Record: 21『最初の日常』
宿屋『氷晶の止まり木』の重い木扉を、ルルナが肩で押すようにして開けた。 その瞬間、二人の鼻腔を突いたのは、昼間の下水の腐臭とはあまりにかけ離れた、香ばしい肉の脂と焼き立てのパンの匂いだった。
「……あ。……温かい……」
ルルナの小さな呟き。彼女の修道衣は、膝までどろりとしたヘドロに汚れ、翠玉の瞳の輝きも、疲労でひどく曇っている。その後ろで、ドラクロワは幽霊のように立ち尽くしていた。不自由な右腕を庇いながら数時間も『灯火』を維持し続けた彼女の魔力は底をつき、月光を映したように美しいはずの白銀の髪には、カビ臭い苔がこびりついていた。
「……遅かったわね。依頼の品は?」
出迎えたのは、鼻をつまんだルナリスだった。 彼女はルルナが差し出した、泥まみれの麻袋をひったくるように受け取ると、中身を確認して口元を緩めた。
「『燃える苔』。……下水路のメタンを吸って育つ、高効率の燃料よ。この宿、寒すぎて薬品が凍るから必要だったの」
ルナリスは無造作に、その汚れた苔の塊を暖炉へと放り込んだ。 ボッ、と音を立てて、青白い炎が爆発的に燃え上がる。 冷え切っていたロビーに、じわじわと物理的な「熱」が広がっていく。
「……おかえりなさい。……ふぅ……。ずいぶんと……賑やかな汚れを連れてきたのね……」
カウンターの奥から、ラピスの白い吐息が漏れる。広間ではサーヤが笑いながら、ノクスの横でサンドイッチを頬張っている。ランプの光に照らされたその光景は、あまりに眩しく、あまりに「生活」の熱に満ちていた。
「……っ」
ドラクロワは、反射的に自分の汚れきった左手で、さらに汚れた服を隠すように抱きしめた。 自分たちは今日、たった数枚の銅貨のためにドブを浚い、名乗ることさえ許されなかった。一方、サーヤは自分の足で立ち、自分の力で「戦利品」を勝ち取り、こうして笑い合っている。 二度と戻らない、色鮮やかな王宮の日常。その残像を見せつけられたようで、耐え難い惨めさに襲われた。
「……ドラ子ちゃん、ルルちゃん! おかえりなさ――」
駆け寄ろうとするサーヤを、ドラクロワは顔を背けて拒絶した。
「……来ないで。……汚れますわ。……わたくし、先に体を洗ってきます」
逃げるように裏庭の井戸端へ向かう。そこは宿の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
ドブの匂いが染み付いた手を何度も冷水に晒す。けれど、こびりついた惨めさまでは落ちてくれない。 見かねたルルナが、預かってきた『ソルト・ジャンプ・サンド』の包みを開けた。それを二つに割ると、不均等に割れたパンの「大きい方」を、震える手のひらに乗せてくる。
「……ドラクロワ様。食べてください。冷えてしまう前に」
ドラクロワはそれを受け取ると、一口齧り――そして、動きを止めた。
「…………っ、……味も、何も……しませんわ……」
目から大粒の涙が溢れ、泥だらけの頬を伝ってパンの上に落ちた。本来なら至福の味。けれど精神が麻痺した彼女には、砂を噛むような感覚しかなかった。
「……わたくしは……王女ですわ……。……民を……国を見捨てて……。一人だけ逃げるなんて、無様ではありませんか……っ」
絞り出すような言葉に、ルルナはパンを握りしめたまま、たまらず叫んだ。
「……王女様なんて、今はどこにもいません! ……私の隣にいるのは、ただの、私の……っ。私の……ドラクロワ様なんです!」
ルルナの瞳からも、止めどなく涙が溢れ出す。
「わたくしは、救われているんです……。ドラクロワ様が、生きていてくれるだけで……。だから……無様なんて、言わないでください……っ」
半分残ったパンを握りしめたまま、ルルナの膝に顔を埋める。 子供のように、ただ泣きじゃくることしかできなかった。
「……ああああ、あ……っ……う、ううう……っ!」
王女としての言葉遣いも、高慢な態度も、ここにはない。 ルルナもまた、自分の分のパンを置くと、溢れる涙を拭うこともせず、震える声で一緒に泣いた。
「……私の隣に、いてください。……それだけで、いいんです……っ」
言葉にならない嗚咽を漏らしながら、ルルナは細い肩を抱き寄せ、その背中を優しく、一定のリズムで叩き続けた。
月光の下、ドブの匂いと涙の塩気。それが、彼女たちがこの街で手にした「最初の日常」だった。




