Record: 0『野うさぎの朝、終わりの始まり』
朝は、いつも「音」から始まる。
窓の外、朝風を受けて軒先に吊るされた氷の風鈴が、チリン、と澄んだ音を立てる。その清らかな響きが、いつもの目覚まし時計代わりだ。
「んんっ……ふぁ。……よし、今日も一番乗り!」
まだ眠い目をこすりながら、店の重い木扉を開けた。 朝靄の向こうから、採れたてのカブやニンジンをカゴいっぱいに詰めた近所のおじいさんたちが現れる。そんな何気ない日常が、彼女の宝物だ。
開店前に欠かさず行っている日課があった。 店先の看板に吊るされた、小さな真鍮の鈴を、布巾でピカピカになるまで磨き上げること。 「今日もお客さんが、迷わずにこの音を目指して来られますように」 独り言のように呟いて、鈴を弾く。チリン。狭い盆地の村だ。迷子になる人なんてそうそういない。
けれど、この音は「みんなが帰ってくる合言葉」。だからこそ、誰よりも大切にしているのだ。
厨房に戻ると、大きな寸胴鍋がコトコトと微かな音を立てていた。 ふたの隙間から溢れ出すのは、掘りたての根菜が持つ、どこか懐かしい甘い土の匂い。看板メニュー『朝焼けうさぎのスープ』の香ばしい匂いが、まだ誰もいない静かな店内に満ちていく。 大鍋のふたを開けると、溢れ出した湯気の向こうに、ノネット村の美しい朝焼けのような「赤」が揺れていた。じっくり煮込んだそのスープは、彼女の持つ『尖晶石』の血と同じ色をしている。ありふれているけれど、誰の体もじんわりと温めてくれる、優しい赤だ。
さらにカウンターの奥では、樽の中で熟成を終えた黄金色のビール『琥珀の雫』が静かに出番を待っている。そして、ハーブと岩塩の香りが食欲をそそる『跳ねうさぎの岩塩焼き(ソルト・ジャンプ)』の仕込みも万全だ。
「完璧……っ! ああ、もう、絶対みんな喜んでくれる!」
あまりの幸福感に、たまらなくなって、厨房の狭いスペースでクルリとステップを踏んだ。鼻歌まじりに、お玉をマイク代わりにして小さくお尻を振る。看板娘の「幸せのダンス」は、美味しい料理が完成した時だけの、誰にも見せない特別な儀式だ。
「あら、今日もいい匂いさせてるじゃない」不意に、開いた扉の隙間からそんな声が聞こえた。 「……あ、もうすぐ開店だ。早く看板を出さないと」 頬を両手で叩いて気合を入れると、元気よく立ち上がる。 「いらっしゃいませ! 『野うさぎの尻尾亭』今日も元気に開店ですよー!」
常連の行商人や、各地を回る職人たちが次々と集まってくる。忙しく立ち働きながら、その視界の端で、酔っ払いの千鳥足をひらりとかわす常連客の身のこなしや、満載の荷物を肩に載せたまま、重さを感じさせずに階段を駆け上がる行商人の滑らかな膝の使い方を「盗み見」して、自分なりに吸収していく。
「あ、今の歩き方、お盆を運ぶときに楽かも!」
そんな風に、日々の仕事をちょっとだけ楽にするための工夫。それが最高の「遊び」であり、かけがえのない日常だった。
「……ねえ、聞いた? 西の街道の方で、また村が丸ごと消えたらしいわよ」 「神隠しか、それとも新しい小国の奴隷狩りか……」 旅人たちの物騒な噂話を背中で聞き流しながら、軽やかに立ち回る。 「はい、スープお待ちどうさま! 身体が温まるよ、火傷しないでね!」
夜が更け、最後の客が店を出ていく。重い木扉の鍵をかけ、ふう、と小さく息を吐いた。
カウンターの隅に置かれた、おじさん譲りの古びたレシピ帳。指先で、表紙に描かれた小さなミモザのスケッチをなぞった。 窓の外には、村の象徴である巨大なミモザの木が、月明かりを浴びて静かに佇んでいる。春になれば、この窓からもトパーズ色の花びらが雪のように舞い込むはずだ。
「……ねえ、おじさん。明日の仕入れ、最高の卵を見つけてくるから」 「ああ……。道端のウサギを追いかけて迷子になるんじゃねえぞ」
おじさんは背を向けたまま、ぶっきらぼうに言った。けれど、その手は明日の仕込みのために、使い古された包丁を丁寧に研ぎ続けている。シュッ、シュッ、という規則正しい音が、どんな子守唄よりも心地よかった。
「迷わないよ。……私、みんなが驚くような『新作』を作りたいんだ。ここのミモザみたいに、パッと心が晴れるようなタルトを」
自分の言葉を、レシピ帳のまだ白いページに書き込む。 明日になれば、また風鈴が鳴り、おじさんが包丁を使い、スープが煮える。そんな当たり前が永遠に続くと信じて、ふっと、ランプの火を吹き消した。
――その「明日」に、もう二度と、風鈴の音が響かないことも知らずに。




