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300年後も鐘の音を  作者: 琥珀 のえる
第1部:氷晶の宿と泥だらけの太陽

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Record: 37『粉まみれのお姫様と、氷の指先』

 (……ふぅ……。 ……粉の舞う音。 ……私の……静かなキッチンが、……知らないうちに……、……賑やかなの嵐に……呑み込まれてしまったわ。……熱すぎるのは……苦手だけれど。……あの子たちが……作る……白い夢の……輪郭を、……私も……少しだけ……なぞってみたくなったの。……ふぅ……)


 ミストラルの中央広場は、朝から人々の叫び声と、荷馬車の車輪が石畳を削る音で満ちていた。 店主ラピスは、いつものように白い吐息をこぼしながら、サーヤの三歩後ろを静かに歩いていた。

 

「ほら、ラピスさん! あそこの店、今日は新鮮なベリーが並んでますよ! それに、あっちの高級食材店……見てください!」


 サーヤが指差したのは、霧の中でも一際明るいランプを灯した、門構えの立派な店だった。 ショーケースの隅に置かれた小さな瓶。その中に閉じ込められた黄金色の輝きに、サーヤは吸い寄せられるように足を止めた。


「……これ、……ミモザの蜂蜜……。ミストラルでも採れるんだ……」


 サーヤの瞳に、ほんの一瞬だけ、燃える村の残像ではない「春のノネット」の記憶がよぎる。かつておじさんの店で、春の訪れと共にテーブルに並んでいた、あの優しい甘さ。


「……あら。……(ふぅ……)。……贅沢な……記録ね。……それは、……この街の……貴族が……好むものよ……」


「わかってます。引くに引けない理由があるんです。……どうしても……みんなに食べさせたいんです」

 

 サーヤはエプロンのポケットを握りしめ、店主と交渉を始めた。 ギルドでもらったわずかな報酬と、これからの掃除の手伝いを条件に。かつての看板娘時代に培った、相手の懐に飛び込む「甘え方」と「粘り強さ」。ラピスはその様子を、小さな付箋に書き留めた。

 

 ――『市場の喧騒。サーヤの執着が、強欲な店主の天秤を少しだけ狂わせた。』


 宿に戻ったサーヤは、すぐにエプロンを締め直すと、キッチンに「招かれざる(けれど歓迎される)助手たち」を呼び寄せた。

 

「ドラ子ちゃん、ルルちゃん! それから……ラピスさんも、手伝ってください!」

 

「……あら。……(ふぅ……)。……私は……、……冷たい……置物で……十分よ……」

 

 カウンターから顔を出したラピスは、白い吐息をこぼして固辞した。けれど、サーヤの「太陽のような強引さ」には、氷の店主も敵わない。

 気づけばラピスは、サファイア色の瞳を瞬かせながら、粉の舞うテーブルの前に立たされていた。


「いいですか? ドラ子ちゃんは生地を丸める係。ルルちゃんは捏ねる係。そしてラピスさんは……『生地を冷やす係』です!」


 サーヤの指示が飛ぶ。


 「……わたくしが、……料理を? ふん、王家であるこのわたくしに、粉まみれになれとおっしゃるの?……それに、わたくしは……こんな事したくありませんわ」


 口では文句を言いながらも、ドラクロワは不自由な右手で布を押さえ、左手だけを使って生地を「野うさぎの尻尾」のような完璧な球体へと整えていく。その横で、ルルナが翠玉の生命力を込めるように、丁寧に生地を捏ね上げていく。


 そこへ、ラピスが音もなく冷たい指先を差し出した。


 「……ここを、……冷やせば……いいのかしら……」


 ラピスがボウルの底に触れると、微かな霜が降り、生地の中のバターが理想的な温度で固まっていく。サーヤが目指す「外はサクッと、中はふわふわ」な食感には、ラピスの絶対的な冷気が必要不可欠だったのだ。 

 

「……あら……。……生地が、……私の指先を……押し返してくるわ……。……これは、……生きている……記録ね……」

 

 ラピスは不思議そうに、けれど慈しむように、自分の冷たさが生地の「熱」と混ざり合う感触を味わっていた。

 オーブンから漂ってきたのは、宿全体を包み込むような、優しく甘い香りだった。


「……できました! 『しっぽパンのハニーディップ』です!」


 テーブルに並べられたのは、四人の共同作業が生んだ、真っ白なちぎりパン。 そこに、ミストラルの市場で勝ち取ったミモザの蜂蜜をたっぷりと添えて。


「……ふぅ。……これは、……記録にない……多層的な……温度……」

 

 ラピスが一口、蜂蜜をつけたパンを頬張ると、彼女の白い吐息がわずかに震えた。

  

「あったかいでしょう? ラピスさん。……ラピスさんの『冷たさ』があったから、こんなにふわふわになったんですよ」

 

 サーヤの言葉に、ラピスはサファイア色の文字を、一枚の付箋に刻んだ。 そして、それをパンの籠にそっと貼り付ける。

 

 ――『中身:四人の、陽だまりの記憶。 備考:冷める前に、分け合うこと。』

 

 サーヤは残りのパンをバスケットに詰め込み、中庭へと駆け出した。そこでは午後の日差しを浴びながら、ノクスが静かに刀の調子を確かめていた。 

「師匠! 休憩です! これ、ドラ子ちゃんとルルちゃんと、あとラピスさんも一緒に作ったんですよ!」

 

 ノクスは手を止め、無機質な視線を白いパンへと向けた。

 「……店主も、か。……甘味は機能的ではない。……だが、……」


 ノクスはぶっきらぼうに一つ摘み上げると、蜂蜜を絡めて口に運んだ。

「……悪くない。……次の哨戒のための、……効率的な灯火だ」


 次に地下室。薬品の匂いが立ち込めるルナリスの領域。「ルナリスさん! 『しっぽパンのハニーディップ』持ってきました!」


 ルナリスはレンズから目を離さず毒づいたが、一口食べるとトパーズ色の瞳を止めた。「……ハッ。……バカね。……こんなに……甘い薬、……私の処方箋には……存在しないわよ……」そう言いながらも、彼女はもう一つのパンへと手を伸ばしていた。

 

『……○月○日。……粉まみれのお姫様たち。 ……白い、……四人の……温度が混ざり合ったパン。 ……私の……冷たい指先が、 ……あの子たちの……陽だまりの夢を……、……少しだけ……助けたみたい。……おやすみなさい、……賑やかで……、……愛おしい……家族たち。……明日の朝、……私が……すべての色を……忘れてしまっても。……この……甘い残り香と……、……指先に残った……生地の弾力だけは。……私の……日記の……、……一番……深い場所に……大切に……凍らせて……おきましょう……』

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