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「着いたよ。」
三分も経っていないのに、凰士は車を停止させた。
あぁ、最初から凰士の部屋に向かっていたのね。
「うん。」
助手席から外に出ようと思うが、服がぼろぼろだし、周りはまだ明るい。
「ほら、白雪。」
私の膝に腕を入れ、背中に腕を回される。
「また、お姫様抱っこ?」
「その方がいいだろう。」
「…じゃあ、お願いします。」
不服だけど仕方がない。
それにしても凰士ってば、いつの間にこんなに軽々と私を抱き上げられるほど力がついたんだろう?
結構体重があるのよ。言いたくないけど。
「シャワーを浴びてきなよ。」
「うん。」
凰士の上着を手渡し、敗れたシャツで前を隠しながら、脱衣所に逃げ込む。
あぁ、こんなになっちゃって。どう考えても再生不可能ね。
気に入っていたんだけど、なぁ。
でも、くよくよしたくない。
一気に服を脱ぎ棄て、下着も剥ぎ取る。
膝、擦り剥いてるよ。
まったく、本当に森美人のバカたれ。
「沁みる。」
シャワーを浴びると傷口が痛い。
でも、身体中を洗い流し、忌まわしい出来事を拭い去る。
浴室から出るとふかふかのタオルが置いてある。でも、着るものがない。
仕方がないからタオルを巻き付け、リビングへ。
「凰士、着る物、頂戴。」
「今、探しているんだけど。」
「何かないの?」
クローゼットを覗き込む凰士の横から顔を入れる。
「あっ、これでいい。」
黒いシャツを発見し、引っ張り出す。
次はパンツ。凰士を見上げると、やっぱり十センチ以上の差がある。どう考えてもぶかぶかだよね。
「これでいいや。」
ストレートのジーンズを見つけ出し、何度か折り返せばヘンじゃないだろうと考えた。
「ねぇ、喉乾いた。何かないの?」
「あっ、うん。」
ぎこちない凰士の動き。出来の悪いロボット歩きでペットボトルの烏龍茶を持ってきてくれる。
「ありがとう。」
一気に喉に流れ込む冷たい感覚が気持ちいい。
「あの、白雪。」
「うん?」
ペットボトルを口から離し、顔だけ向ける。
「一応、俺も男なんで、その格好、目のやり場に困るんだけど、服を着てもらえるかな?」
「あっ、えっ?」
よく考えれば、タオルを巻いただけの状態。
「ごめん、ごめん。」
ふぅん。やっぱり実の弟とは違うのね。
吹雪なら、色っぽさの欠片もない憐れな格好をしているなと怒鳴られるくらいなのに。
凰士に背を向け、タオルとはらりと落とし、先ほどの服を身に着ける。
下着もぼろぼろだから着たくないけど、何か落ち着かない。
「ヘンじゃないかな?」
振り返ると、息を殺した凰士と視線が合う。耳まで真っ赤に染まっている。
「へ、ヘンじゃないよ。」
声が上擦っているって事は見ていたのね。
普通、こういう時は視線を逸らすモノでしょう。言わなくても。
それにしてもこんな身体を見て、楽しいのかしら?よくわからない。
「しばらく借りるね。」
「あっ、うん。」
動揺を前面に押し出した動き。笑えるぅ。
「この格好で買い物もヘンよね?」
「じゃあ、後日、ゆっくり行く?」
「そうね。休日に行きましょう。その方がゆっくり選べるし、色々なお店を見て回れるから。ちゃんと付き合ってよ。」
「もちろんです。」
嬉しそうな笑みを覗かせ、小さくガッツポーズしている。
「そのポーズは何?」
「いや、白雪とデートだと思って。」
「あぁ、そうですか。」
凰士って、可愛い。買い物に付き合わされるのに、喜ぶなんて、ね。
「お腹空いたけど、食事に行きたい気分じゃないのよね。何かない?」
「じゃあ、ピザでもとろうか?」
「賛成。」
固定電話の子機を手にする凰士に視線を向けた。
やけに肩幅が広くなって、後ろ姿は完全に大人の男性。
前は痩せていて、男の子って感じだったのに、いつの間にこんな姿になったんだろう?
何かやけに男らしいというか、少しだけドキドキしているのは、私の気のせいだよね?そう、気のせい。
「白雪。」
凰士の声に驚き、目を見開いた。
「どうしたの?気分が悪い?」
「あっ、ごめん。何?」
凰士の背中に見惚れていたなんて言えるはずない。
平然を装うけど、ちょっとムリがあるかな?
「ピザ、何にするの?」
「凰士に任せるよ。」
妙に照れくさい。
さっき抱き上げられた腕、逞しくて温かかった。凄く安心したし、ちょっと幸せだった。もう一度、あの腕で抱き締めて欲しいな、何て、私、何を考えているんだろう?
