偽りない心
海水浴のシーズンは子供の声が溢れる。
ホテルの一室にしても、廊下を走る高い悲鳴が楽しそうに賑わっていた。
「いいね。子供って」
幸子の声には日頃の疲れが溜まっていた。
それを除去、または軽減するため、俺は海の見える温泉に連れてきたのだが。
「ちょっとうるさかったかな?」
人気のホテルではあったが、高級ホテルではない。
宿泊する客のことなど考えず、場所と雰囲気、そして予算、そればかりにとらわれていた。
「あ、違うの違うの」幸子はあわてて手を振った。
「子供ほしいなって、そう思っただけ」冗談っぽく舌を出して笑った。
「それは」彼女の冗談に付き合う。「俺の子供でもいいの?」
「もちろん」隙間なく、満面の笑みで答えられる。こうなると、彼女の勝ちだ。
「ダメでしょ」自分で言って、自分で突っ込んでおいた。これくらいが丁度いい。
幸子の、躊躇いのない偽りの愛が、俺には気持ち良かった。
偽りかそうでないかなど、幸子にしか分からないかもしれない。
金を払って付き合っているわけではない。
しかし、愛を知らない俺にとっては、「愛」は偽りにしか見えなかった。
それでも「愛」があるだけで、嬉しい。
偽りの「愛」を与えてくれる幸子が愛おしく感じた。
二人で、ワインをあけた。
子供の声がする。不思議とそれも、愛おしく思った。
「子供も、いいね」
二本目のワインを開け、俺たちは程よく酔っていた。
ピリオドを付けた話題を持ち出してしまった。
「そうでしょ?」幸子はピンクの頬と口を柔らかく上げて、俺のグラスにワインを注ぐ。
「子供は天使」と幸子は言った。
「私のお腹に天使は宿るかしら」
うっとりとした口調で幸子は自分のくびれた腹部を触る。
すっぴんなのに、酔ってピンクになった頬と酒で濡れた唇がとても色っぽい。
「誘ってんの?」俺は率直な意見を言った。
今日はやらないと思っていた。というか今まで、幸子とセックスをしたことはない。
「うん」
また、邪気のない笑顔で答えた。
偽りの愛。
俺はグラスのワインを飲みほし、自分と幸子のまだ残っているグラスにワインを注いだ。
「まぁ、飲んで」
俺は言った。
そして言いたかった。
もうそれ以上はやめておこう。
偽りの愛に口付けしたかった。
実際しても、幸子は嫌がらないだろう。
でも、俺はその境界線を越えたくなかった。
幸子とは清らかな関係でいたかった。
誰よりも大切で、愛おしい女性。
無邪気な愛の言葉をくれる愛おしい女性。
偽りと確信した瞬間に全てが、崩れてしまう。
俺はそれが怖かったのだろうか。
やがて俺らは酔い潰れ、寄り添い、安らかに眠った。
安らかな眠り。
これで幸子の疲れが取れることを、おれは願った。