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300年後も鐘の音を  作者: 琥珀 のえる
第1部:氷晶の宿と泥だらけの太陽

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Record: 44 『絶望のノイズ、止まり木の終焉』

 ミストラルの街を、物理的な温度を失った「無音の波」が呑み込んでいった。  宿屋『氷晶の止まり木』の厨房では、サーヤが食事の支度を止め、震える手で窓の外を見つめていた。


 「……ルルちゃん、お外、変だよ。霧が……黒いよ」


 隣でピピの餌を用意していたルルナも、その異常な冷気に顔を上げ、手にした木の実をこぼした。 木の実が床に落ちる音さえ、どこか遠く、膜が張ったように鈍く響く。


 その時、宿の重い扉が乱暴に蹴り開けられた。  飛び込んできたのは、肩で息をするノクスと、青ざめたドラクロワを抱えたルナリスだった。


「……店主! 今すぐ全員、地下か奥の部屋へ!!」


 ルナリスの怒鳴り声と同時に、彼女たちが駆け込んできた背後の「霧」が、まるで意思を持つ蛇のように宿の中へと這い入ってくる。


「……あら。……賑やかな……お帰りね……。……でも、……その連れは……、……予約リストには……ないわ……」


 カウンターの奥で、ラピスが静かに日記の手を止める。  彼女の視線の先――扉の隙間から、空間を歪めながら滑り込んできたのは、漆黒のぼろ布を纏った「何か」だった。


 風が止まったのではない。物理的な温度が、生物の生存を許さない絶対零度へと引きずり込まれたのだ。


 宿屋『氷晶の止まり木』の扉が、音もなく、内側から白く爆ぜた。  そこから滑り込んできたのは、人ですらなかった。漆黒の、ぼろ布を纏ったような浮遊する「ナニカ」。  それは重力に従わず、陽炎のように輪郭を震わせ、顔と呼べる場所にある巨大な「亀裂」から、絶えず黒い煤煙とバグったノイズを漏らしていた。


『――ア……バ……。……ハ……キ……。……セ……イ……ジョ……』


「……っ、嫌、……嫌だ……。また、あの時の……」 サーヤが耳を塞ぎ、その場にうずくまる。ノイズに乗って流し込まれる「村が燃える記憶」に、精神が内側から削り取られていく。


「ルルナ、浄化を! それと火を絶やさないで!」


 ルルナが必死に、光を紡ぐ。だが、その聖なる光は影に届く前に、ジジジ……という不快な音と共に「接触不良」を起こしたように明滅し、掻き消された。 「……ひかりが……吸われて、いく……?」


 ルナリスが毒瓶を投げつけるが、瓶は割れることすらなく、影に飲み込まれて虚空へ消滅した。

 

 「……退がれッ!!」

 

 ノクスが前に出て、神速の抜刀を見舞う。 愛刀『黒曜の焦土』が影の胴を両断した――はずだった。


 ザザッ、という砂嵐のような感触。刃が素通りする。斬ったはずの影は、霧のように揺らぐだけで、傷一つ負わずに再生する。


「……バカな。……手応え(感触)が、ない……!」


 ノクスが驚愕に目を見開く。 影たちは、物理干渉を受け付けない。ただ、そこに存在するだけで周囲の「ことわり」を侵食し、宿の柱を、テーブルを、そして思い出の詰まった家具たちを、次々と無機質な砂の塊へと変えていく。

 

 

 「……ダメよ。あいつら、この街の『霧』そのものなんだわ。一匹を消しても、闇の総量は一分も減っていない……!」

 

 絶望的な寒さが部屋を満たし、ルルナの祈りの光が細く震え始めた時。  ドラクロワが、血の滲む右腕を抱えて一歩前に踏み出した。その瞳には、恐怖を塗りつぶすほどの悲壮な決意が宿っている。


「……わたくしが、外へ出ますわ。……店主。裏口から、この子たちを逃がして」


 ドラクロワの声は震えていたが、はっきりと響いた。 「……わたくしの命一つで、……この『生活』が守れるなら。……これ以上、わたくしのせいで、皆様の大切な場所が汚されるのは……耐えられませんの」


「……お断り……よ」


 低く、温度のない声が、凍りついた空気を切り裂いた。 店主ラピスは、カウンターの奥でゆっくりと日記を閉じ、顔を上げた。そのサファイア色の瞳には、襲い来る「影」への恐怖ではなく、傲慢なまでの「拒絶」が宿っている。


「……貴女に……出て行かれたら……。……明日、……誰が……あの下手くそな……洗濯板の音を……立ててくれるの……?」


「……え……?」


「……それは、……私の記録にとって、……取り返しのつかない……欠落だわ……。……勝手に、……私の物語を……終わらせないで……」


 ラピスは震える手でインク瓶を握りしめ、影たちを凝視した。 「……ここは……私の宿……。……私の……『止まり木』……。……泥靴で……踏み荒らすなんて……、……私が……許さない……!」


 その言葉に、うずくまっていたサーヤが、涙を拭って顔を上げた。 ノクスが、凍てつく刀身を構え直し、無言で背中を預ける。  「……ふふ。……皆様、……本当に……馬鹿な人たちですわね……」


 ドラクロワが、左手で涙を拭い、初めて不敵に微笑んだ。  右腕の包帯の下で、紅玉の魔力が、静かに、かつ激しく拍動を始める。


「……いいでしょう。……わたくしたちの『止まり木』を汚した無礼、……高くつきますわよ!」


 ――朝焼けを待たず、ミストラルの街の一部が、鮮血色の光に飲み込まれた。

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