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300年後も鐘の音を  作者: 琥珀 のえる
第1部:氷晶の宿と泥だらけの太陽

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Record: 2『さよなら、ひだまり(後半)』

 丘の頂上。そこから見下ろしたノネットは、墨をぶちまけたような灰色に沈んでいた。 いつもなら何十本と立ち上るはずの、晩ごはんの支度を告げる暖かな「煙」が、一本も見当たらない。風に乗って聞こえてくるはずの氷の風鈴の音も、家畜の鳴き声も、笑い声も――。  ただ、耳が痛くなるほどのしずけさだけが、冷たく丘を這い上がってきた。


「……うそ、でしょ……? みんな、隠れるのが上手なんだから……出てきてよ」


 必死に自分に言い聞かせながら、荷車を引き、村へと駆け下りた。  だが、村の広場に入った彼女の足を止めたのは、甘ったるく重い「膿と血の匂い」だった。


「……あ……」


 道端に、旅立つ朝、あんなに元気に手を振ってくれた、近所のおじいさんが倒れていた。  恐る恐る触れたその肌は、まだほんのりと、生ぬるい熱を持っていた。  直後、指先に走った嫌な冷たさに、弾かれたように手を引いた。

 荷車の上のミルクや卵は、まだ何一つ傷んでいない。それなのに、村の人々は、ミルクが冷めるよりも早く「何か」に変質させられている。

 

「いや……いやあああ!!」


 もつれる足で『野うさぎの尻尾亭』へと走り、扉をこじ開けた。  厨房の暖簾をくぐると、そこには調理服を着たまま横たわる、あの広い背中があった。 

 

「おじさん……買ってきたよ。レモン、すごくいい匂いだよ……?」


 震える手でおじさんの肩に触れる。だが、その背中はかつて感じたどの料理よりも冷たく、無機質な石の感触だった。  指が触れた途端。 支えを失った調理服が、バサリと力なく床へ落ちた。 中身の肉体だけが、音もなく黒い砂となって、厨房の床にサラサラと広がっていく。

 

 ――私は、何をしていたんだろう。

 みんなが砂に変わっていく間、私は街で、可愛いリボンを眺めていた。  みんなが声を失っていく間、私は道端のウサギを見て、鼻歌を歌っていた。


「たまたまその場にいなかった」という残酷な幸運が、肺から空気を奪う。  泣き叫ぶ暇さえ与えず、外から無機質な軍靴の音が石畳を叩いた。

 

「——生存者はいないか。……構わん、すべてだ。速やかに『焼却』を開始せよ」

 

 冷徹な号令。その声が響いた瞬間、瞳の中でスピネルが火花を散らす。  震える手でおじさんの「灰」を小瓶に詰め、腰のベルトに薪割り用の古い手斧を押し込む。  窓の隙間から見えた、踏み込む兵士の膝の揺れ、槍を構える肘の角度。

  

 頭で考えるより先に、数時間前に見た野兎の「バネ」が、彼女の脚に宿った。 (あの時、盗んでおいてよかったなんて、思いたくもないのに。)

 裏口を蹴り破り、低く、地を這うように疾走した。


「いたぞ! 生存者だ、逃がすな!」


 放たれた矢が肩をかすめ、エプロンの紐を引きちぎる。  鋭い痛み。けれど、今の彼女は誰よりも速かった。酔っ払いの千鳥足をかわすように重心を沈め、槍の穂先を紙一重で潜り抜ける。


 背後で、自分を育ててくれた『野うさぎの尻尾亭』が、猛烈な炎に包まれる音がした。 氷の風鈴が熱で割れ、旅立つ朝に祈りを込めて磨いた看板の鈴が、炎に溶けて落ちる音。――大好きだった日々の音が、一つずつ壊れていく。


 一度も、振り返らなかった。


 溢れ出した涙が、激しい疾走の風に煽られて、視界をぐにゃりと歪ませる。 ぼやけていく景色。 何も見えない。 けれど、足だけは止まらなかった。 おじさんに「迷子になるな」と言われたこの道が、今は涙の膜の向こうで、白く、遠い絶望へと続いている。


「……っ、……さよなら。私の、ひだまり……」


 噛み締めた唇から血の味がした。 胸元の瓶に詰まった、まだ生温かい「砂」の重みを壊れ物のように抱きしめて。 彼女は二度と戻れない温もりを背に、漆黒の森へと消えていった。

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