水彩の空と綾
これは、まだわたしが進路に迷っていた頃のお話です。
中学3年生のわたしはそろそろ進路について真剣に考えないといけませんでした。勉強が特別できるわけでもなく、スポーツの才が飛び抜けて恵まれるわけでもなく、やりたい仕事や夢があるわけでもない――――恥ずかしいくらい平凡な生徒だったわたしは、真剣に考えるところまで至っていませんでした。
そんなわたしの道しるべになったのは隣の家に住んでいる高校2年生のお姉さんです。
ある日のことでした。わたしが通学していると横を一台の自転車が通り過ぎました。その際に一冊のスケッチブックがカゴから落ちてしまったようで、すぐに拾って届けに行きました。幸い先にある信号が赤色だったので駆け足程度で追いつきました。声を掛けてスケッチブックを落としたことを説明すると、お姉さんは何度も「ありがとう」と言いながら頭を下げていました。
信号が変わるまでの間、わたしはお願いしてお姉さんのスケッチブックを見せてもらいました。その中には鉛筆のみで描かれた果物や人物像、色鉛筆などで色付けされた風景画がいくつもあって、それらがどれも綺麗で、驚くと同時に感動してしまいました。とくに空の絵がわたしの心を掴んで離しませんでした。思わず「いいなぁ」と声が出てしまい、恥ずかしくなってスケッチブックを返すと、お姉さんが「それ気に入ったの? 拾ってくれたお礼にあげよっか」と言ったのです。
「えっ!? いいんですか!?」
当然です。たぶんわたしじゃなくてもこのような反応をすると思います。
お姉さんはスケッチブックからその絵の描かれた頁を引き剥がして渡してくれました。
「あ、あの! どうやってこういうの描くんですか?」
青信号に変わり、ペダルを踏み込んだお姉さんは振り返って「ウチに来たら描けるようになるよ」と笑いながら制服の校章を指差して、手を振って行ってしまいました。
――わたしはその日の放課後、初めてスケッチブックと水彩絵の具を買いました。
お姉さんからもらった絵を見本に、空を見上げながら何度も何度も描き続けました。空の色が薄い日も濃い日も、雲が少ない日も多い日も。そうやって何枚も描いていくうちに初めて知ったことがあったのです。それは、毎日同じじゃないということでした。似てはいても日時が変われば空の表情はまったく違うのです。いくらお姉さんのような空を描こうとして描けないわけです。
それからもずっと空の絵を描いたけれど、やっぱり思ったような絵は描けませんでした。思えばいつの間にかわたしは毎日絵を描くようになっていました。ここまで真剣になれて、長続きした事は初めてだとようやく気が付きました。
『ウチに来たら描けるようになるよ』
わたし、絵を勉強したい。純粋にそう思いました。
たった一枚の絵がきっかけで変わる未来もあるんだって知りました。わたしもいつかそんな絵を描けるようになりたい。迷ったときの道しるべになるような、空の絵を――――
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