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300年後も鐘の音を  作者: 琥珀 のえる
第1部:氷晶の宿と泥だらけの太陽

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15/51

Record: 12『夜を名乗る者』

 森を抜けて数日。街道では、掃討を免れた飢えた魔物が、獲物を求めて幾度も闇から躍り出た。  そのたびに、文字通り穴が開くほど「彼女」の動きを見つめ続けてきた。無駄のない踏み込み、漆黒の炎を置き去りにする抜刀の軌跡。それは絶望を切り裂く、唯一の光。


 そして今日。手斧を握りしめ、自ら泥を蹴った。

 (今なら……あの動きを盗める……!)


 脳内で再生される、完璧な歩法。だが、現実は残酷だった。 不慣れな旅の疲労と荷物の重みに、脚が悲鳴を上げる。重心を低く滑らせようとした瞬間、軸足が無様に折れ、視界が反転した。 鼻をつく泥の臭いが、肺に充満する。


「あ……っ!?」


 魔物の爪が眼前に迫る。反射的に目を閉じた耳に、低く冷徹な声が響いた。


「――下がっていろ。死にたくないならな」


 直後、漆黒の閃光が魔物を両断し、熱い風が頬を撫でた。  女は刀を納めることもせず、泥まみれの少女を冷たく見下ろす。


「無様だな。お前の脚は飾りか?」


「……っ。ちがう、私は……真似したかっただけだもん……!」


「死にたがりを運ぶ趣味はないと言ったはずだ」


 女はそれ以上一言も発さず、冷えた空気だけを残して歩き出した。


 その夜。 火の粉が、パチ、と小さく爆ぜるだけの静かな野営。 女は先に寝袋に潜り込み、背を向けていた。一人、泥を拭ったばかりの脚をさすりながら、昼間の失敗を思い出して地面を見つめる。


 ふと、焚き火の微かな明かりが届く境界線に、不自然な「窪み」があることに気づく。  それは女が歩いた時に付けたものにしては、あまりに深く、明確に刻まれていた。かかとではなく、爪先と拇指球に深く食い込んだ跡。蹴り出すのではなく、地面を掴むような重心移動の「正解」が、そこに焼き付けられている。


 顔を上げると、寝袋の中の背中が、静かに揺れた。

 

「命拾いしたな、小娘。……名は?」


 不意の問いかけに、心臓が跳ねる。

 

「……サーヤ。……わたしの、なまえは……サーヤです」


 言い終えてから、「あ」と声を漏らした。そうだ、この数日間、必死すぎて一番大事なことを聞いていなかった。


「あの……私の方から、お名前を聞いていませんでした。あなたは……なんてお呼びすればいいですか?」


 重苦しい沈黙が流れる。 夜の風が木々を揺らし、焚き火が小さく爆ぜる。背を向けたままの女は、吐き捨てるように、けれど確かにこう答えた。


「……ノクスだ」


「ノクス……。ノクス、さん」


「……寝ろ。明日は早いぞ」


 それきり、夜の静寂が戻った。  自分の足を、地面に残されたその深い「足跡」にそっと重ねてみる。 ノクスの歩幅は、自分よりもずっと広く、鋭い。


「……不器用なんだから、ししょー」

 

 焚き火の爆ぜる音に紛れさせたその独り言に、返事はない。 けれど、寝袋の中の背中が、ほんのわずかに強張ったのを、見逃さなかった。

 小さく呟き、夜通し、焚き火の最後の一片が灰になるまで。  泥の上に残されたその無機質な「教科書」を、何度も、何度もなぞり続けた。

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