バカだ。そっか、疲れているんだ。それだけなのよっ。
はぁ、誰に言い訳をしているんだろう?本当にバカ。
「適当に頼んじゃったよ。」
声も低くなった、本当にいつの間に声変わりなんてしたんだろう?
本当に知らない間に大人の男になっちゃうんだね。
私なんてほとんど変化ないのに。
「白雪、本当に大丈夫?」
私の顔を覗き込み、心配そうな表情で真っ直ぐに見つめる凰士。
何なの?このときめきは?何の悪い冗談?
「だいじょうびゅ。」
「だいじょうびゅ?本当にヘンだよ。もしかして、何処かにぶつけた?医者に行こうか?白馬家の主治医なら今からでもここに来てもらえるし。あれだったら、しっかり検査してもらった方が…。」
その方がいいかもしれない。確かにさっきから私はヘンだ。
「疲れているだけだよ。あんな事があったんだもん。そうでしょ?」
「白雪…。」
「大丈夫、一晩寝れば、疲れはとれる。まだ若いんだからね。筋肉痛だって、翌日には出るし、年寄扱いは困るなぁ。」
「そうじゃないけど…。ハデに転んだみたいだし、精神的にも…。」
「あっ、忘れていた。膝を擦り剥いちゃったの。消毒してよ。」
「はい、唯今。」
凰士が立ち上がり、救急箱を探している。
大きく息を吐き出し、ヘンに動揺している私を落ち着かせる。
凰士の成長をこんな風に噛み締めるなんて、おかしな心理状態だ。
「何処?」
「あっ、うん。」
ソファーに座った私の前に跪き、見上げている。
パンツの裾を上げ、膝をむき出しにする。ちょっと触れると痛いかも。
「あぁ、こんなになっちゃって。」
血は止まっているけど、皮が剥け、痛々しい赤い皮膚が露わになっている。
「ちょっと沁みるよ。」
シュッと冷たい液体が掛かり、じんわりと痛みが広がる。
顔を顰めると、苦笑の凰士。
「深いからバンドエイドしておく?」
「いらない。」
「あとは?」
「掌とお腹。」
「お腹?」
掌には擦り剥いた赤い線、お腹には服を破られた時の爪痕が。
とりあえず掌を見せる。
「うぅん。微妙だな。」
唸りながらも消毒液を掛けてくれる。でも、あまり沁みないし、すぐに垂れていく。
「お腹って。」
「えっ、あっ、うん。」
「それじゃ、わかんないでしょう。転んだ時に、もしかして、打ったの?」
「そうじゃなくて…。」
あぁ、もう、鈍感バカ。言い辛いのくらい、察しなさいよ。
「爪で引っかかれたと言うか、そんな感じになっていて…。」
「見せて。」
そんな簡単に言うなぁ。胸のすぐ下だし、今、ブラしてないんだぞぉ。
何を照れているんだろう?ここにいるのは、凰士だよ。吹雪と同じ扱いでいいんじゃないか?
「白雪。酷いようなら、医者に診てもらわないといけないだろう。」
「うん。」
諭すような口調で言われたら、引き下がるしかないじゃない。
それにしても凰士のくせに生意気になったものだ。
シャツの裾を持ち上げ、胸が見えないぎりぎりまで持ち上げる。
なんか、超恥ずかしいんだけど。
「すぐに消毒するから。」
「あっ、うん。」
ティシュに消毒液を沁み込ませ、トントンと叩くように消毒してくれる。
「もう少し、シャツを持ち上げて。」
「えぇ。」
凰士の顔は真剣そのもの。
ここでぐずるのも大人げないかな?
しぶしぶシャツを捲り上げた。
「あぁ、こんなに白くて綺麗な肌に。」
消えそうな呟きが耳に届き、顔から火が出そう。
何をそんなに意識しているの?私、バカじゃないの?
「はい、終わり。」
手が離れる瞬間。指先がふわりと胸を掠っていく。
「あっ、ごめん。」
凰士の耳まで赤く染まり、私まで顔が熱くなる。これは反射だ、反射。
「あっ、うん。」
訳のわからない返事をしてしまった。どうした、私?
