Record: 16『代位する翠』
店主が運んできた「熱いお湯」が、氷のように冷たい室内に白い湯気を立ち昇らせる。薬屋は無造作に少女の服を裂き、赤黒く膨れ上がった右腕を露わにした。道中のゴブリンによる不衛生な傷、そして内側からの魔力暴走。混ざり合った毒が肉を腐らせ始めていた。
「……始めるわよ。サーヤ、と言ったかしら」 薬屋が、蠢く紫色の液体が入った管をサーヤに渡す。
「あんたは私の指示通りに、この管から毒を滴下させなさい。一滴でも多ければ、この子は死ぬ。一滴でも遅ければ、肉が腐り落ちる。……できる?」
「……できます。溢れそうなお皿を運ぶより、ずっと簡単です」
サーヤは震える指先を、自分の太腿を一度叩くことで強引に鎮めた。重心を落とし、全神経を指先の感覚に研ぎ澄ませる。
「……ルルナ。貴女は、この子の心臓に手を。この毒が内側に回ろうとするたびに、貴女がその『痛み』を自分の身体へ引き込みなさい。……死ぬほど痛いわよ。逃げれば、二人まとめて地獄行きね」
自分の身体へ引き込む。……ルルナには、その技術的な意味など分からなかった。ただ、目の前で苦しむ彼女を、自分が代わってあげたい。その一心で、生気のない胸にそっと手を添える。
「……やめて……もう、よいのですわ、ルルナ。わたくしの腕など……。……逃げなさい……」 「……いいえ。……ルルナが、お守りしますから」
治療が始まった。
サーヤが管を絞り、紫色の猛毒を一滴、爛れた肉へと落とす。 ジ、という肉の焼ける嫌な音と共に、ドラクロワの身体が弓なりに跳ね上がった。
「――っ、ああああああああああ!!!」
絶叫。しかし、その声はすぐに掠れ、代わりに隣にいたルルナの肌に、翠色の不気味な血管が浮き上がり始めた。 『翠玉の代位』。理屈ではなく、祈りそのものが痛みをルルナの細い身体へと転写していく。
「……っ……ぁ……ぁあああ……!!」
ルルナの瞳が、翠色に激しく明滅する。激痛に耐えかねて崩れそうになる彼女の背中を、無言で、けれど強固な「壁」が支えた。ノクスだ。彼女は言葉もなく、ただ倒れることさえ許さない絶対的な支えとして、そこに在った。
「シーフ、次! 三滴、同時に落として!」 「……はいっ!!」
サーヤの視界は、もはや一点しか見ていない。 毒を流す速度。それは、酒場で客の間を縫って歩く時の「緩急」に似ていた。 死ぬな。死なせない。
どれほどの時間が過ぎたのか。 室内の冷気は、彼女たちの発する熱気と、立ち上る毒の紫煙に塗り潰されていた。 やがて、少女の腕から黒い澱のような血が吐き出され、ルルナが力尽きるのと同時に、治療は終わった。
「……ふぅ……。……意外ね。……全滅するかと思っていたけれど」
薬屋が、血に汚れた手袋を脱ぎ捨てて笑う。少女の右腕は無惨な傷を遺してはいたが、その脈動は確かに、生命の波打ちを取り戻していた。
「……お……やすみなさい……。……よかった……」
ルルナは、毒の余波で震える手で、最後まで少女の指先を握りしめたまま、深い眠りへと落ちた。
その光景を、部屋の入り口から店主がじっと見つめていた。 彼女の指先が、日記の余白に一言だけ、震える文字を書き込む。
――『これは、……それは、……この宿の……どんな氷よりも……、……純粋で……不器用な、……祈り……』




