Record: 31『碧と黄玉の境界線』
深夜。宿屋『氷晶の止まり木』は、月光と紫色の残り火に二分されていた。カウンターの片隅、薬液を揺らすルナリスと日記を綴るラピス。少女たちが来るずっと前からの、この宿の「定位置」だ。
「相変わらず、墓場より静かだわね、この宿は」
ルナリスが、結露したフラスコを指先で弾いた。カチン、という硬い音が静寂に波紋を広げる。
「客も来ない。暖炉を焚いても吐息が白くなる。合理的に言えば、ここは宿屋の形をしたただの巨大な冷蔵庫よ。閑古鳥すら凍え死んで寄り付かないわ」
「……あら。……賑やかな……不満ね。……貴女が……地下室に……居着いてから、……もう……何度目の……冬かしら……」
ラピスは万年筆を置き、ゆっくりと白い吐息をこぼした。彼女のサファイア色の瞳は、遠慮のない温度をルナリスに向けていた。
「……貴女だって、……その『冷蔵庫』が……都合がいいから……ここにいるのでしょう? ……私の記憶が……霧散するのと、……貴女の……猛毒が……中和されるのを、……天秤にかけながら……」
「ケッ。記憶のない女に、余計なことまで覚えられているのは不快だわ」
ルナリスはレンズ越しに、ピンセットで挟んだ小さな「黒い破片」を凝視した。それはかつての戦場で彼女が拾い上げた、結晶化の成れの果てだ。
「……やっぱりね。浸食の速度が上がっているわ。計算式が、目に見えて崩れていく。店主さん。貴女の宿がこれほど冷えきっているのは、私の毒を安定させるためだけじゃない。……この『石の病』の進行を、わずかでも遅らせるため。違うかしら?」
「……あら。……気づいて……いたのね……。貴女なら……、……もっと早く……指摘すると……思っていたけれど……」
「余計な確認は時間の無駄よ。世間の連中はこの現象を『風土病』だの『神の罰』だのと呼んで恐れているけれど……バカバカしい。この結晶の配列、あまりにも『正しすぎる』のよ。自然界にこれほど整然とした死のアルゴリズムが存在するわけがない。……これには、明確な『意志』が介在しているわ」
ルナリスのトパーズ色の瞳が、不自然なほどの黄金の輝きを放ち始める。物質の弱点、仕掛けられた罠、血液の純度、および肉体の限界点。すべてを冷徹な数値へと置き換えるその鋭い視線がラピスに向けられるが、返ってくるのは演算エラーのノイズだけだった。
「貴女だけはやっぱり何も見えないわ。不愉快なほどに真っ白。エラーしか吐かない存在なんて、バグ以外の何物でもないわね」
「……ええ。……だから、……貴女は……安心できるのでしょう……? ……すべてが……数値化されて、……結末まで……見えてしまう世界で……。唯一……計算を裏切る……『空白』があることが……」
「……黙りなさい。お湯を足しただけの紅茶が、また冷めるわよ」
ルナリスは白湯のような紅茶を一気に飲み干した。あの子たちが来る前の、毒の匂いとインクの匂い、そして「石化」という名の人為的な静寂に抗うための冷たい共謀。
「あの子たちが来てから、計算が狂いっぱなしよ。本当なら、石化したドラゴニュートも腕の腐った王女も、効率的に処理すべきサンプルに過ぎなかったのに」
ラピスは再びペンを執り、ルナリスの苛立ちをなぞるように日記を書き進める。
「……計算が……合わなくても、……いいのよ。……貴女の……夕焼け色の瞳が、……以前より……わずかに……熱を帯びているのを、……私は……『記録』したわ……」
「黙りなさい。次に余計なラベルを貼ったら、貴女のインクを劇物に変えてやるわよ」
ルナリスは乱暴に立ち上がったが、その足取りは地下室へ戻るのを惜しむように、わずかに緩やかだった。
――『○月○日。……黄玉の熱。……誰かの居場所を……守るために……震える、……毒の手。……その……毒を、……誰よりも……嫌っているのは……貴女……自身なのね……。……ふぅ……。 ……いつか……貴女が、……その……計算を……間違えて……、……泣いて……くれるのを……待っているわ……、……凍える宿の……唯一の、……共犯者さん……』




