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300年後も鐘の音を  作者: 琥珀 のえる
第1部:氷晶の宿と泥だらけの太陽

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16/51

Record: 13『天秤と鐘』

 森を抜け、ようやく辿り着いたのは、三大国の国境が交わる巨大な交易都市『ミストラル』だった。

 常に立ち込める霧の向こう、白亜の城壁と無数の煙突が蜃気楼のように浮かび上がる。行き交う馬車の轍、人々の熱気、潮の香り。数日前まで死の森を彷徨っていたサーヤにとって、その眩しさは眩暈を覚えるほどだった。

 

 しかし、巨大な門の前で、彼女は現実に突き落とされた。


「通行証のない者は通せん。身元不明の浮浪者は回れ右だ。……特に『濁った血』の持ち主はな」


 門番の冷たい槍が、泥汚れの目立つサーヤを阻む。その手には、青白く、粘りつくような光を放つ『魔導ランタン』が握られていた。血管の中まで覗き込まれるような、嫌な寒気が背走した。


「あの、私は……!」


 言いかけたその肩を、連れの女が冷たく抑えた。

 

「馬鹿か。あの光に焼かれたいのか? あれは血の波動を暴く鏡だ。生存者だと知れれば、お前は『汚染源』としてその場で焼かれる。……生き延びたければ、今この瞬間、これまでの自分を殺せ」


「これまでの……自分を……」


身分証プレートのない者は、この街では家畜ですらない。ギルドへ行け。そこで新しい名を、新しい自分をでっち上げるんだ。……二度と、本名は口にするな」


 女はそれだけ言うと、一歩下がって壁に寄りかかった。(師匠……助けてくれないんじゃなくて、私がどうするか『見てる』んだ……!)


 試されている。必死に頭を回転させ、脳裏に手繰り寄せたのは「客のあしらい方」だった。酒場で培った重心、声のトーン。かつて店で見かけた「世渡り上手な旅の小娘」を演じ、絶妙な困り顔を作ってみせる。


「ま、待ってください! 私は……その、訳ありの修行中の身なんです! こっちの……腕は立つけど口の悪い師匠のサポートをしてる、料理人兼、護衛でして!」


 門番は怪訝そうに、彼女の腰にある薪割りの斧と拾い物のナイフを交互に見た。魔導ランタンの光は、サーヤの必死の演技に惑わされたのか、淡い光を保ったままだ。


「……ふん。ならあそこのギルドで登録してプレートを作ってこい。偽りなら、即座に牢にぶち込むからな」

 

 ***

 

 街のギルド『霧の天秤ミスト・スケール』受付。

 

 「次、さっさと名前と苗字を書け」


 受付の職員が面倒そうに急かす。苗字。うっかり「ノネットのサーヤ」と書けば、居場所を教えるようなものだ。


(新しい名前……。私が、私じゃなくなる名前……)


 その時、ギルドの外にある教会の塔から、正午を告げる鐘のベルが鳴り響いた。それは、かつての酒場で毎朝、開店を知らせるために自分が鳴らしていた呼び鈴の音に、どこか似ていた。


「……ベル。サーヤ・ベル、です」


「で、あんた。得意な武器は?」(……本当は、おじさんの斧の方がずっと頼りになるけれど。でも、あれを見せたらきっと目立ってしまう)

 

 サーヤは咄嗟に、腰の裏に隠していたダガーを指差した。 かつての雑貨屋で、ノクスから「己の器を知れ」と投げ与えられた一振りの刃。死体から拾ったボロボロのナイフとは違う、自分の「手」として馴染み始めた相棒だ。


「あ……これ、これです……」


 ボロボロの格好、落ち着かない視線、そして隠し持つような短い刃。職員は納得したように頷いた。


「なるほど。小柄だし、目立たない装備だな。よし、『盗賊シーフ』クラスで登録完了だ」


「えっ、とうぞ……!? いえ、私は料理人で……!」


 ガチャン、とカウンターに放られたのは、鈍い光沢を放つ銅色カッパーの金属板だった。中央には不自然な「丸いくぼみ」が一つ、空虚に口を開けている。……これが、今の自分の価値。


 そこにははっきりと『シーフ:サーヤ・ベル』と刻まれていた。本人の意図に反して、彼女の「冒険者」としてのキャリアは、日陰の職業からスタートすることになった。ギルドを出ると、ノクスが露店が並ぶ通りを悠然と歩いていた。


「師匠……私、嘘をついて、泥棒シーフになっちゃいました……」


「……お似合いだ。死体から剥ぎ取り、名前さえ盗んだ。適職だろう」


「うう、言い返せない……」


 落ち込むサーヤだったが、ノクスは一つの衣料品店に立ち寄る。投げ渡されたのは、丈夫な革の胸当てとズボン、そして小さなポーチだった。


「駒なら駒らしく、周囲に馴染む格好をしろ。それと、これを買え」


 さらに買い足されたスパイスの小瓶。


「これからのスープに、もっとコクが欲しかった。それだけだ」


 ぶっきらぼうに歩き出す師匠の背中を追いながら、サーヤは新調した装備を抱きしめた。偽りの名前、日陰の職業。けれど、誰かのためにスープを作る日常だけは、まだ手放さずに済んでいる。


「待ってください、師匠! 今日はミストラル特産の美味しい煮込みを作りますから!」

 

 霧の立ち込める街、その喧騒の中へ。  サーヤ・ベルの、二度目の人生が始まった。

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