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300年後も鐘の音を  作者: 琥珀 のえる
第1部:氷晶の宿と泥だらけの太陽

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14/51

Record: 11『風を食む』

 赤い×印が刻まれた廃村を背に、二人は乾いた街道をひたすらに歩いていた。


 目指すは、北西の港町『ミストラル』。 地図の上では指の先ほどの距離だが、実際に歩く大地は、果てしなく、そして残酷なほど広大だった。


「……はぁ、……はぁ、っ……」


 呼吸が、荒く乱れる。 リュックに詰め込んだ水と食料、ランタン。かつては代金を払って手に入れていた「商品」が、今は生き延びるための「命」そのものとして、少女の華奢な肩にずしりと食い込んでいた。


 前を行く女は、一定のリズムで淡々と歩を進めている。 その背中は遠く、一度も振り返らない。呼吸ひとつ乱さず、まるで荒野の一部であるかのように静かだ。


(……速い。……それに、音がしない……)


 唇を噛み締め、滲む汗を袖で拭う。 追いつきたい。圧倒的な強さを見せた、あの背中に。 けれど、焦れば焦るほど、呼吸は浅くなり、足は泥に嵌ったように重くなる。

 ズザッ。 不意に吹いた突風に煽られ、派手に砂利の上へ転がる。


「……あ、ぅ……」


 膝から血が滲む。痛みよりも、情けなさが胸を締め付けた。 置いていかれる。 そう思った瞬間、視線の先に黒いブーツが止まった。


「……無駄な動きが多すぎる」


 女が、見下ろしていた。 手を貸すでもなく、ただ事実として告げる冷たい声。


「お前は呼吸で体力を捨てている。浅い呼吸は恐怖を呼び、恐怖は筋肉を強張らせ、さらに酸素を浪費する。……悪循環だ」 「で、でも……! ついていくので精一杯で……!」

 

「ついてくるな」


 女は短く切り捨てると、腰の革袋から水を一口含み、残りをサーヤへ投げた。


「私の背中を見るな。……『風』を見ろ」「……え?」「風向き、地面の傾斜、砂の硬さ。……世界は常に情報を発している。お前はそれらを無視して、ただ闇雲に力でねじ伏せようとしているだけだ」


 女は、街道の脇に生える枯れ草を指差した。 風に吹かれ、しなやかに揺れている。


「抗うな。……風を食め(はめ)。地面を蹴るのではなく、地面に運ばれろ」


 地面に運ばれる。 その言葉を聞いた瞬間、脳裏に、ある感覚が蘇った。


 ――満席の店内。 両手に山盛りの料理を持ち、テーブルの間を縫うように歩く時。

 力んで踏ん張れば、スープはこぼれる。 流れに逆らわず、客の動き(ノイズ)の隙間に、水のように滑り込むあの感覚。

(……そっか。……私、戦おうとしてたんだ。……この道と)


 水を一口飲み、ゆっくりと深呼吸をする。 肺の奥まで、乾いた風が入ってくる。 焦りで強張っていた肩の力が、ふっと抜けた。 荷物の重みが、腰の重心にスッと収まる位置を探す。


「……立ちます」


 膝の砂を払い、立ち上がった。 女は何も言わず、再び背を向けて歩き出す。 けれどその歩調は、先ほどよりも、ほんのわずかだけ――風が止むのを待つように、緩やかになっていた。


 ――これが、今の自分の全てだ。 この人の領域には、まだ到底届かない。けれど、いつか。


 顔を上げ、遠くを行く黒い背中を見据えて駆け出した。 ドスドスという重い音は消え、タッ、タッ、と軽やかなリズムが刻まれる。 髪に結んだ赤いリボンが、荒野の風に揺れた。


「……待ってください! ししょー!」


 風に乗って届いた呼び名に一瞬、わずかに肩を揺らした気がした。 けれど女は振り返らず、ただ低い声で、けれど拒絶ではない調子で呟いた。


「師匠と呼ぶな。……遅れるなよ、小娘」


 二つの足音が、不器用ながらも重なり始める。 遠く、地平線の彼方に、海風の湿り気を含んだ雲が見え始めていた。

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