「消毒箱、片付けてくるから。」
「うん。」
普段の私なら、消毒箱じゃなく救急箱だろうときちんと突っ込み出来るはずなのに。
「他に痛い所とかは?」
「大丈夫。」
「そうか。」
ソファーがふわりと沈み、すぐ隣に凰士の気配。
身体が緊張に支配されちゃって、振り向けない。
「あのさ、白雪。」
強張った凰士の声。頷いたけど、声は出なくて、視線を向ける事も出来ない。
「ピンポーン。」
そう、お決まりの邪魔者くん、登場。
ちょっと良い雰囲気になると必ず電話や来客があるのが、世の常。
そうじゃなくって、何が良い雰囲気よ?凰士と私の間にそんなのが存在するはずないじゃない。
まったく、私も何をバカな事を考えているのよっ。あぁ、自分に腹が立つ。
「ピザ、来たよぉ。」
テーブルにMサイズのピザとハッシュポテト、フライドチキンとサラダが置かれる。
「ちょっと、二人で食べるには多くない?」
「大丈夫、白雪だから。」
「どういう意味よ。」
「あと、デザートにティラミスもあるから。」
「飲み物は?」
「コーラだろう。」
「わかっているわね。偉い、偉い。」
「その子供扱い、止めて欲しいね。」
苦笑を零しながら、料理を広げていく。
私もドレッシングをかけようとサラダに手を伸ばすと、凰士と指先がぶつかる。
「あっ。」
純情少女じゃないぞぉ。自分で突っ込みを入れたくなる行動。
軽く触れただけの手を引っ込めるなんて、らしくない。
まったく相手は凰士なんだよ?
「いただきます。」
顔の前で手を合わせてから、ピザに手を伸ばす。
なんだかんだと言いながら、テーブルいっぱいの料理を食べきってしまう私達。
「家で何て言い訳するんだ?」
「あぁ、服?そうねぇ。水溜りの上でハデに転んで、ぐちゃぐちゃになっちゃったとでも言うわ。ちょっと、ムリがあるかな?」
「微妙に。」
「でも、事実、水溜りがあったし。まぁ、泥水溜りに服を浸したら、クリーニングの染み抜きも完全じゃないし、大丈夫よ。まぁ、親にばれないように、寝静まった頃に帰るわ。」
「それ、正解。」
肩を竦めながら、苦笑を零した。
それからデザートを食べ、バラエティー番組なんて見ちゃって、ほのぼの時間を楽しんで、帰路に着いた。
凰士の車が家に到着したのは、午後十一時。リビングも両親の寝室も電気が消えている。
点いているのは吹雪の部屋だけ。どうにか誤魔化せるはず。
「じゃあ、明日ね。」
「うん、おやすみ。」
「おやすみ。」
音を立てないようにドアを開閉して、忍び足で二階に上がる。
泥棒みたい。ちょっとスリリングで笑える。
なんて呑気な事を考えていたら、突然、吹雪の部屋のドアが開いた。
ヤバイ。自分の部屋に入ろうとするより早く腕を掴まれた。
「おかえり、白雪。」
「た、ただいま。」
引き攣った声が零れた。
一番面倒なヤツに掴まったのは、言わずと知れた事。
有無も言わさず、吹雪の部屋に連れ込まれる。あれぇ。
「随分、遅くまで凰士と一緒だったんだね。もしかして、デートかな?それに、その服、凰士のだよね?」
どうして、凰士と一緒だとわかる?あっ、車の音で気付かれたか?
「とうとう凰士と付き合い始めた?そうか。だから、あの時、二人きりで部屋にいたのか。あぁ、邪魔しちゃったから、仕切り直しで、今日。焦らした分、凰士が燃えちゃって、服をダメにしちゃったのか。なるほどねぇ。いや、若いっていいねぇ。」
何?コイツ。大きな勘違いをしているの?
それに、この年寄臭いコメントはどうなの?
二十代の言葉じゃないよね?
バカバカしいので、勝手に言わせておく事にする。
「それにしても服をダメにするほど激しかったのに、目立った場所にキスマークの一つもないのは、どうなんだ?」
この短時間でよくそこまで観察したモノだ。
我が弟ながら、感心させられるよ。
「二人のキューピットの俺に一言のないのは気に入らないね。特に凰士には色々アドバイスをしてやったのに、なぁ。」
「へぇ、どんなアドバイスをしたの?」
「それは、もう色々。白雪は押しに弱いから、押し捲ればどうにかなるとか。強引にキスしちゃえば流されるかもしれないとか。二人きりになったら有無も言わせず押し倒せとか。あっ。」
ベラベラとしゃべった後、口を押えるが、しっかり聞いたぞ。
「ふぅん。」
顎を上げ、上目遣いで吹雪を睨み付ける。
肩を竦めながら、視線を泳がせているが、そんなんで許されると思うなよっ。
「言っておくけど、私、恋人いるから。もう凰士にろくでもない事を吹き込まないように。今回は見逃してやるけど、次回からはどうなるか、わかっているわよね?」
「はい。」
しおらしく返事をして、身体を縮めている。
「あっ、じゃあ、どうして、凰士の服を着ているわけ?自分の服はどうした?」
藪蛇してしまった。まぁ、言い訳を用意してあるから、大丈夫。
「水溜りの上で転んだの。泥ベッタになっちゃって、仕方がなく、凰士の服を借りたわけ。」
「なるほどぉ。白雪らしい。」
妙に納得されるのは癪に障るが、言い返せない。
「なぁ、白雪。」
「だから、何度言えば直してくれるの?お姉さまとお呼びなさい。」
呑気にベッドに腰掛け、立ったままの吹雪を見上げる。
「んな事はどうでも良いよ。」
どうでも良くないでしょう。偉そうなたいどのまま、私の横に座り込む。
「何度も聞くけど、どうして、凰士と付き合わないわけ?」
「何でもいいけど、どうして、私と凰士が付き合わないといけないわけ?」
「じゃあ、どうして、凰士じゃダメなわけ?」
「吹雪はどうして、そんなに凰士とくっつけたいわけ?」
「白雪と凰士がくっついたら、面白いから。」
「何がどう面白いわけ?」
堂々巡り、そんな言葉が過るのは、私だけじゃないよね?
