Record: 6『繋ぎ合う夜』
国境近くの宿場町。古い安宿の部屋には、小さなランプの灯りだけが揺れていた。 薄い壁越しに、誰かの荒い罵声と、絶え間ない赤ん坊の泣き声が湿った空気のように染み出してくる。
ルルナが、血と泥に汚れたドレスの端切れを片付けていると、ギイ、と古い扉が鳴った。そこには、包帯で吊った右腕を庇い、壁を支えにして立つ彼女の姿があった。「……ルルナ。……今、何かが、聞こえなかったかしら」 視界の端から血が滲み、青ざめた彼女の表情には、かつての王女の覇気はない。
「……っ、まだ動いてはダメです。……今の音は、隣の部屋の方が荷物を落としただけですよ」
ルルナは、血の混じった水が入った桶を脇に退け、その冷え切った左手をそっと握った。
「……そう。……そうね。わたくし、……あの音が、まだ耳の奥で鳴り止まないの……」
震える指先が、自身の喉元に触れる。 血管を焼き、命を削って放ったあの一撃。その代償である魂の中身をごっそりと抉り取られたような『喪失』と、骨の髄まで凍りつく『死の悪寒』が、彼女から「王女の矜持」を剥ぎ取り、ただの心細い少女へと引き摺り下ろしていた。
整理していた毛布を広げ、ベッドの端へと招く。
「……はい、きっと風の音です。今夜は、私が側にいますから」
少しだけ戸惑ったような顔をしたが、やがて小さく頷き、ルルナの隣に腰を下ろした。王女だった彼女が、他人の体温を求めるなど、以前なら考えられなかったことだ。
「……変ですわね。城にいた頃は、あんなに広すぎる部屋で一人、平気で眠れていたのに」
「それは、あの頃のドラクロワ様が、一人で国を背負おうとなさっていたからです。今は……もう、一人でなくていいのですよ」
震えるその手を、そっと包み込む。 かつての「主と従者」ではなく、共に地獄を抜けてきた「二人」として。
「ルルナ……。あなたの手は、本当に温かいわね」 「頂いた名前と、この命ですから。……冷えてしまった時は、何度でも私が温めます」
「……本当に、あなたには敵いませんわ。……ねえ、ルルナ。今夜はわたくしが眠るまで、手を離さないで」「はい。約束します」
ルルナの肩に、そっと頭が預けられる。 壁の向こうで鳴っているのは、本当にただの風の音。本当にただの雑音。今の二人を繋ぎ止めているのは、薄い寝巻き越しに伝わる、互いの小さな鼓動だけだった。「明日からは、もうドラクロワ様と呼ばなくて結構よ。……亡命者には、名前だけで十分だわ」 「……それは、まだ少し練習が必要そうです、ドラクロワ様」
その返事に、今夜初めて、小さな、本物の微笑みが零れた。
小さな宿の一室。 明日にはまた、終わりの見えない逃避行が始まる。けれど、繋ぎ合った手の中に灯る小さな温もりだけが、今の二人にとっての、唯一の「琥珀色の真実」だった。




