Record: 24『ラベルのない日常』
『氷晶の止まり木』の日常は、およそ「宿屋」とは呼べない奇妙なものだった。
早朝、店主が白い吐息を吐きながら床を這う霧の量を調整し、ノクスが中庭で音もなく刀を振る。ルナリスは地下室に閉じこもり、時折そこから紫色の怪しい煙が立ち上る。
そんなバラバラな生活を、サーヤの快活な声が強引に繋ぎ止めていた。
「ドラ子ちゃん! 洗濯板はそんなに力任せに擦っちゃダメですよ。生地が傷んじゃう!」
「……っ、分かっておりますわ! ですが、この汚れ……まるでおじさま達の執着のように、しつこいですのよ!」
中庭では、ドラクロワが左手一本で洗濯物に苦戦していた。王女としての矜持が、ルルナにすべての家事を任せることを許さなかったのだ。だが、人生で一度も「労働」をしたことがない彼女にとって、石鹸の泡は魔法よりも御しがたい代物だった。
素振りを終えたノクスが、汗一つかかずにその横を通り過ぎる。
「……っ、貴女、見ていないで手伝ったらどうなんですの!?」
ドラクロワの悲痛な訴えに、ノクスは足も止めずに冷たく言い放つ。
「……断る。……浮かれた腰つきを直すのが先だ、お姫様」
「……言われなくても分かっておりますわ!」
ノクスは背を向けたまま、刀を鞘に収める。だが、サーヤが「ししょー、今日のまかない、リクエストあります?」と声をかけると、ぴたりと足を止めた。 「……肉だ。昨日のより、もう少し歯応えのあるやつを」
「了解です! 頑張っちゃうぞー!」
昼下がり、宿のロビー。 ルルナは、店主が「ラベル貼り」を忘れた古い書架の整理を手伝っていた。
「……店主さん。……この本にも、名前を貼っておきますね」
「……ええ。……助かるわ……。……私一人の記憶では、……この宿の……輪郭を……保てないから……」
店主は、サファイア色の瞳でルルナの働く姿をじっと見つめていた。 彼女の指先が、空中に文字を書くように動く。
「……翠色の、少女。……ルルナ。……貴女の体温は、……不思議ね。……他人の痛みを……吸い取って、……それでも……そんなに……優しく笑えるなんて……」
「……痛いのは、……ひとりぼっちなのが、一番痛いですから……」
ルルナの言葉に、店主は少しだけ困ったように眉を下げた。 それは彼女の「記録」には存在しない、ラベルの貼れない感情だった。
夜。キッチンから漂うのは、サーヤが手に入れたスパイスと、ドラクロワが(ボロボロになりながらも)剥いた野菜が煮込まれる音。
「……ねえ、サーヤ。……わたくし、……間違っていないかしら」
包帯の巻かれた右腕を抱え、ドラクロワが火の粉を見つめて呟く。「こんな場所で、泥にまみれて、……洗濯板と戦って。……わたくしは、……王女として……死ぬべきだったのではないかしら」
サーヤは鍋をかき混ぜる手を止め、自分の「赤いリボン」を指で弄った。 「ドラ子ちゃん。……おじさんがね、よく言ってたんです。『美味しいものを食べてる間は、人は死ぬことを忘れる』って」
サーヤは小皿にスープを掬い、ドラクロワの口元へ差し出した。 「王女様かどうかなんて、私には分かりません。……でも、今のドラ子ちゃんが作ったこのスープの具は、とってもいい形に切れてますよ。……それは、生きてないとできないことです」
ドラクロワは差し出されたスープを、ゆっくりと、味わうように飲み込んだ。 熱い液体が胸の奥に落ち、彼女の瞳から一筋、熱いものが頬を伝った。
その光景を、ルナリスがドアの隙間から、冷めた目で見つめていた。
「……ケッ。……バグだらけね。……感情なんて、……計算を狂わせるだけの猛毒なのに……」
そう言いながらも、ルナリスは手にした盆の上に、全員の体調と種族に合わせた薬湯を並べていた。石鹸負けしたドラクロワの左手のための軟膏。寝不足のルルナへの強壮剤。そして、働きすぎるサーヤのための特別な処方箋。
「……毒を食らって死なれては、私の計算が合わなくなるだけよ」 誰に言い訳するでもなく呟くと、彼女はわざとらしく乱暴に足音を立てて、賑やかなキッチンへと踏み込んだ。
――『○月○日。……ラベルのない日常。……けれど……。……あの子たちの……笑い声が……、……氷晶の……冷たい壁を……少しずつ、……削り取っている……』