平行線って言った方が良いのかな?
「いや、お似合いだから。」
「どう、お似合いなわけ?」
「それに、玉の輿だよ。」
「興味ない。」
「興味ない?服とか貴金属とかバッグとか、働かなくても好きなだけ手に入るんだよ。食事とかもリッチだし、家事とか面倒な事はやらなくてもいいし、憧れない?」
「そう。だから?」
「だからぁ?」
吹雪の言い方、気に入らない。
「女なら、いや男でも憧れるだろう。玉の輿なんて、他力本願の頂点だぞ。」
他力本願の頂点って、何?意味、違くない?
「別にそんな理由で誰かと付き合ったり、結婚したりしたいと思わないもの。」
「あぁ、そう。」
小バカにしたような呟き。
「でもさぁ、こんなに長い期間、凰士と仲良くしているじゃん。それも部屋で二人きりになったり、食事に行ったりしている。それって、好きでもない男では出来ないよな。」
どうして、こんなに粘る?
「あのさぁ、今、私、アンタと二人きりで部屋にいるよね?それに、両親がいない時には、二人で食事もするよね?」
「それは姉弟だから仕方なく。」
「それと一緒よ。アンタと同じ歳で、小さな頃から知っているんだから、弟と同じような扱いしても問題ないでしょう。」
「可哀想な凰士。俺と同じ目に遭っているのか。半裸状態でうろつかれたり、我儘を言われたり、扱き使われているんだね。」
「誰がいつそんな事をした?」
「白雪が日常的に、そんな事をしている。」
思い当たる節が全くないわけじゃない。だから、それ以上は触れないようにしよう。
「吹雪がそんなに友達の事を考えているなんて初めて知ったわ。」
「それはそうだよ。凰士は大切な友達だよ。それも尊敬に値する姉上様に片思いしている。ヤツならルックスも家柄も性格も合格点だろう。だから、俺としては、姉上様の幸せと凰士の想いを考えて、二人の関係が上手くいく事を望んでいるんだよ。」
「ちょっと、その気色悪い呼び方。すっごく裏があるのを示しているのよね。」
「気にしない、気にしない。」
吹雪がカラカラと乾いた笑いを零している。一体、何なの?
「でも、真面目な話に戻すけど、凰士の何が不満で付き合おうと思わないわけ?」
「別に不満があるわけじゃないわ。アンタと違って、弟としては満点よ。でも、男じゃないのよ。意味、わかるでしょう?」
「ふぅん。男だと想っていないヤツと、あんな狭いクローゼットの中に二人きりになったからといって、キスしそうになるって、どうあんだろうな?俺とだったら、間違いなくそんな事にはならないだろう。それに凰士が無理矢理に事に及ぼうとすれば、白雪なら殴り飛ばすなり、蹴りをお見舞いするなり、出来るよね?それをしなかったって事は、そうなっても良いと思ったからだよね?」
コイツ、絶対に性格悪い。誰に似たのかしら?私とは大違いだわ。
「あっ、こんな時間。私、寝なくちゃ。明日、仕事だしぃ。」
「逃げるって事は、認めるんだな。まぁ、今日は見逃すよ。でも、真剣に凰士の気持ちに向き合う事を考えてみてくれよ。そして、鈍感な自分の気持ちにも。」
「おやすみぃ。」
「はい、はい。おやすみ。」
静かに吹雪の部屋のドアを閉め、ぼんやり廊下を見つめる。
本当はシャワーを浴びようと思ったけど、そんな気力は残っていない。
美人の事も吹雪の言葉も何もかも、後でゆっくり考えよう。
疲れちゃった。もう、寝よう。
今日、三話目の投稿です。




