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300年後も鐘の音を  作者: 琥珀 のえる
第1部:氷晶の宿と泥だらけの太陽

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Record: 8『泥の這走』

 背後の闇から、無数の「小さな足音」が津波のように押し寄せてくる。 矮小な彼らにとって、この歪な土の穴は自在に駆け回れる回廊だが、逃げる二人にとっては、四つ這いにならなければ進めない呪わしい檻だった。


「こ、来ないで……っ、来るんじゃありませんわ……!!」

 

 半狂乱で振り返り、泥に汚れた掌を闇へ突き出す。 『フレア・ランス』!!

 

 掌から放たれた高密度の火柱が、狭い横穴を白く塗り潰す。先頭の数匹を焼き潰し、土の壁をガラス状に焼成する。だが、その光が照らし出したのは、さらなる絶望だった。炎の向こう。折り重なるように穴を埋め尽くす琥珀色の瞳が、一歩も退かずにこちらを凝視している。彼らは死を恐れない。後ろから来る仲間の質量に押され、焼けた同胞の肉を自ら踏み潰して前進してくるのだ。


「そんな……っ、火を恐れないなんて……!」


 突如、突き出した掌から二の腕にかけて、裂けるような激痛が走った。 過密な魔力出力に血管が悲鳴を上げ、内側から肉を焼き焦がす熱が、視界を強制的に白濁させる。「……っ、あ、あぐぅっ……!!」

 

 「ドラクロワ様、呪文を止めて! 息が……っ、こちらへ、這って!!」


 ルルナに腕を引かれ、人生で初めて、泥の中に這いつくばった。 頭を低くし、肘を泥に突き立て、獣のように穴を這う。 背後、伸ばした手が届くほどの闇から、小さな牙を鳴らす音が迫っている。引きずっているドレスの裾を「グイッ」と強い力で掴まれ、その度に悲鳴を上げてそれを蹴り飛ばした。


「嫌、嫌ですわ! 触らないで……っ、わたくしに、触れないでぇ!!」

 

 叫びは、冷たい土壁に吸い込まれて消えていく。 ルルナの背中だけを追いかけ、暗い穴を必死に掻き分ける。爪が割れ、指先に泥が食い込み、美しかった指紋が失われていく。


 前方に、かすかな光が見えた。 だが、その光は「救い」ではなかった。

 

「……外? いいえ、これは……」


 排水口から這い出した二人が目にしたのは、黄金の都の終焉だった。 眼下の街は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。  広場を埋め尽くす「茶色の波」に抗い、兵士たちが剣を振るうが、その刃は無数の質量に容易く飲み込まれていく。至る所で上がる悲鳴。逃げ惑う民の背後から、泥のような化け物たちが群がり、その冷たい指先が肌を掠めた瞬間、生暖かい血が琥珀色の石へと凍りついていく。 救いを求めて伸ばされた手は、次の瞬間には物言わぬ宝石の彫像へと変わり、後続の群れに無残に踏み砕かれていった。

 

 広場の中央。建国の象徴であった「大竜血樹」が、不動の姿勢で夜空を突いている。だが、その神聖な根元の大地は無残に陥没し、巨大な口を開けていた。そこから溢れ出したのは、底なしの悪意。幸福な日常を、跡形もなく塗り潰していく濁流。 「あ……、…………っ」

 

 言葉にならなかった。 ドラクロワは力なく、その場に膝をついた。 聖なる樹の足元から、不浄な泥が噴き出している。かつて自分を称えた民は、助けを求める間もなく、次々と無機質な琥珀の塊へと変えられていく。 聖樹の加護など、最初からどこにも無かったのだ。

 

「ドラクロワ様、立って! ……っ、はあ、はあ……っ、まだ、諦めちゃ、ダメですわ!!」

 

 ルルナの叫びは、もはや悲鳴に近かった。 聖職服もまた、泥と血に汚れ、呼吸を整える暇もないほどに肩を揺らしている。ドラクロワの身体を掴むその手も、恐怖で激しく震えていた。それでも、彼女は主を置いていこうとはしなかった。

 

 背後の穴からは、再びあの「シャリシャリ」という咀嚼音が迫っていた。  必死の叫びが、虚無に沈みかけた意識を繋ぎ止める。王女は震える手で細剣を握り直し、蹂躙される都の惨状を一度だけ瞳に焼き付けると、血の滲む唇を噛み切った。


 「……ルルナ。わたくしの手を、離さないで」


 彼女はもう、民を助けるための魔法は使わなかった。ただ、目の前の少女と生き延びるためだけに。(……わたくしの魔法は、ここが最後……。あとの魔力は、逃げる足に回さなくては……)

 逆流する血の味を飲み下し、火柱を叩きつける。背後の闇を、音を、そして彼女自身の過去を、その熱量ごと一気に焼き払い――閃光が消えるよりも早く、力なく垂れ下がった右腕を抱え、燃える都に背を向けた。


 一度も、振り返らずに。

 

 二人の背中に、黄金の煤はもう舞わない。 代わりに降り注ぐのは、すべてを忘れさせるような、冷たく重い、黒い灰だった。

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