Record: 20『戦利品の味』
『満潮の金貨亭』の夜は、まさに戦場だった。 だが、嵐のような喧騒が去った後、厨房には清々しい達成感が漂っていた。
「……たまげたな。あの忙しさを一人で捌ききるとは。おい、これは追加だ。あんたのおかげで今夜の売り上げは最高だよ。とっときな!」 汗だくになりながらも最後まで完璧に動いたサーヤに、店主が約束の銅貨10枚と、さらにもう一枚のチップをカウンターに置いた。
だが、サーヤはそれをすぐには手に取らず、かつての看板娘時代に培った「最高の交渉」を仕掛けた。 「店主さん、ありがとう! でも……お金の代わりに、お願いがあるんです。厨房の隅にある『余り物の骨付き肉』とハーブを譲ってほしいの。……あと、30分だけ厨房を貸して!」
店主は目を丸くした。だが、サーヤの真剣な瞳と、今夜の働きぶりに免じて豪快に笑った。 「ははっ、欲のないねえちゃん。勝手にしな! 火もまだ落ちてねえし、好きなだけ使いな!」
サーヤはすぐさま厨房へ戻り、再びエプロンを締め直した。 手にしたのは、村のレシピ帳に記された、大切な「元気が出る」料理。
――数十分後。 クタクタになりながらも、温かい包みを抱えて宿へ戻ったサーヤを待っていたのは、中庭で月を背に刀を研ぐノクスだった。
「見てください、ししょー! 銅貨10枚と、店主さん直伝のチップ……じゃなくて、今の私の『本当の戦利品』です!」
サーヤが宿のテーブルに広げたのは、良い香りを立ち昇らせる大量の包みだった。壁際で刀を研いでいたノクスは、手を止め、無言でその包みを見つめた。 サーヤから差し出されたのは、厚切りのパンに溢れんばかりの肉とハーブを挟んだ『ソルト・ジャンプ・サンド』だ。
ノクスは相変わらず冷淡な表情のまま受け取る。だが、一口噛みしめた瞬間、その鋭い双眸がわずかに細められた。言葉はなくとも、熱い肉汁とパンの香ばしさを味わう喉の動きが、何よりの肯定だった。
「見てください、ラピスさん! 満潮の金貨亭の店主さんと交渉して、分けてもらったお肉のサンドイッチです。みんなで食べましょう!」
サーヤが宿のテーブルに広げたのは、猛烈な熱気と香りを放つ『ソルト・ジャンプ』の包みだった。 帳簿を付けていたラピスが、万年筆を置き、少しだけ困ったように眉を下げた。
「……あら。……困った子ね。……こんなに……騒がしい匂いを持ち込んで。……(ふぅ……)」
言葉の隙間から、白い吐息が漏れる。彼女は冷たく綺麗な指先で、汗の引かないサーヤの頬をそっと撫でた。
「……熱気は、……思考を濁らせるけれど……。……あなたが、……泥にまみれてまで……運んできたものなら……。……毒ではないのでしょうね……」
ラピスは、丁寧にラベルを貼った自分用の木匙を手に取った。溢れんばかりの肉を、まるで壊れ物を分解するように少しずつ解すと、ゆっくりと口に運んだ。
「……ここは、お腹が空く場所。……あるいは、……家族のふりをする場所。……あなたの味は、……少し、……熱すぎるけれど……。……悪くないわ……」
サファイア色の瞳が、温かな湯気にわずかに揺れる。彼女は忘れないように、包み紙の端に『サーヤがくれた、熱い戦利品』と、小さな付箋を貼った。
「……よし! ルナリスさんの分も、ここに置いておきますね。あ、ししょー! 食べやすいように小さく切ったのもありますよ。はい、どうぞ!」
ノクスは「……ふん」と呆れたように鼻を鳴らしたが、差し出された二つ目のサンドイッチへ伸ばされた手つきには、一切の迷いがなかった。
そこへ、奥の部屋からルナリスが気だるげに姿を現した。 「……外まで下品な匂いが漂っているわ。毒の調合の邪魔よ」 文句を言いながらも、サーヤに「はい、ルナリスさんも!」と包みを押し付けられると、ルナリスは「……計算外のカロリーね」と毒づきながら、トパーズ色の瞳を揺らして肉を口にした。
「……ふん。これなら、あの二人がドブから戻った時の『気付け薬』くらいにはなるかしら」
ルナリスの視線の先、宿の入り口、少し離れたランプの傍らには、まだ帰らぬ二人分の包みが置かれている。
「……ふふ。……あの二人が……戻った時に、……この熱気が……残っているかしら。……(ふぅ……)」
ラピスは白い吐息を吐きながら、冷え切った宿の壁を少しだけ削り取るようなサーヤの笑い声を、静かに「記録」し始めた。




