Record: 28『地下聖堂の落涙』
ミストラルの冬は、石造りの宿の芯まで凍えさせる。 この宿の暖かさを支えているのは、石壁に自生する『燃える苔』だ。だが、例年以上の酷寒に苔は輝きを失い、今にも立ち枯れようとしていた。
「……ドラ子。……ギルドの掲示板に、丁度いい依頼が出ていたわ。……地下聖堂に眠る『ヒート・ガーネット』の回収。……それがあれば苔は息を吹き返す。……あの子たちを、冷やさないであげて……」
店主ラピスの言葉に、ドラクロワは「お任せなさい!」と勢いよく立ち上がった。だが、現実は厳しかった。
「ごめんね、ドラ子ちゃん。今日、下の街の酒場でバイトなんだ……」 エプロンを締めるサーヤに断られ、ルルナも薬草採取の護衛で不在。 「どうかご無理をなさらずに……。これ、少ないですが回復のポーションです。……お守り代わりに」 ルルナが手渡してくれた小瓶を左手で受け取り、ドラクロワは空元気で送り出した。「心配いりませんわ。わたくしが、とびきり熱い石を持ち帰って差し上げますから!」
残るは一人だけ。ドラクロワは宿の二階、最も奥にある部屋の前に立ち、意を決して扉を叩いた。 「……。あの……。ノクス、起きていらして?」 返事はない。だが、扉越しに事情を早口で伝えた。「……ですので、……その、もしお暇でしたら、警護をお願いしたく……」 長い沈黙。諦めて立ち去ろうとしたその時、扉が開いた。漆黒の外套を纏ったノクスが、不機嫌そうに立っている。 「……足手まといになるなよ。亡国の雛」
その一言で、奇妙な二人旅が始まった。出発前、ルナリスが毒づくように言った。 「いい、ドラ子。マジックトーチで石を刺激しなさい。共鳴で隠れた熱源が見つかるはずよ。……無事に帰ってきたら、最高の暖房システムを組んであげるから」
「わかっておりますわ。……皆、待っていてください!」
そうして今、彼女は廃教会の地下、死の匂いが立ち込める聖堂に立っていた。 左手一本で掲げた細剣の切っ先が、銀色の小さな火を灯している。「……足元を照らせ。無駄口を叩く余裕はないぞ」 前を行くノクスの声は、どこまでも冷たい。ドラクロワが剣に魔力を込め、灯火を強く輝かせると、闇の奥から拍動が聞こえ始め、点在する石が深紅に輝き出した。
「見つけましたわ! あれが『ヒート・ガーネット』……!」 はしゃぐドラクロワ。だが、その歓喜は一瞬で氷結した。 赤い輝きに引き寄せられたのは、教会の瓦礫を鎧のように纏った多脚の魔物だった。
「っ、ノクス、来ますわ!」 反射的に剣を構え直そうとした瞬間、魔物の咆哮が細剣を直撃し、切っ先の銀火が揺らぎ、消えかけた。
「ああっ……!? 視界が……!」 完全なる暗転への恐怖。その瞬間、背後から死神のような声が響いた。
「……下がっていろ。標的は見えている」
ノクスが、漆黒の外套をわずかに揺らし、鞘に収まったままの刀の柄に指を添える。 「……無駄だ。そこからは逃れられない。――『エナジー・ブラスト』」
刹那、闇が死に、白銀の世界が生まれた。 放たれたのは、爆発ではない。音もなく空間を直進する、極細の銀色熱線。 それはドラクロワが必死に照らし出していた石の赤を「座標」として喰らい、魔物の眉間を迷いなく貫いた。
魔物は断末魔さえ奪われ、内側から白く灰化していく。 「……っ……、……ぐ、っ……」 直後、ノクスの肩が揺れたが、彼女はそれを微塵も顔に出さず、残光の中に立っていた。
ドラクロワは、立ち尽くした。自分が剣を杖代わりにしてまで維持した「灯り」さえ、ノクスにとっては攻撃の副産物でしかなかった。
「……何をしている。早く石を拾え。……帰るぞ」 「……。……ノクス。貴女、本当は……魔術師としても超一流なのではありませんの?」
絞り出すような問いに、ノクスは振り返りもせず、ただ吐き捨てるように答えた。「……買い被りだ。私は、魔術というやつがあまり好かん」 「……好かない、のですか? これほどまでの力を……」 「ああ。……これは、命の削りカスでしかないからな」
その言葉の真意を、ドラクロワはまだ知らない。 ノクスが奥歯を噛み締めて激痛に耐えていることなど、知る由もない。 「……。……ええ、わかっておりますわ」
ドラクロワは、赤く熱い石を拾い上げた。 手のひらに伝わる熱は、宿の苔を救う命の熱だ。けれど、彼女の目からこぼれ落ちた一滴の涙は、石の熱に触れる前に、冷気の中で凍りついてしまった。
帰り道。二人の間に会話はなく、雪を踏む音だけが規則正しく響く。 ドラクロワは、ふとした拍子に隣を歩くノクスの横顔を盗み見た。自分を圧倒し、冷たく突き放した死神のような女。けれど、その指先がわずかに震え、外套の襟をきつく握り締めていることに気づく。
「……あの、ノクス。やはり魔術の反動が、その、お辛いのでは……?」
恐る恐る尋ねると、ノクスは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……。……ただ、この宿の冬は、思っていたよりもしぶといというだけだ」 「え……?」 「……苔が枯れれば、私の部屋も凍る。……指先が悴んでは、刀の研ぎも疎かになるからな。……付き合ったのは、そのためだ」 (つまり、ノクスも寒かったのですわね……)
ノクスの不器用すぎる言い訳に、ドラクロワは毒気を抜かれたように瞬いた。 圧倒的な魔導の主が、実は「寒いから」という極めて生活感のある理由で同行してくれた。その事実は、打ちのめされたドラクロワの心を、ほんの少しだけ軽くした。
――その夜、宿の暖炉にくべられた石は、かつてないほど鮮やかに『燃える苔』を蘇らせた。賑やかな食卓の輪から少し離れて、ドラクロワは自分の震える左手を見つめていた。
ふと視線を上げると、少し離れた影の中で、ノクスがいつもより深く外套を脱ぎ、蘇った苔の熱を無言で享受しているのが見えた。 その光景に、ドラクロワはほんのわずかだけ、微笑みを零した。




