Record: 9『王女の葬送』
二人の前で、世界は琥珀色の地獄へと変貌していた。
「……やめて。……そんな、……こんなことが……っ」
唇が、震え、白く乾く。 眼下の広場では、数千の民が「茶色の波」に文字通り溶かされていた。 逃げ惑う住人の背を、小さな牙が引き裂き、声が途切れる。王都の近衛兵たちが必死に剣を振るい、喉を枯らして咆哮を上げるが、その抵抗も空しく、無数の質量に容易く押し潰されていった。
その時、背後の穴から、それまでとは決定的に「格」の違う個体が這い出してきた。
――エルダー・ゴブリン。 奪った騎士の真紅の外套を纏い、その手には折れた儀礼剣が握られている。 平べったい顔に浮かぶのは、知性ゆえの冷酷な愉悦。エルダーは粘つく舌で裂けた唇をなぞると、耳元まで届くほど不自然に口角を吊り上げた。
それが、合図だった。 壁を、地面を、天井を埋め尽くしていた百近い琥珀色の瞳が、一斉に動きを止める。 完全な沈黙。その沈黙こそが、死の宣告よりも重く、二人の心臓を締め上げた。
「……っ、ドラクロワ様、下がって! お願い、わたくしが……わたくしが身代わりになりますからっ……!!」
ルルナは震える手で王女の服を掴み、力任せに引き寄せようとした。 何か、自分にできることはないのか。彼女の痛みを少しでも、一欠片でもいいから自分に移せればいいのに。術式すら定かではない祈りに近い叫びが、虚しく夜の闇に消える。
「いいえ、ルルナ。……これ以上、あなたに、わたくしの……苦しみを……っ」 溢れそうになる悲鳴を噛み殺し、縋りつくルルナの手を解いた。 震える脚で一歩前へ。泥だらけの掌を天へ向けたその瞬間、『三連の刻印』が真っ赤に拍動し、血管が内側から爆ぜるような衝撃が全身を貫く。
「最後の一発……っ、これですべて、……消え失せなさい!!」 『ロイヤル・フレア』――!!
それは、魔法と呼ぶにはあまりに無惨な、命の噴出だった。 掌の皮膚が熱量に耐えかねて弾け、白熱の火柱が咆哮を上げる。王家の誇りを薪にし、自身の血管を導火線にして放たれた光は、夜の闇を昼間のように白く塗り潰した。
火柱は眼前の群れを消し飛ばし、エルダー・ゴブリンを飲み込もうと迫る。 だが――。 「ギ、ギギッ!!」
エルダーが喉を鳴らすと、周囲の群れが迷うことなく炎の中に飛び込んだ。 肉が焼ける凄惨な音と臭い。彼らは自らを「薪」にし、重なり合う肉の壁で火柱を包み込んだ。圧倒的な物量が、王女の全出力を物理的に押し潰し、窒息させていく。
「どうして……っ、どうして止まらないのよ!? ああぁぁぁああっ!!」
絶叫は、やがて言葉を失った。 限界を超えた魔力が逆流し、目、鼻、耳から、沸騰した紅玉の鮮血が噴き出す。視界が真っ赤に染まり、天を突いた火柱は、群れの半分を焼き尽くしたところで、プツリと、あまりにも無情に途絶えた。
「あ……、……ああ…………っ」 指先から肉の焼ける煙が上がる。魔力は、一滴も残っていない。 細剣を握る指先は感覚を失い、もはや「重い鉄の塊」を鞘に収めることだけが、残された最後の執念だった。 炎が消えた跡には、まだ数万の「琥珀色の瞳」が、嘲笑うように輝いていた。 「……ドラクロワ様、もう、いいです。もう、いいですから……っ!」
ルルナが、背後から身体を抱きしめた。 ドラクロワは、自分の腕が子供のように震え、ルルナの服を紅玉の血で汚していくのを見つめる。
「……逃げるのよ、ルルナ。……わたくしを、……『王女』のまま、死なせないで……っ」
その言葉は、命令ではなく、泣きじゃくる子供のような縋りつきだった。 国を守り、民と共に果てる。そんな「正しく、美しい最期」を選ぶ力すら、今の自分には残っていない。ただ、この少女の手を握り、泥を這ってでも生きたいと願う醜い本能。 「……もう、……おしまいですわ。なにもかも」
感覚を失った右手で、震えながら細剣を鞘へと収めた。 カチリ、という虚しい音。それは彼女が「アンバーホールドの第二王女」として死ぬことを棄て、ただの「生きる屍」として地獄を歩き出すための儀式だった。 助けを求める民衆がひしめく正門ではなく、誰もいない、暗い北の街道――亡命の道へと続く崖の方角を向いた。 王女としての誇りを、正義を、そして祖国を、すべてこの広場に棄てた。 彼女はルルナの手を、壊れ物を扱うように、けれど二度と離さない強さで握りしめた。
「……走るわよ。……絶対に、……振り返っちゃダメ」 燃える王都の門。 背後では、今も助けを求める民の声が、小鬼たちの嘲笑にかき消されていく。右腕は、限界を超えた魔力行使によって赤黒く焼け爛れ、もはや感覚を失っていた。
「……ごめんなさい、みんな。……ごめんなさい……っ!」 掠れた声で謝り続けながら、重い一歩を街道へ踏み出した。
「ドラクロワ様、走って! お願い、止まらないで……っ!」 ルルナの必死の叫びに追い立てられるように、二人は燃える王都に背を向けた。 代償の激痛と、拭いきれない罪悪感を背負い、二人は黒い灰が降り頻る街道を、ただひたすらに駆け抜けた。




