Record: 27『柘榴石の食卓』
『氷晶の止まり木』のキッチンから、濃厚で芳醇な香りが漂い始めていた。
それは、ただの肉を焼く匂いではない。赤ワインの酸味、炒めた玉ねぎの甘み、そして何種類ものスパイスが複雑に絡み合った、この宿始まって以来の「ご馳走」の香りだった。
「……ふぅ。……今日は、……一段と……匂いが重いわね……」
店主ラピスが、カウンターで頬杖をつきながら、困ったように、けれど少し楽しげに白い吐息をこぼす。 ロビーのテーブルには、すでにその「完成」を待ちわびる三人の姿があった。
「……信じられませんわ。この貧相な宿から、王宮の晩餐会のような香りがするなんて……」
ドラクロワが、ごくりと喉を鳴らす。 その隣で、ルルナも落ち着かない様子でカトラリーを並べ直している。そしてノクスは、壁際で腕を組んでいるものの、その視線は何度もキッチンの方へと彷徨っていた。
「お待たせしましたー! 今夜のメインディッシュです!」
サーヤが、湯気の立つ大鍋を両手で抱えて現れた。テーブルの中央にドン、と置かれた鍋の蓋が開けられる。
――ふわぁっ、と立ち上る真紅の湯気。
その中にあったのは、ごろごろとした肉塊と、赤い根菜がとろとろになるまで煮込まれた、宝石のように艶やかなシチューだった。
「名付けて、『ミストラル牛のガーネット・シチュー』です!」
サーヤが得意げに胸を張る。皿に盛られたシチューは、照明の光を受けて、まさに深紅の柘榴石のように輝いている。
「ガーネット……。ふふ、素敵な名前ですね」
「ええ。……色は合格ですわ。問題は味ですけれど」
全員が席につき、手を合わせる。 スプーンでスープと肉を掬い、口へと運ぶ。
――静寂。
次の瞬間、ドラクロワの瞳が大きく見開かれた。 口の中でホロホロと崩れる肉の繊維。濃厚な脂の甘みを、赤ワインの酸味が上品に引き締め、後からスパイスの香りが鼻に抜ける。
「……っ!?」
「……美味しい……! サーヤちゃん、これ、凄いです……!」
ルルナが頬を赤らめて感嘆の声を上げる。ノクスは無言のまま、猛烈な勢いでスプーンを動かし始めた。そのペース配分は、明らかに「おかわり」を計算に入れたものだ。
「……ふん。廃棄処分の肉にしては、悪くない処理だ」
「えへへ、でしょう? 師匠がくれたお肉が最高だったから、私、頑張って煮込んじゃいました!」
そこへ、地下室からルナリスがふらりと現れた。
「……何よ、この匂い。換気扇が壊れたのかと思ったわ」
毒づきながらも、自分の席に用意されたシチューを見ると、彼女は鼻をひくつかせた。
「……成分分析。タンパク質、脂質、ビタミン根菜……。……悔しいけど、栄養価のバランスだけは完璧ね」
「あ、ルナリスさん! 『はねうさぎのピリ辛フリット』もありますよ! お酒に合うように、スパイス強めにしておきました!」
サーヤが追加で出した小皿には、カリッと揚がった一口サイズの肉料理。それを見たルナリスは、観念したように肩をすくめ、とっておきの葡萄酒の瓶を開けた。
「……仕方ないわね。今日のところは、このカロリー爆弾に屈してあげるわ」
カチャカチャと、食器が触れ合う音。
「おかわり!」「わたくしもですわ!」「私がよそいますね」「……おい小娘、私の分が少ないぞ」
外は冷たい霧に包まれた夜。
けれど、この深紅のシチューを囲むテーブルだけは、世界のどこよりも鮮やかで、温かい「赤」に満たされていた。
カウンターの奥。
ラピスは、自分用に小皿に取り分けられた「ガーネット」色の液体を、静かに見つめていた。
「……ガーネット。……『真実』と『情熱』、そして……「友愛」の石……。……あの子たちの血の色に……よく似ているわね……」
彼女は一口、その熱を喉に流し込むと、日記の余白にサファイア色のインクで短く記した。
――『○月○日。……赤いシチュー。……それは、……凍えた身体を内側から溶かす……魔法のような、……命の味……』




