表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
300年後も鐘の音を  作者: 琥珀 のえる
第1部:氷晶の宿と泥だらけの太陽

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/51

Record: 24『ラベルのない日常』

『氷晶の止まり木』の日常は、およそ「宿屋」とは呼べない奇妙なものだった。


 早朝、店主が白い吐息を吐きながら床を這う霧の量を調整し、ノクスが中庭で音もなく刀を振る。ルナリスは地下室に閉じこもり、時折そこから紫色の怪しい煙が立ち上る。

 そんなバラバラな生活を、サーヤの快活な声が強引に繋ぎ止めていた。


「ドラ子ちゃん! 洗濯板はそんなに力任せに擦っちゃダメですよ。生地が傷んじゃう!」


「……っ、分かっておりますわ! ですが、この汚れ……まるでおじさま達の執着のように、しつこいですのよ!」


 中庭では、ドラクロワが左手一本で洗濯物に苦戦していた。王女としての矜持が、ルルナにすべての家事を任せることを許さなかったのだ。だが、人生で一度も「労働」をしたことがない彼女にとって、石鹸の泡は魔法よりも御しがたい代物だった。


 素振りを終えたノクスが、汗一つかかずにその横を通り過ぎる。


 「……っ、貴女、見ていないで手伝ったらどうなんですの!?」


ドラクロワの悲痛な訴えに、ノクスは足も止めずに冷たく言い放つ。


「……断る。……浮かれた腰つきを直すのが先だ、お姫様」


「……言われなくても分かっておりますわ!」


 ノクスは背を向けたまま、刀を鞘に収める。だが、サーヤが「ししょー、今日のまかない、リクエストあります?」と声をかけると、ぴたりと足を止めた。 「……肉だ。昨日のより、もう少し歯応えのあるやつを」

 

「了解です! 頑張っちゃうぞー!」


 昼下がり、宿のロビー。  ルルナは、店主が「ラベル貼り」を忘れた古い書架の整理を手伝っていた。


「……店主さん。……この本にも、名前を貼っておきますね」


「……ええ。……助かるわ……。……私一人の記憶では、……この宿の……輪郭を……保てないから……」


 店主は、サファイア色の瞳でルルナの働く姿をじっと見つめていた。  彼女の指先が、空中に文字を書くように動く。


「……翠色の、少女。……ルルナ。……貴女の体温は、……不思議ね。……他人の痛みを……吸い取って、……それでも……そんなに……優しく笑えるなんて……」


「……痛いのは、……ひとりぼっちなのが、一番痛いですから……」


 ルルナの言葉に、店主は少しだけ困ったように眉を下げた。  それは彼女の「記録」には存在しない、ラベルの貼れない感情だった。


 夜。キッチンから漂うのは、サーヤが手に入れたスパイスと、ドラクロワが(ボロボロになりながらも)剥いた野菜が煮込まれる音。


「……ねえ、サーヤ。……わたくし、……間違っていないかしら」


 包帯の巻かれた右腕を抱え、ドラクロワが火の粉を見つめて呟く。「こんな場所で、泥にまみれて、……洗濯板と戦って。……わたくしは、……王女として……死ぬべきだったのではないかしら」


 サーヤは鍋をかき混ぜる手を止め、自分の「赤いリボン」を指で弄った。 「ドラ子ちゃん。……おじさんがね、よく言ってたんです。『美味しいものを食べてる間は、人は死ぬことを忘れる』って」


 サーヤは小皿にスープを掬い、ドラクロワの口元へ差し出した。 「王女様かどうかなんて、私には分かりません。……でも、今のドラ子ちゃんが作ったこのスープの具は、とってもいい形に切れてますよ。……それは、生きてないとできないことです」


 ドラクロワは差し出されたスープを、ゆっくりと、味わうように飲み込んだ。 熱い液体が胸の奥に落ち、彼女の瞳から一筋、熱いものが頬を伝った。


 その光景を、ルナリスがドアの隙間から、冷めた目で見つめていた。

  「……ケッ。……バグだらけね。……感情なんて、……計算を狂わせるだけの猛毒なのに……」


 そう言いながらも、ルナリスは手にした盆の上に、全員の体調と種族に合わせた薬湯を並べていた。石鹸負けしたドラクロワの左手のための軟膏。寝不足のルルナへの強壮剤。そして、働きすぎるサーヤのための特別な処方箋。

  「……毒を食らって死なれては、私の計算が合わなくなるだけよ」  誰に言い訳するでもなく呟くと、彼女はわざとらしく乱暴に足音を立てて、賑やかなキッチンへと踏み込んだ。

 

 ――『○月○日。……ラベルのない日常。……けれど……。……あの子たちの……笑い声が……、……氷晶の……冷たい壁を……少しずつ、……削り取っている……』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