Record: 4『泥を蹴るブーツ』
空を赤く染める猛火に背中を焼かれ、がむしゃらに走り続けた。 背後で崩れ落ちる建物の轟音に耳を塞ぎ、喉が焼けるほど冷たい空気を吸い込みながら。 誰の助けを呼ぶ声も聞こえない、あの耳を刺すような静寂から逃げ出すように。 ただ生き延びるために。
どれほど走っただろうか。気づけば周囲は鬱蒼とした巨木に囲まれ、村の火光さえ届かない深い闇に包まれていた。
「はぁ、はぁ……っ……おじさん、みんな……っ」
木の根元に崩れ落ち、胸元の小瓶を強く抱きしめた。肩紐が引きちぎられ、だらりと無残に垂れ下がったエプロン。それでも、看板娘であった自分を繋ぎ止めるように、汚れきったその布を脱ぎ捨てることはできなかった。 足元のブーツは泥にまみれ、毎朝鏡の前で念入りに結んでいた髪は、いつの間にか片方のリボンを失い、汗と泥で頬に無残に張り付いている。熱を帯びた体の中で、ポケットの『黒い破片』だけが、エプロン越しに死んだように冷たかった。
村を離れて丸一日。 食料は底をつき、胃がねじ切れるような空腹が襲う。喉は裂けるように乾き、意識は朦朧とする。 街道沿いの草むらには、自分と同じように逃げ遅れ、あの『黒い石に変わる病』に倒れた旅人の遺体が放置されていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
泣きながら、震える手で遺体の腰から錆びついたナイフを抜き取り、冷え切った骸が羽織っていた厚手のマントを剥ぎ取った。 指先に残ったのは、消えゆく命の生ぬるい名残。 昨日まで、温かいスープや重いミルク缶を運んでいた自分の手が、今は誰かの形見を奪っている。指先に残る死者の冷たさに、眉を下ろし、恐怖と罪悪感で顔をぐちゃぐちゃに歪めながらも、彼女は生きるためにそれらを自分のものにした。 それは、彼女にとって最初の「現実」という名の洗礼だった。
その時。森の奥から、低く唸るような声が聞こえた。 姿を現したのは、病に冒されたのか皮膚が剥げ落ち、目が濁りきった黒い犬のような何かだった。
「ひ……っ、来ないで!」
魔物が牙を剥いて飛びかかる。 思考は白く染まり、叫び声さえ喉に張り付いて出てこない。
(――っ、死ぬ、ぶつかる、よけて、逃げてっ!!)
心臓が肋骨を叩き割りそうなほど暴れ、視界がチカチカと明滅する。 けれど、その絶望の瞬間に、震える膝が勝手に沈み込んだ。それは、満員の店内で、お盆を高く掲げながら酔っ払いの千鳥足を「料理を死守して」かわし続けてきた、看板娘としての反射だった。
鼻先を獣の腐臭がかすめる。
「ひっ、あああぁぁ!!」
喉を掻き切るような悲鳴と共に、手に持っていた空の革袋を、目一杯の力で魔物の顔面へ叩きつけた。それは攻撃というより、自分に迫る恐怖を必死に押し返そうとする、無我夢中の抵抗だった。
不意を突かれ、一瞬視界を塞がれて怯む魔物。その隙を見逃さず、腰から引き抜いた「薪割り用の手斧」を両手で握り締め、重心を低く保ったまま、震える腕で前脚を薙いだ。
「もう嫌だぁぁぁー!!」
叫びながら、さらに鞄の中にあった強いアルコールの瓶を、魔物の鼻先に投げつけた。鼻を突く刺激臭に悶える魔物。震える手で、ポケットの底に張り付いていた最後の一本の硫黄マッチを掴み出した。
「お願い……ついてっ……!」
おじさんの形見のレシピ帳――その硬い表紙に、無我夢中でマッチを擦りつける。パチリ、と火花が散り、三度目でようやく小さな、頼りない灯が生まれた。それをアルコールの水溜まりへ放り込む。
ボッ!
青白い炎が爆発するように魔物の毛皮を焼き、獣は悲鳴を上げて森の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻った森の中で、腰を抜かし、荒い息をつきながら座り込んだ。 顔は煤と涙でぐちゃぐちゃだ。 泥臭く、みっともない勝利。けれど、この店で身につけてきた、生きるための知恵と身体の動きこそが、この過酷な世界で生き抜くための、唯一の術だった。
「お腹、空いたよ……おじさん……帰りたい……」
独り言が冷たい森の空気に吸い込まれて消える。 その時、ポケットの中で『黒い破片』が急に脈打つような熱を帯びた。心臓を凍らせる冷気から一転、血液を沸騰させるような強い鼓動。
――生きろ。
ただの幻聴か、それとも砕け散った誰かの執念か。 背中を焼くようなその熱量に追い立てられるように、フラフラと立ち上がった。




