいのかい、それでいいのかい」と色々な時間軸からの法律的

概念が彼に詰め寄ったが、前時代的な強さを肉体のいたるところに

構築しつつあった彼の前には、AC2044時点における神秘主義ほどの

脅威にすらないようだ。もはやアトムの目からみてもそれは完全に

「美的」なものだった。

『僕はエルバ族ですよ。時間とは何です?エルバはそのような瑣末な

 概念をよしとしません。僕は何よりもまずエルバ族なのです。』

崩壊する自意識の中で、アトムは「彼」のイメージを保持しようと

必死に奮闘している。世界とやらは最早多様性で溢れ出した。

何故これほどに私は疲弊し、美的なものは私を苛むのか。

<ライブラリ>と彼は呟く。それがなんだったか彼はもう思い出せない。

エルバ族の彼は、多様性という名の力強い種の要求を体現している。


  『この画、すごく<綺麗>ね!!』

 ジェシカ・ヴォルフラムはヒステリックな興奮に包まれながら叫んだ。

 『この中央に描かれているのは天使ね。若々しくて力強いわ!』

  『周りを取り囲む亡者の群れは何を暗喩しているのかしら』

 執事のムウ・フュシカは殆んど無感情で応答する

 『ライブラリの記録によると、「文化_No.102」となっております。』

 ジェシカは白痴染みた瞳を爛々と輝かせながら、肩をすくめてみせた。



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