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300年後も鐘の音を  作者: 琥珀 のえる
第1部:氷晶の宿と泥だらけの太陽

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Record: 19『空のくぼみ』

「――いい、二人とも。ここからは『自分』でやるんです。ししょーは付いてきてくれませんから」


 宿の入り口で、ノクスは刀を拭う手を止めず、一度もこちらを見なかった。

 「……死にたくなければ、その銅板に刻んだ嘘を、真実だと思い込むことだ。……行ってこい、小娘共」  その冷たい送り出しを背に、サーヤを先頭にした三人は霧の街へと踏み出した。


 街のギルド『霧の天秤ミスト・スケール』受付。 ドラクロワは、まだ白帯が痛々しい右腕を庇いながら、ルルナの肩を借りるようにして窓口の前に立った。


「登録だな。……名前と職業を」


 受付の事務的な声と共に、二枚の羊皮紙が差し出される。  ドラクロワは震える左手で羽根ペンを握り、自分の「真実の名前」を書こうとして……止まった。(……ドラクロワ・ド・ラ・ヴァリエール。そんな名を記せば、昨夜ルナリスが警告した通り、わたくしの身元はすぐに割れてしまう。……国を失ったわたくしが今さら正体を明かせば、どんな火種になるか分からない。……それに、わたくしにはもう、胸を張って名乗れる家(名字)などないのですわ)


「ほらドラ子ちゃん、早く! 私みたいに、パパッと書いちゃえばいいんですから!」  サーヤが、自慢げに自分の『サーヤ・ベル』と刻まれたプレートを指差す。 (……ベル、か。……この小娘には、守るべき家も、誇れる名字もあるというのに……) 

 

 ドラクロワは屈辱に唇を噛んだ。半ば自棄になった彼女が左手で殴り書きしたのは、あの忌々しい「ラベル」だった。苗字を記す余白は、埋められることを拒むように白く空いている。 

 

【名前:ドラ子 / 苗字:(空欄) / 職業:魔術師】

 

 隣ではルルナが、迷いのない穏やかな筆致で、大切に慈しむようにペンを走らせていた。彼女にとってその名は、自分を育ててくれた場所との唯一の繋がりだ。

 

【名前:ルルナ / 苗字:エクリア / 職業:神官】

  

「……よし、受理した。二人とも『カッパー』だ。励めよ」


 差し出されたのは、中央の宝石を嵌めるためのくぼみが空席のままの、ただの金属板。  『ベル』という新しい名を盗んだ者。『エクリア』という授かり名を抱く者。そして、名前を捨て去り『空欄』を選んだ者。


 三者三様の「名前」を胸に、彼女たちはギルドの掲示板へと向き合う。

 

「よし! 私、これから『満潮の金貨亭』のバイトに行ってきます! あそこ、街中の食材が集まるから殺人的に忙しいけど、その分チップもすごいんです。ドラ子ちゃんの治療費、稼いできますね!」


「待ちなさい、サーヤ! わたくしたちはどうすれば……」


「ドラ子ちゃんはまだ腕が使えないから、ルルちゃんの手伝いです! これ、ルナリスさんからの『処方箋』を兼ねた依頼ですよ。……『下水路に自生するこけの採取』。ドラ子ちゃん、ルルちゃんの足元をちゃんと照らしてあげてくださいね!」


 走り去るサーヤを見送り、ドラクロワは空っぽの銅板を見つめた。  右腕は不自由、名前は空欄。かつての自分を構成していた「輝き」が、霧の中にすべて溶けてしまったような感覚に襲われる。


「……ルルナ。行きましょう。……わたくしが、貴女の足元くらい……照らして差し上げますわ……」


 不自由な左手で、彼女は消え入りそうな小さな灯火マジックトーチを灯した。


 (……インクが滲む。 ……あの子たちが向かった下水路の苔は……、乾燥させると、とてもよく燃えるのよ。 ……今夜は、……この冷え切った宿も……少しは温まるかしら。……(ふぅ……))

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