Record: 23『氷獄の湯』
「……お風呂? ……あるけれど。……入るには、……少し、冷たすぎるかもしれないわね……」
宿の裏手にある小屋の前で、店主ラピスは困ったように白い吐息をこぼした。 案内されたのは、石造りの簡素な浴室。 だが、蛇口から勢いよく流れ出たのは、触れるだけで指先が痛くなるほどの「完全なる冷水」だった。さらに悪いことに、浴槽の縁には薄っすらと氷が張り付いている。
「ひゃっ!? つ、つめたーい!!」
水に触れたサーヤが悲鳴を上げて飛び退く。 これでは汚れを落とすどころか、命を落としかねない。
「……私の体温には、……これが適温なの……。……温かいお湯なんて、……氷が溶けてしまうわ……」
ラピスは悪びれもせず、むしろ不思議そうに首を傾げている。立ち尽くす一行。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。ドラクロワとルルナは、下水路のヘドロと悪臭にまみれている。 サーヤもまた、戦場のような厨房を駆け回ったせいで、髪も肌も油の匂いと汗でベタベタだった。ノクスは旅の砂埃を纏ったままだ。
全員が、限界だった。
「大丈夫です! 私たちには、これがありますから!」
サーヤが自信満々に掲げたのは、昨日ドラクロワたちが命がけで採取してきた『燃える苔』の残りだった。
――数十分後。
浴室からは、モウモウたる湯気と、賑やかな声が漏れ出していた。
「あつつっ! サーヤ、苔を入れすぎですわ! これでは煮込み料理になってしまいます!」「ごめんなさいドラ子ちゃん! でも、ちょっと目を離すとすぐ凍っちゃうんだもん!」
石造りの浴槽は、意外にも広く造られており、大人が五人入っても手足を伸ばせるほどの余裕があった。 湯気で曇る視界の中、サーヤ、ドラクロワ、ルルナがゆったりと肩まで浸かっている。 壁際では、ノクスが一人、距離を取るように湯船には入らず、桶でお湯を被っていた。
「……ふぅ。生き返りますね、ドラクロワ様」「……ええ。広々としていて……悪くありませんわ」
ルルナに背中を流されながら、ドラクロワが心地よさそうに目を細める。逃避行が始まって以来、まともな入浴など一度もできていなかった。宿に来てからも、節約のために貰ったお湯とタオルで身体を拭くのが精一杯で、下水路の染み付いた臭いはどうしても落ちきらなかったのだ。
「こうして肩までお湯に浸かるなんて……いつぶりかしら」「泥も、臭いも……全部溶けていくみたいです」
その視線が、ふとルルナの胸元にある古い傷跡――昨夜の『代位』とは違う、もっと古い虐待の痕跡――に止まり、痛ましげに揺れた。
「……ルルナ。その傷……」「あ、これですか? 気にしないでください。もう痛くありませんから」
ルルナは慈しむようにドラクロワの爛れた右腕を洗いながら、微笑んだ。しんみりしそうになった空気を、サーヤがバシャッと強引にお湯を掛けて吹き飛ばす。
「はいそこ! 湿っぽい話は禁止! お風呂はニコニコ入るものです! ……ほら、師匠も! いつまでそこで修行してるんですか、こっち来てくださいよ!」
「……断る。長湯は感覚を鈍らせる」
ノクスは頑なに拒否していたが、サーヤにしつこく手を引かれ、渋々といった様子で湯船の隅――三人がいる場所から一番遠い対角線上の位置に、静かに身体を沈めた。
「……ぬるい」「えー? 師匠、猫舌ならぬ猫肌なんですか?」
憎まれ口を叩くノクスだったが、数分もしないうちに、その白い肌がみるみる朱に染まり、金色の瞳がとろんと潤み始めた。 ドラゴニュートの高い体温と、外部からの熱。その相乗効果で、彼女は誰よりも早く「のぼせ」ていたのだ。
「……おい、小娘。……世界が、回っているぞ……」「あーっ! 師匠!? しっかりしてください、目が回ってますよ!?」
広い浴槽の中でぐらりと倒れかけたノクスを、慌ててサーヤがバシャバシャと音を立てて泳ぎ寄り、支える。
その大騒ぎを、ドラクロワが「あらあら、無様ですわね」と呆れつつも、楽しそうに笑って見ていた。
風呂上がり。 火照った身体を夜風で冷ましながら、サーヤは中庭のベンチで、よく冷えた水をノクスに手渡した。
「はい、お水です。……ふふ、師匠にも弱点があったんですね」「……忘却しろ。命令だ」
ノクスは不機嫌そうに水を受け取ったが、その横顔にはいつもの険しさはなく、どこか憑き物が落ちたような穏やかさがあった。
宿の窓辺では、ラピスがその光景を静かに見下ろしている。 湯冷めを知らない彼女の指先が、日記に新しいページを加える。
――『○月○日。……氷の檻が、……湯気で満たされた日。……裸の付き合い、とは……よく言ったものね。……鎧を脱げば、……誰もがただの……温かい生き物……。ふぅ……』




