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汚されなかった花を、僕はまだ知らない  作者: Aro Aiura


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2/16

誰とも重ならない場所で

僕、レオンハルト・フォン・ヴァルツァーは、代々医師を継ぐ家系に生まれた。

白い石造りの屋敷には、いつも薬草の香りが漂っていた。


祖父も、父も、王都で名を知られた名医であり、僕も幼いころから“次代を担う存在”として扱われていた。

文字を覚えるより先に、人体図を見せられ、薬草の名前を暗唱させられる日々。読み書きや算術はもちろん、貴族としての礼儀作法や語学、医療理論まで、学ぶことは山ほどあった。


遊ぶ時間がまったくなかったわけではない。

だが、友人と無邪気に駆け回るよりも、分厚い本と向き合う時間の方が圧倒的に長かった。


それでも、不満に思うことはなかった。


病に立ち向かう父の背中。

患者の手を握り、穏やかに声をかける母の姿。

苦しそうだった人々が、笑顔で帰っていく光景。


「人を救う」という仕事の尊さを、僕は幼いながらに理解していた。


だから、自分もそうありたいと思った。

学ぶことは苦ではなく、むしろ誇りだった。


――ただ、それとは別に。


ときどき、胸の奥に小さな寂しさが芽生えることがあった。


同年代の貴族子弟と顔を合わせる機会は、決して少なくはない。

とくに侯爵家の令息たちとは、茶会や集まりで言葉を交わすこともあった。


ある日、庭園の東屋で、僕は数人の侯爵家令息たちと並んで腰掛けていた。

紅茶の湯気が、午後の光に溶けていく。


「そういえばさ、昨日うちの婚約者と街へ出たんだ。」


明るい声を上げたのは、同い年のノアだった。


「新しいドレスを仕立てたいって言われてさ。付き合わされたよ。」


「女の子のドレスって、デザインが多いから大変だよね。

でも、嬉しそうじゃないか。」


一つ上のキースにもその経験があるのか、ノアの話題に共感する。

二人は隣接する領地のご令息で、幼いころからの顔なじみだ。


「まぁね。正直喜んでもらえて、ほっとした。」


自然と笑いが起こる。


「うちも似たようなものかな。最近はダンスの練習ばかり付き合わされてるよ。」


キースからだされた話題も、婚約者に関するものだ。


「わかる。踏まれるたびに謝られると、逆に申し訳なくなるよな。」


次々と、婚約者との微笑ましいエピソードが飛び交った。


僕は、静かに紅茶を口に運びながら、微笑んで相槌を打つ。


「それは、仲が良い証拠ですね。」

「楽しそうですね。」


言葉は自然に出る。

だが、自分の中に“同じ体験”はない。


――婚約者と街を歩いたことも、踊った記憶もない。


話題はやがて、別の方向へ移った。


「そうだ、聞いてくれよ!この前、王太子殿下が視察でうちの別邸に立ち寄られたらしい。」


「え、本当か!? 王太子殿下って、あの剣術大会で優勝された?」


「そうそう! 実際にお会いしたら、想像以上に気さくな方で驚いたよ。」


「いいなあ……一度でいいから、直接お話ししてみたいものだ。」


次々と他の令息から、新たな話題が出され、皆が興奮気味に身を乗り出す。


「殿下は何を召し上がったとか?」

「護衛の人数は?」

「噂どおり背が高かった?」


質問が飛び交い、どんどん盛り上がっていく。


僕は、少しだけ言葉に詰まった。


王太子の名前はもちろん知っている。

だが、実際に会ったことはない。

視察の話も、詳しい事情は知らない。


(……ここも、僕の知らない世界だ。)


話に割り込めないまま、再び微笑みを浮かべる。


「すごいですね。」

「それは貴重な経験ですね。」


当たり障りのない言葉しか、出てこなかった。


彼らは悪くない。

むしろ、親切で、気さくで、話していて楽しい人たちだ。


それでも――


会話の中心にあるのは、“それぞれの婚約者との体験“や“社交界の有名人の話題”だった。


自分には、そこに語れるものがない。


ふと、胸の奥に小さな空白が広がる。


(……みんなが楽しんでるのに、どうしても心が動かない。)


孤独ではない。

だが、完全に馴染んでもいない。

相槌を打ちながら笑顔を浮かべていても、心のどこかに、取り残されている感覚だけが残った。


(……僕の知らないことばかりだ。)


この友人関係を維持するために、その場を取り繕い続けることももちろんできた。

けれど、それは自分らしくない気がした。

最低限の交流こそするものの、深く友情を築けるような相手はいない。


次第に僕は、家族と過ごす時間や、医学の勉強に安らぎを感じるようになった。


本の中には、まだまだ知らないことが山ほどある。

医学をのめり込むほど技術は身に付き、僕を必要としてくれる人々がいるし、何よりやりがいを感じられた。


――それは、とても心地よかった。


けれど、本音を言えば――。


家族以外にも、自分と自然に言葉を交わせる存在がほしい。

共通の話題を言い合って、知識だけでなく、感情も分かち合える誰か。


そんな願いを、胸の奥にそっとしまっていた。


幼いころ、ほんの一度だけ会った“婚約者”のことを思い出すことがある。


柔らかいぬくもり。

小さな手。

はっきりとは覚えていないが、不思議と嫌な記憶ではなかった。


(もし……そんな子が、僕の婚約者だったら。)


そうだったらいい。

そうだったら、きっと嬉しい。


まだ顔も知らない相手に、淡い期待を抱く自分を、少しだけ可笑しく思いながら。


僕は今日も、静かな部屋で本を開く。


いつか再開する“婚約者”を、心のどこかで待ちながら。

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