第5話「——ならば、私はお前との人生を諦めないからな」
予想外のコンラートの反応とロザリンデの突入に、エルナとライナーは目を見開いたまま固まっている。
「すまないな、エルナ。ライナーも外してくれるか?」
静かに言うロザリンデの言葉に、エルナとライナーは気まずそうに顔を見合わせてから頷くと、そっと退室して扉を閉めていった。
「……」
二人きりになった団長室で、ロザリンデが閉められたばかりの扉からコンラートに視線を戻すと、目の前のひょろりと背の高い男は、悪さが見つかった子どものようにロザリンデの瞳から足元に視線を動かした。
「コンラート」
沈黙を破ったのはロザリンデだった。先ほどまでは怒りで頭がいっぱいだったのに、いつのまにか心の隙間から、言いようのない不安な気持ちもじわじわと広がっていた。
「お前は……私の気持ちを知った上でさっきの言葉を口にしたのか?」
声が、震える。
「……」
「答えろ、コンラート」
コンラートはロザリンデから逃げるように、背を背け窓の外を見るようなふりをする。
「ええ、その通りです。殿下のお言葉をしっかり覚えていた上で言いました。……お……お似合いだ、とね」
詰まった言葉で、ロザリンデの心が解けた。思わず息が小さく漏れた。嘘だ。これはコンラートの本心ではない。
「何故か、聞いてもいいか?」
もう声は震えなかった。感情も凪いだ。
「殿下は『釣り合わぬ縁は不幸の元』って言葉を聞いたことないですか?」
「無い」
「そうですか。俺は幼い頃から色んなところで聞きましたよ。自分の家でも、周りの家からも」
「釣り合わぬ縁というのは、家格の差のことを言っているのか?」
コンラートは頷いた。
「世の中にはね、自分にふさわしい場所でなければ、不幸だと嘆く者が多くいるのですよ。うちの母のようにね」
「母君が?」
コンラートの家族の話を、そう言えば今まで一度も聞いたことがない。ロザリンデは思わず姿勢を正したが、コンラートは肩を落として外を眺めたまま話を続けた。
「えぇ。本来自分は子爵家風情に嫁ぐような身分ではなかった。自分の年齢に合う相手がいなかったから、仕方なく嫁いできてやったのに、誰も彼も感謝の気持ちが足りない。そもそも身分の高い自分を迎える屋敷の準備がまるでなっていない。こんな家に嫁いだから、こんな出来の悪い子しか生まれない。その子ども自身も——」
「もういい」
延々と怨嗟のように語られるこの言葉は、彼の母から他でもないコンラートに向けられていたのだろうことは、わざわざ聞かなくとも容易に想像できた。
幼子の柔らかな心に、こんな返しのついた針のような言葉が幾度となく投げつけられていたのだと思うと、ロザリンデはもうそれ以上、コンラートに喋らせるわけにはいかなかった。
窓辺に立つコンラートに近づき、その背を、指先でそっと触れる。
触れた途端、ぴくりと身じろぎする目の前の男が、ひどく儚いもののように思えてしまう。
「もういい、悪かったコンラート」
自分が婚姻を迫ったせいで、彼が長い間抱えていたはずの過去の傷を抉ってしまった。しかし……。
(コンラートも、私が求婚したことを不幸だと嘆いているのか——?)
そう思うと、ロザリンデはコンラートに尋ねずにはいられなかった。返される答えがひどく恐ろしかったけれど。
「……お前も、自分を不幸だと思っているのか?」
コンラートは苦笑しながら、ゆっくりとロザリンデに向き直り、ゆるりと首を横に振った。
「俺は、自分にはもったいない場所に置いていただいていると思っております。しかし……」
一度俯いてから、もう一度顔を上げ、柔らかな声色をロザリンデに向けた。
「我が母のような考え方をする者は、殿下が思われているよりも、ずっとたくさん、そこら中にいるのです。そしてそういう人間は、往々にして己の不幸は周りの人間のせいだと思い込み、思い込ませ、傷つけ、責め、周りの人間をも不幸に引きずり込みます」
コンラートの目元に影が満ちる。自分自身が母に引きずられた過去があるから。しかし……。
そう、しかしである。
「それと、お前が私との結婚を断るのに何の関係がある?」
「は?」
コンラートは、呆気にとられたようにロザリンデを見た。
視線を真っ直ぐに受け止め、ロザリンデは腕を組み、自分よりも背の高い男を見上げながらも威圧するようにねめつけた。
「私は私だ。母君とは違う」
コンラートが、ひどく悲しげな顔をして、がっくりと肩を落として首を振った。
「そういうことではなく——」
「お前は!」
思わず大声で遮ってしまった。いつの間にか握りしめていた両のこぶしが、細かく震えている。
「お前は……私のことを、家格が合わぬからと言って周りの人間を理不尽に虐げ、無意味に誰彼構わず傷つけるような、そんな人間だと思っているのか!?」
「……」
コンラートは何かを言いかけ、でも適切な言葉が見つからなかったのだろう。諦めたように口元をきゅっと真一文字に結ぶ。その顔が、あまりにも痛そうで、ロザリンデは唇を噛みしめた。
(これ以上は良くない……。引き時か)
ロザリンデは静かに息を吐いた。言いたいことはまだたくさんある。しかし、当のコンラートが心を閉ざしているのでは、ただやみくもに傷つけてしまうだけだ。それはロザリンデの望むところではない。
「済まなかったな」
そう言って、コンラートの肩を軽く叩いてから、踵を返した。次に来た時、コンラートは変わらずに自分を迎え入れてくれるだろうか。そんなことを考えながら扉に向かってゆっくりと歩を進める背後で、慌てたような足音がした。
そして、後ろから右手首を掴まれた。固い剣だこだらけの、節ばった指の感触だった。
「……」
ゆっくりと振り向くと、コンラートが俯いたままロザリンデの手首を掴んでいた。
ロザリンデが足を止め、振り向いても、コンラートは何も言わない。
「コンラート、これは……。お前の、この手の意味を、私はどう捉えれば良いんだ?」
そう言いながら手首を返して身体の向きを変え、コンラートの顔を覗き込むように見上げると、真一文字に引き結ばれたままの口元が、更に固く結ばれていた。
唇も、コンラートの心も――痛そうだ。
そう思いながら見つめていると、もう一方の握りしめた左の手で、自分の顔を隠すようにしたコンラートの口から言葉が零れた。
「……俺にだって分からんのですよ」
触れるコンラートの右手も震えている。痛くはないけれど、振りほどくこともできない程度に掴まれている。
左手で、自身の顔を隠している彼の左手を掴んで降ろしてみた。抵抗はなく、すんなりとその手が下りてくる。向かい合って、交差するように互いに両手を取りながら、再度コンラートの薄い灰色の瞳を覗き込んでみた。
額が触れそうなほどの距離で、ロザリンデの金の瞳とコンラートの灰色の瞳が、互いを映して、揺れていた。
ひと呼吸の後、ロザリンデはコンラートに告げる。
「——ならば、私はまだお前との人生を諦めないからな」
「!?」
弾かれたように顔を上げたコンラートに、ロザリンデは微笑んだ。そしてそっと自分の人差し指で己の唇に触れてから、コンラートの半開きになったままの口元に、その指先を押し当てた。
固まるコンラートの手をゆっくりと解いて、ロザリンデは笑みを浮かべながら、颯爽と団長室から軽い足取りで出て行くのであった。




