Record: 39『翠玉の処方箋』
宿の地下室。そこは地上の『止まり木』の温もりさえ届かない、硝子瓶と乾燥薬草の匂いが支配するルナリスの領域だった。 階段を降りてきたルルナは、冷え切った空気の中で、自分の袖をきつく握りしめていた。
「……あら。聖女様がこんな奈落に何の用かしら? ここには貴女の好きな『奇跡』も『救い』も在庫切れよ」
ルナリスは、トパーズのように鋭い瞳を顕微鏡から離さず、吐き捨てるように言った。彼女にとって、無償の愛を説くルルナのような存在は、世界を動かす「等価交換」の法則を乱すバグに他ならない。
「……ルナリスさん。……これの……抑え方を、教えていただけませんか」
ルルナが、震える右手をおずおずと差し出す。 その白く細い指先は、戦いの中で誰かの痛みを吸い取った反動か、赤黒く腫れ上がり、皮膚の下で嫌な拍動を繰り返していた。
「……っ」 ルナリスは反射的に椅子を蹴るように立ち上がり、ルルナの手首を乱暴に掴み上げた。
「……見なさい。血管が汚染の残滓で悲鳴を上げているわ。……馬鹿ね。他人の毒を自分の器に流し込むなんて、効率が悪すぎて反吐が出る。……いい、ルルナ。貴女が壊れたら、誰が私の実験体を繋ぎ止めるの? それは、私の人生設計における致命的な計算ミスよ」
ルナリスは毒づきながらも、棚の奥から厳重に封印された小瓶を取り出した。中には、彼女が自らの血液を触媒にして精製した、激痛を伴うが即効性のある『沈殿する沈黙』。
「……少し、……痛みますか?」
「……痛む? 冗談はやめて。神経を直接焼き切るような衝撃よ。……当然の報いだと思いなさい、身の程知らずの聖女様」
ルナリスは、ルルナの腫れた指先に、粘り気のある黒い薬液を塗り広げていく。 瞬間、ルルナの顔が苦痛に歪み、小さな悲鳴が漏れそうになる。だが、ルナリスはその手を離さず、むしろ逃がさないように強く握り締めた。
「……(ふぅ……)。……ルナリスさん。……怒っているのに、……貴女の手、……とっても温かいです……」
「……黙りなさい。……これはただの、機材のメンテナンス。……貴女が明日、動かなくなったら、私が一人で荷物を運ぶ羽目になる。……その労力を、今この瞬間に支払っているだけよ」
ルナリスは視線を合わせない。けれど、彼女が塗り込む薬の熱は、ルルナの指先からゆっくりと毒を押し流し、代わりに「自分自身を生かそうとする執着」を注ぎ込んでいく。
「……いい? 出発したら、貴女の体は私の所有物だと思いなさい。……勝手に誰かのために使い潰すことは、私の所有権を侵害する契約違反よ。……次はないわ、ルルナ・エクリア」
「……はい。……ありがとうございます、ルナリスさん」
地下室の薄暗い灯りの中、ルナリスは不機嫌そうに鼻を鳴らし、再び顕微鏡へと顔を戻した。 翠玉の瞳に浮かんだ安堵の涙を、見なかったことにするために。




