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300年後も鐘の音を  作者: 琥珀 のえる
第1部:氷晶の宿と泥だらけの太陽

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36/51

Record: 32『無垢な黒』

 朝のミストラルは、夜の重苦しい霧を飲み込むように白く輝いていた。 『氷晶の止まり木』のキッチンでは、サーヤが鼻歌混じりに昨日の「戦利品」であるジャガイモを刻んでいる。トントン、という規則正しい音が、宿の静寂を心地よく汚していた。


「師匠、見てください! このジャガイモ、中まで真っ白。……あ、ルナリスさんも。おはようございます」

 

 カウンターで不機嫌そうに薬湯を啜っていたノクスが、わずかに眉を動かす。 そこへ、地下室での徹夜作業を終えたルナリスが、深い隈を作ったトパーズ色の瞳で現れた。


 「……騒々しいわね。包丁の音なんて、計算を乱すノイズでしかないわ」

 

「あはは、お疲れ様です。……そういえば、ルルちゃんたちと合流する前に、私の村の近くで拾った『綺麗な石』があるんです」


 サーヤはふと思い出したように、エプロンのポケットの奥から、布に包まれた小さな塊を取り出した。


「おじさんに見せようと思ってたんですけど、結局渡せずじまいで。……これ、普通の石じゃないですよね?」


 サーヤがカウンターの上にコトン、と置いたのは、あの小川で拾った「黒い破片」だった。


「……っ!?」


 その瞬間、ルナリスのトパーズ色の瞳が、昨日とは比較にならないほどの黄金の輝きを放った。 彼女は差し出された破片を、奪い取るようにして手に取る。


「……待ちなさい。これ、どこで拾ったと言ったの」


 ルナリスの声から、いつもの毒舌が消えていた。 代わりにそこにあるのは、剥き出しの戦慄だ。


「……え? あ、ノネット村の近くの川です。……お魚が石みたいに固まって浮いてて、その近くに落ちてて……」


 ルナリスは、ピンセットでその破片を極限まで目に近づける。 彼女の視界の中で、その破片は「構造」を持っていなかった。

 ――『純度:計測不能。配列:完全。指向性:侵食』。


 それは、彼女が昨夜分析していた「影狼の残滓」のような、劣化し混じり合った不純物ではない。 まるで、生命の息の根を止めるためだけに一分の狂いもなく設計された、最も純粋で、最も無垢な「死の雛形」。


「……ありえないわ。こんなものが自然界に……いいえ、人為的だとしても、この精度は……」


 ルナリスの指先が、目に見えて震え始める。 彼女が昨日語った「意志」が、想像を絶する巨大な規模で、この少女の故郷を塗り潰したのだという事実が、数値として突きつけられていた。


「これ、……そんなに悪いものなんですか?」


 サーヤの無垢な問い。 ルナリスは答える代わりに、その破片を乱暴に布で包み直し、自らの懐へと押し込んだ。


「……バグだわ。……最悪の、……たちの悪いバグよ。……いい、サーヤ。これは私が預かるわ。……二度と、誰にも見せるんじゃないわよ」


 ルナリスはそう吐き捨てると、朝食も摂らずに再び地下室へと逃げるように戻っていった。 残されたサーヤは、ただ呆然と、自分の手のひらに残った冷たい感触をなぞることしかできなかった。


 カウンターの奥。 ラピスは、サファイア色のペンを走らせることも忘れ、地下室へ続く階段を見つめていた。


「……ふぅ……。 ……無垢なものほど、……その裏側にある……悪意は、……鮮烈に……浮き彫りになる。 ……あの子が……『宝物』のように持っていた……その黒い欠片は……、 ……いつか……、……この宿の……すべての体温を……奪い去ってしまうのかしら……。 ……○月○日。……記録。 ……朝の光が、……ひどく……冷たいわね……」

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