Record: 7『正しくない音』
(……ページを捲る音が、乾いた風のように響く)
「……Record:7。……(ふぅ……)。 ……それは、……黄金が……泥に沈んだ日の記録……。 ……耳を、澄ませて。……すべてが狂い始めた……あの『音』に……」
その日、最も「正しくなかった」のは、音だった。
窓の外では明日の『琥珀祭』を控えた民衆の歓声が、潮騒のように遠く響いている。だが、その喧騒を突き抜けて足元からせり上がってくるのは、歓喜の余韻ではない。 乾いた土を掻き出し、硬い石を削り取る、執拗で不快な反復音だった。
「……ドラクロワ様。壁の中に、何かがいます。 ……それも、この壁を埋め尽くして余りあるほどの何かが、ひしめき合っているような……そんな気がいたしますわ」
指し示されたのは、歴代王族の肖像画が並ぶ、静かな回廊だった。その黄金の額縁にほど近い壁の隅に、点、点、と不自然な汚れがついている。子供の足跡にも似た、茶色の小さな「泥」だった。
「……震えるのはおやめなさい。見なさい、ただの壁ですわ。聖樹の加護がある限り、得体の知れない何かが這い寄るなど……あり得ないことですもの」
いつものように傲然と言い放つ。 だが、その指先は無意識に細剣の柄を、白くなるほど強く握りしめている。
……何かが、おかしい。
重厚な石造りの床を歩いているはずなのに、足の裏に伝わる手応えが、どこか頼りなく、空ろに響く。 踏みしめるたびに、城の土台が内側から密かに失われているような……得体の知れない浮遊感。
二人は、縋るように互いの気配を感じながら、さらに深く、暗い地下へと階段を下りていった。 地下備蓄庫へと続く、重い鉄の扉。その前で、ドラクロワが足を止めた。
「……ルルナ。一つだけ約束して」
隣に立つ少女の肩を強く掴む。その手は、自分でも制御しきれないほどの恐怖のせいか、それとも高ぶる昂揚のせいか、わずかに震えている。
「もし、この向こうに……取り返しのつかない『何か』があったら。その時は、あなたは私を置いて一人で逃げなさい」
「……っ、そんなことできません!」
即座に否定する声。差別の中にいた自分を救い、居場所を与え、名前を呼んでくれた人を置いて逃げるなど――。
「いいえ、これは命令よ。……私はヴァリエールの血を引く者。この城で起きていることに対し、責任があるわ。けれど、あなたは違う。あなたには、神官として生きる未来があるはずよ」
(私を『未来』だと言ってくださる。……でも、私の未来は、あなたの隣にしかありません)
ルルナは震える手で、ドラクロワの手を握り返した。
「約束……は、できません。その代わり、別の誓いを立てさせてください」 「ルルナ……?」 「私は、あなたの盾になります。ドラクロワ様が光を失わないよう、この命が尽きるまで、あなたの前を歩きます。……もし、その時は――」
顔を上げ、まっすぐな瞳でを王女を見つめた。
「私が、あなたを連れて逃げます。どこまででも」
それは、従者としての言葉ではなく、対等な親友としての決意だった。驚いたように目を見開いたが、やがて、諦めたように小さく微笑む。
「……本当に、分からず屋ね、あなたは」 「はい、ドラクロワ様。……どこまでも、お供いたします」
意を決して、鉄の扉を押し開ける。 不動の姿勢で扉を守っているはずの騎士たちは、どこにもいなかった。ただ、白銀の甲冑だけが、持ち主を失った「抜け殻」のように壁際に佇んでいる。
「……騎士様?」
ルルナが、震える声で呼びかけた。 だが、返る声はない。ただ、掲げた灯火が揺れるたびに、白銀の甲冑が不気味な影を壁に伸ばすだけ。
その表面に付着した、不自然な「茶色の泥」が灯火に照らされる。 顔から、血の気が引く。 確かめなければならない。けれど、触れてはならない――本能が、そう叫んでいる。 だが、祈るような手つきで、ゆっくりと指先を伸ばした。 その指が、鉄の冷たさに触れた、その瞬間。
カラン、と。 あまりにも軽い音がして、甲冑が呆気なく崩れ落ちた。
中身は、空だった。 肉も、骨も、血の一滴すらも残っていない。 ただ、甲冑の裏側にべったりと塗りたくられた茶色の泥。 そして、内側からむしり取ろうとしたかのような、小さく、鋭い「爪の痕」だけが、無数に刻まれていた。
「ギチ……ギチチッ……」
闇の奥から、湿った咀嚼音が響いた。 掲げた灯火が、備蓄庫の隅を照らし出す。
そこにいたのは、子供ほどもあろうかという小さな影。 茶色の肌に、つぶれた鼻。とがった耳を不快に震わせ、その生き物は「正しく配列された」騎士たちの遺品の山の上に座っていた。 その大きな口には、今しがたまで「何か」を噛み砕いていたような、小さく鋭い牙が覗いている。
「……何なの、この……正しくない生き物は……」
ドラクロワが細剣を引き抜こうとした、その一動。それが合図であったかのように、二人が立っていた備蓄庫の床が、耐えきれぬ悲鳴を上げて崩落した。
「――きゃあああっ!?」
重力を失う浮遊感。王女は無我夢中で、隣にいた身体を抱き寄せる。 落下した先は、冷たい石の上ではない。 生温かい泥と、鼻を突く獣臭が立ち込める狭い横穴――矮小な「それら」が何年もかけて、城の土台を食い破るように掘り進めてきた、悍ましい獣道の合流地点だった。
「痛っ……、あ、ああ……わたくしの、ドレスが……」
豪華な絹のドレスは一瞬で泥にまみれ、庇って着地した膝からは、紅玉の血が滲む。 だが、痛みに浸る時間は一秒も与えられなかった。
カサカサカサカサッ……!!
背後の闇から、無数の「小さな足音」が津波のように押し寄せてくる。
「……ルルナ、わたくしの背中から、離れないで」
王女の気高さは今、生き延びるための泥臭い執念へと変わる。 豪華なドレスの裾を自ら踏み千切り、泥濘の穴へと身を投げ出した。




