Record: 17『名もなき王女』
ミストラルに、朝が来る。 『氷晶の止まり木』の窓から差し込む朝陽は、立ち込める霧を透かして、淡い青白さを宿していた。
部屋の中には、徹夜の治療による重苦しい「熱」の残滓と、安堵の入り混じった静寂が満ちている。 ベッドの脇で、椅子に座ったまま眠りに落ちたサーヤは、解けかかった赤いリボンもそのままに、小さく寝息を立てていた。その隣では、ルルナが祈るように手を合わせた形のまま、床に丸まって眠っている。
「……ふぅ……。……随分と、……無防備な寝顔ね……」
いつの間にか室内にいた店主が、白い吐息と共に独り言を漏らした。 彼女の指先が、まだ微かに温もりの残るサーヤの頬へ、壊れ物に触れるような、あるいは未知の熱を確かめるような、希薄な手つきでそっと伸びる。 この凍てつく宿で、体温を失わずに眠り続ける少女の生命力は、店主の目にはひどく眩しく映っていた。
その時。 シーツが擦れる微かな音と共に、ベッドの上の少女が目を開けた。
「……っ……」
反射的に爛れた右腕を動かそうとし、少女は激痛に顔を歪めた。 けれど、昨夜のような「内側から焼き尽くされる熱」は、もうない。代わりに、清潔な布と、独特の薬草の匂いが、自分の身体を繋ぎ止めていることを理解した。
「……目覚めたか。……死に損なったな」
壁際に寄りかかり、腕を組んで目を閉じていたノクスが、静かに声をかけた。 彼女は一晩中、椅子にも座らず、ただ壁の一部のようになってこの場所の静寂を保っていたのだ。
「……わたくし……は……」
少女が掠れた声で呟く。 視線を落とせば、泥だらけのまま手を尽くしてくれた見知らぬ小娘と、自分の痛みをすべて引き受けてくれた唯一の光が、力尽きたように眠っている。
「……まだ、生きて……。……わたくしは、……生きているの……?」
「……ええ。……記録によれば、……貴女の心臓は、……まだ止まることを……許可されていないわ……」
店主が、手にしたサファイア色のペンを止めて答えた。 少女は、震える左手で、自分の胸に置かれたルルナの手にそっと触れた。……温かい。 この世のどこよりも冷たいはずの宿に、確かな体温があった。
「……ふん。……名前を名乗る気があるなら、今のうちだ。……階下で、あの質の悪い薬屋が『治療費の請求書』を書いて待っている」
ノクスがようやく目を開け、冷徹だがどこか試すような視線を少女に向けた。 少女は、唇を噛み締め、それからゆっくりと――自分を殺し、生かしてくれた者たちへ向けて、真実の名前を紡いだ。
「……ドラクロワ。……ドラクロワ・ド・ラ・ヴァリエール。……それが、……わたくしを……この世に縛り付けている、……呪われた名前ですわ……」
その響きに、ノクスはわずかに眉を動かした。 (……ヴァリエール。アンバーホールドの……訳ありか) ノクスは、自身の本名を胸の奥深くに沈め直したまま、鼻で笑って応える。
「……ふん。立派な名前だな。だが、この街でその名を叫ぶのは、自ら首を差し出すのと同義だ。……お姫様」
ノクスが、寝入っていたサーヤの頭を無造作に小突いた。 「……起きろ、小娘」
「ふにゃ!? ……あ、おはよ、ございます……。……えーと、どら……どら焼き……?」
「……ドラクロワですわ!!」
(「……ドラクロワですわ!!」と、少女の怒声が響く中、店主は音もなく部屋を後にした)
階段を降り、薄暗いカウンターの奥へと戻る。 喋るたびに白い吐息がこぼれ、指先のサファイア色のインクが、朝陽に透けて冷たく光った。
「……ふふ。……ドラ子……。……いいラベルね……」
彼女は、先ほど書き留めた日記の『ドラクロワ・ド・ラ・ヴァリエール』という重々しい文字の隣に、小さな付箋を貼り付けた。
「……呪われた名前なんて……捨ててしまえばいいのに……。……あの子が……あんなに必死に……泥だらけの温もりで……繋ぎ止めたのは、……貴女の名前ではなく……貴女の、命なのだから……」
店主は、カウンターの上に置かれた、中身のない薬瓶をそっと撫でる。 均衡を保っていた彼女の天秤が、微かに、けれどはっきりと「生」の側へと傾いていた。
「……騒がしいわね……。……熱気が、……記憶を……溶かしてしまいそう……。……○月○日。……記録終了……。……お腹が、……空いたわ……」
(……氷の粒が弾ける音が小さく響き、彼女は静かに、キッチンから漂い始めた微かな香りの方へ、視線を向けた)




