Record: 40『一輪の花』
ミストラルの中央市場は、腐敗した霧を押し返すような人々の熱気と、焦げた肉の匂いで満ちていた。 人混みの中を、一分の隙もない足取りで突き進むのはルナリスだ。彼女の手には、旅に必要な物資を記した『効率的調達リスト』が握られている。
「……いい、ルルナ。この街の商人は、客の同情を餌にするハイエナよ。一銭でも安く、一グラムでも軽いものを選びなさい。情に流されて言い値で買うなんて、自分の生存確率をドブに捨てるのと同じだわ」
「……はい、ルナリスさん」
ルルナはその後ろを、重そうな荷袋を背負いながらも、どこか楽しげに付いていく。 ルナリスの交渉は苛烈だった。腐りかけの薬草を見逃さず、店主の嘘を鑑定眼で叩き斬り、冷徹に値を削り取る。彼女の「理性という名の天秤」は、常に冷たい実利の方へと傾き続けていた。
買い出しの帰り道、街の外れ。瓦礫の隙間の、光も届かない湿った路地の片隅に、一輪の花がひっそりと咲いていた。
「……何をしているの。行くわよ、時間の無駄だわ」
「……ルナリスさん。見てください。……こんなに冷たくて、暗い場所でも、この子は一生懸命、自分を咲かせようとしています」
ルルナが跪き、泥に汚れながらもその花を慈しむように見つめる。 ルナリスは鼻で笑い、手帳に「時間的損失:3分」と書き込んだ。
「……ふん。そんな花、一銭の価値もないわ。薬の材料にもならなければ、腹を満たすこともできない。持って歩くだけ機動力の無駄よ。……世界を『意味のあるもの』だけで構成しなさい、聖女様」
「……価値がなくても、……綺麗だと思える心まで、切り捨てなくてもいいんですよ。……ルナリスさん」
ルルナはそう言うと、そっとその花を摘み取り、ルナリスへと歩み寄った。 そして、驚いて身を引こうとするルナリスの手首を、逃がさないように——けれど地下室での手当てと同じくらい優しく——掴み、彼女の銀髪にその花を挿した。
「……なっ、……何を……!!」
「……ルナリスさんの瞳と同じ色です。……とっても、お似合いですよ」
トパーズ色の瞳が、驚愕で大きく揺れる。 ルナリスは反射的に花を毟り取ろうとした。けれど、ルルナの翠玉の瞳があまりに真っ直ぐで、そして先ほど塗り込んだばかりの薬の匂いが、自分の指先からルルナの肌へと移っていることに気づき、腕を止めた。
「……ったく、変な色ね。私の計算を狂わせないでちょうだい」
ルナリスはわざとらしく乱暴に足音を立てて歩き出した。 けれど、その歩幅は、ルルナの重い荷物を気遣うように、心なしか緩やかになっている。
『氷晶の止まり木』の重い扉を開けると、カウンターの奥でラピスが日記を閉じた。 彼女は、怒ったように頬を染めたルナリスの髪に揺れる「無価値な黄色」を、サファイア色の瞳でじっと見つめる。
「……あら。……(ふぅ……)。……ルナリス。……貴女の天秤に、……分類できない……重りが、……載ったみたいね……」
「……黙りなさい、店主! これはただの、……移動中に付着した、不可抗力の汚染よ!」
ルナリスは叫ぶように言い捨てて、地下室へと駆け下りていった。 その背中を見送って、ラピスは日記の隅に、小さな花の押し花を添えるようにペンを走らせる。
「……○月○日。……記録。……合理主義者の髪に、……一輪の祈り。……氷晶の壁が、……また一枚……、……溶けて落ちた……」
ルルナは、そんなラピスにぺこりと一礼し、温かなキッチンへと向かった。 彼女の天秤の皿には、もう「孤独」という重りは載っていなかった。




