Record: 34 『ひび割れた鼓動』
「……木々が、息を止めています。何か、とても冷たいものが来ます」
ルルナの震える一言を合図に、牧場の平穏は崩壊した。 ドサリ、という重い音と共に、納屋の屋根を突き破って黒い粘液を滴らせた『魔鳥』が舞い降りる。空からは黒い雲のように群れるカラスが急降下し、地からは汚染の粘液を滴らせた野犬の群れが、琥珀色の瞳を不気味に発光させて五人を取り囲んだ。
「チッ、数が多いわね。……ドラ子、左の群れを火の壁で分断しなさい! 小娘、ルルナの背後は任せたわよ!」 ルナリスの鋭い指示が飛ぶ。彼女は懐の薬瓶に指をかけつつ、トパーズ色の瞳で全滅の計算を回避するための最適解を冷徹に弾き出し続けていた。
「わかっておりますわ!」 ドラクロワが家畜を巻き込まぬよう繊細な火の粉を操り、野犬の足を止める。そこへ、汚染された一匹がルルナの喉元へ跳んだ。
「させないよっ!!」 サーヤが泥を蹴る。ノクスから盗み見た『処刑者の間合い』——それを彼女は「重心の崩し」へと繋げ、樫の木の棒に体重をを乗せた横一文字で野犬を叩き伏せた。
「……足元を掬われるなよ。……これの相手は、私が引き受ける」
ノクスが、魔鳥の狂乱の爪を正面から受け止め、凄まじい火花が散る。 魔鳥の巨体が生む圧倒的な質量と、それを一振りの刀で支える。その余波で吹き荒れる突風を、残りの四人が必死に、泥を噛みながら支える死闘が続く。
「……うっ、……ぅ……っ」
ルルナは胸を押さえ、膝をつきそうになる。倒れゆく魔物たちの断末魔が、共鳴を通じて彼女の神経を焼き、体力を削り取っていた。だが、彼女がここで意識を手放せば、パーティの『感覚』は失われる。ルルナは奥歯を噛み締め、翠玉の瞳を激しく明滅させた。
汚染された魔鳥の生命力は凄まじく、ノクスの一撃を強引に弾き飛ばすと、再び空へと逃れようとした。
「逃がさないよっ!!」
サーヤが棍棒を放り出し、懐からスリングショットを抜き放つ。 狙うは、ギルドの訓練所で何度も的に当て、そして一度だけノクスが見せた「急所を正確に穿つ」軌道の模倣。 呼吸を止め、網膜に焼き付いた師匠の合理的な動きを、看板娘としての反射神経で無理やりなぞる。
ビュッ、という鋭い風切り音。放たれた石礫が、魔鳥の傷ついた翼の付け根――最も脆い一点を強打した。
「ギガァッ……!」
一瞬の硬直。空中で体勢を崩した「王」の懐へ、ノクスの白刃が迷いなく吸い込まれた。 重い切断音。喉元を貫かれた巨体が、地響きを立てて泥の上に沈む。 王が沈むと同時に、操られていた魔物たちも糸が切れたように動かなくなった。
静寂が戻った牧場。 荒い息をつきながら、ルルナが魔鳥の遺骸の奥へと吸い寄せられるように歩み寄った。家畜小屋の隅、汚れた藁の山に隠されていたのは、ひび割れだらけの、たった一つの大きな卵だった。
ルルナがその表面にそっと掌を当てると、翠玉の瞳から静かに涙が溢れ出した。その耳からは、過負荷に耐えた証の細い血が、一筋だけ伝い落ちている。
「……ドラクロワ様。この子、泣いています。冷たくて、暗い場所で、たったひとりで……。まるで、私たちみたいに」
ルルナの指先から、親鳥の最後の一欠片の意識が流れ込んでくる。狂気の中で唯一守り抜こうとした、親としての祈り。
「……でも、最後は笑っていました。……自分がいなくなっても、この命だけは繋がると信じて。……絶望だけじゃ、なかったんです」
ルルナは、壊れ物を扱うようにその卵を拾い上げ、胸に抱いた。 かつて自分たちだけで生き残り、罪悪感に震えていたあの夜の自分を、今、この卵の中に抱きしめているような感覚。
「……私、やっぱり重荷でしかなくて……。戦いも、魔法も、皆さんみたいには……」
ノクスは、ゆっくりとルルナの前に跪いた。彼女は、血に汚れた手で、ルルナが抱く卵の微かな『ひび』に触れた。「……お前にしか聞こえない声が我々を導いた。……機能不全なのは、我々の耳の方だ」
そして、傍らで泥だらけになって棍棒を杖にするサーヤへと視線を移した。「……その足、泥に負けていなかったな。……悪くない、サーヤ」
初めて呼ばれた、名前。 サーヤは驚きに目を見開き、それから顔中の泥を拭いもせず、太陽のように笑った。
「……っ、はい! ししょー!!」
その光景を、ドラクロワが少しだけ、眩しすぎるものを見るように見つめていた。




