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300年後も鐘の音を  作者: 琥珀 のえる
第1部:氷晶の宿と泥だらけの太陽

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Record: 26『狩りと哨戒』

 丑三つ時。霧の都ミストラルは、白い闇に沈んでいる。 表通りのガス灯も消え、まともな神経を持つ市民なら決して出歩かない時間帯。 その暗がりから、濡れた雑巾を絞るような、湿った音が響いてきた。


「……ギ、ギギ……ッ」


 路地裏。 徘徊していたのは、かつて『影狼シャドウ・ウルフ』と呼ばれていたであろうナニカだった。毛皮の所々が融解し、露出した筋肉からは黒いタールのような粘液が滴り落ちている。眼球があるはずの場所には、琥珀色の結晶が乱雑に突き出し、痙攣するように明滅していた。


 それは、獲物を探しているのではない。 自身の存在を維持するために、手当たり次第に有機物を求めて彷徨う「動く汚染源」だった。


「……三匹目」


 影の中から、冷徹な声が降る。 異形の獣が反応し、顎を外して飛びかかろうとした――その刹那。


 ヒュッ。


 風を切る音さえ置き去りにする一閃。 獣の首が、半回転して石畳に落ちた。 遅れて胴体が崩れ落ちるが、そこから鮮血は噴き出さない。代わりに、断面から灰のような粒子が舞い上がり、霧の中に溶けていった。


 影の中に立つのは、漆黒の外套を纏ったノクスだ。 彼女は刀『黒曜の焦土』を振り抜き、刀身に付着した穢れを払い落とす。


(……変異が進んでいる。このエリアの浄化も、時間の問題か)


 彼女の金色の瞳が、冷たく細められる。最近、街の裏側で増えつつある「質の悪い異変」。ノネット村を襲った現象とは異なるが、根源を同じくする不吉な予兆。そして、その異臭に引き寄せられるように入り込む、人間の「ネズミ」たち。


 誰に頼まれたわけでもない。ただ、あの宿の「緩い空気」を守るためには、外壁を固める番犬が必要だという、彼女なりの合理的な判断だった。


「……ふん。仕事は終わりだ」


 ノクスは討伐証明部位(結晶化した牙)を無造作に袋へねじ込むと、ギルドの夜間窓口へと足を向けた。


 夜明け前。ミストラルの朝市に、場違いなほど殺気立った客の姿があった。


「……おい」


 精肉店の店主が、引きつった顔で後ずさる。目の前に立つのは、返り血こそ拭っているものの、全身から隠しきれない「戦場の匂い」を漂わせたドラゴニュートの女だ。


「ひ、ひぃっ! 金ならレジの中に……!」「肉だ」


 ノクスは懐から、討伐報酬の入った革袋を取り出し、カウンターに叩きつけた。そして、ショーケースの中に並ぶ最高級の部位を、切っ先のような鋭い視線で品定めする。


「……一番、脂の乗っているところを寄越せ。筋は取るな。煮込むなら、多少のゼラチン質が必要だ」


「は、はあ……? お、お客さん、詳しいね……?」


 店主は困惑しながらも、言われた通りの特選肉を切り分ける。ノクスはそれを受け取ると、ふと自分の外套の匂いを嗅ぎ、眉をひそめた。


(……鉄の匂いが落ちない。これでは、あの鼻の利く小娘に悟られるか)


 彼女は再び店主を睨みつけると、追加の注文をした。


「……香草ハーブもだ。匂いの強いやつを。……肉の臭み消し用だ、勘違いするな」


 カチャリ。裏口の鍵が開き、冷たい外気と共にノクスが入ってきた。


 宿のキッチンでは、サーヤが早起きしてパン生地を練っていた。小麦粉で白くなった顔で振り返る。


「あ、ししょー! おかえりなさい!」


 ノクスは無言のまま、ズシリと重い革袋をテーブルに置いた。


「……今週分の宿代と、私の食費だ。ラピスに渡しておけ」

「ええっ!? こ、こんなに? 師匠、また夜通し危険な依頼を……」


「散歩のついでだ。……それと」


 ノクスは、懐からもう一つ、油紙に包まれた塊を取り出した。

 それをサーヤの手元へ、放り投げるように渡す。


「……処理しておけ」


 サーヤが包みを開くと、そこに入っていたのは――鮮やかなサシが入った、見たこともないような上質な『霜降り肉』のブロックと、新鮮なローズマリーの束だった。


「えええっ!? こ、これ、ミストラル牛の特選肉じゃないですか! それにこのハーブ……!」


 サーヤは鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ。肉の芳醇な香りとハーブの爽やかさ。けれどその奥に、ほんのわずかに混じる、冷たい夜風と鉄の匂い。


(……師匠。また、私たちの知らないところで……)


 サーヤは一瞬だけ切なげに眉を下げたが、すぐに満面の笑みを浮かべて顔を上げた。

 ここで「怪我はないですか」と聞くのは野暮だ。師匠は、それを隠すために、こんなに高いお肉を買ってきたのだから。


「……了解です! ちょうどシチューにしようと思ってたんです!今夜は、ほっぺたが落ちるようなご馳走にしますから、絶対に残さず食べてくださいね!」


「……ふん。廃棄処分の肉だ。味見程度ならしてやる」


 ノクスは外套を翻し、逃げるように自室へと戻っていった。その背中からは、微かに鉄の匂いと、朝市の活気ある匂いが混ざって漂っていた。


 カウンターの奥。早朝の帳簿をつけていたラピスが、ふぅ、と白い吐息をこぼす。


「……不器用な狼さんね。 ……血の匂いを消すために……わざわざ、市場の肉屋を経由してくるなんて。 ……○月○日。……今夜のシチューは……きっと、……少しだけ塩辛くて……優しい味がするわね……」

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