Record: 46 『分たれる道、二つの記録』
「……ルルナ、……ピピを……温めて……あげて……」
ラピスが、掠れた声で告げた。彼女の胸元には、一冊の日記帳だけが、煤に汚れながらも固く抱きしめられている。
宿の崩壊は、もはや止めようがなかった。天井が落ち、床が抜け、物理法則を無視した影の浸食が、五人の足元まで迫っている。
「……店主さん、……逃げましょう! まだ間に合います!」
サーヤが叫び、ラピスに手を伸ばす。だが、ラピスはその手を握り返さなかった。代わりに、彼女のサファイア色の瞳が、悲しげに、けれど確かな意志を持って五人を見回した。
「……いいえ。……ここで……物語を……分けるわ……」
「……わける……?」
ラピスが、最後の魔力を万年筆に込める。インク瓶が砕け、青い液体が空中に魔法陣を描き出した。それは防御壁ではない。空間そのものを書き換える、大規模な「編集」の術式。
「……重すぎる……業を背負う者たちは……北へ……。……その……呪いを……解くために……」
青い光の帯が、重傷のノクス、腕が暴走するドラクロワ、そして彼女たちを支えるルナリスを包み込む。
「……なっ!? 店主、何を……!」
ルナリスが叫ぶが、光の拘束は解けない。
「……そして……。……希望を……繋ぐ者たちは……南へ……。……その……優しさで……世界を……照らすために……」
別の光の帯が、サーヤとルルナ、そしてピピを優しく包み込んだ。
「待って! 嫌だよ! みんな一緒じゃなきゃ……!」
「ドラクロワ様! ノクス様! 離れないで!」
サーヤとルルナが必死に手を伸ばす。
光の中で、ドラクロワが涙を流しながら叫んだ。
「……生きなさい! サーヤ、ルルナ! ……必ず、……必ず迎えに行きますわ!!」
「……錆びさせるなよ、小娘……ッ!」
ノクスが、腰の認識票を引きちぎり、サーヤの方へと投げた。
「……バグだらけの家族ね……。……死んだら承知しないわよ……!」
ルナリスが、最後の悪態をついて顔を覆う。
「……さようなら。……私の……愛しい……登場人物たち……」
ラピスが、万年筆を折った。その瞬間、宿屋『氷晶の止まり木』は、まばゆい青色の閃光となって爆縮した。
視界が白く染まる。
伸ばした指先が、虚空を掴む。
あんなに賑やかだった食卓の音が、スープの匂いが、遠ざかっていく。
***
「……っ、はぁ、はぁっ!!」
サーヤが目を開けると、そこは見知らぬ森の中だった。頭上には、見たこともない星座が輝いている。手の中には、ノクスから投げ渡された、冷たい金属の認識票。そして足元には、煤けたラピスの日記帳が一冊だけ、ぽつんと落ちていた。
「……ししょー? ……ドラ子ちゃん? ……ルナリスさん?」
呼びかけても、返事はない。ただ、森の静寂と、隣で気絶しているルルナとピピの寝息だけが聞こえる。
宿は消えた。仲間は引き裂かれた。
けれど、日記の表紙に貼られた付箋には、ラピスの震える文字でこう記されていた。
『……物語は、……続くわ。……また……ページが……重なる……その日まで……』
泥だらけの太陽は、涙を拭い、強く空を見上げた。
終わらせない。
たとえ離れ離れになっても、この空の下で、必ずまた「いただきます」を言うために。
宝石血液を巡る彼女たちの旅は、ここから二つの道へと分かれ、そして本当の物語が始まる。




