誰とも重ならない場所で
僕、レオンハルト・フォン・ヴァルツァーは、代々医師を継ぐ家系に生まれた。
白い石造りの屋敷には、いつも薬草の香りが漂っていた。
祖父も、父も、王都で名を知られた名医であり、僕も幼いころから“次代を担う存在”として扱われていた。
文字を覚えるより先に、人体図を見せられ、薬草の名前を暗唱させられる日々。読み書きや算術はもちろん、貴族としての礼儀作法や語学、医療理論まで、学ぶことは山ほどあった。
遊ぶ時間がまったくなかったわけではない。
だが、友人と無邪気に駆け回るよりも、分厚い本と向き合う時間の方が圧倒的に長かった。
それでも、不満に思うことはなかった。
病に立ち向かう父の背中。
患者の手を握り、穏やかに声をかける母の姿。
苦しそうだった人々が、笑顔で帰っていく光景。
「人を救う」という仕事の尊さを、僕は幼いながらに理解していた。
だから、自分もそうありたいと思った。
学ぶことは苦ではなく、むしろ誇りだった。
――ただ、それとは別に。
ときどき、胸の奥に小さな寂しさが芽生えることがあった。
同年代の貴族子弟と顔を合わせる機会は、決して少なくはない。
とくに侯爵家の令息たちとは、茶会や集まりで言葉を交わすこともあった。
ある日、庭園の東屋で、僕は数人の侯爵家令息たちと並んで腰掛けていた。
紅茶の湯気が、午後の光に溶けていく。
「そういえばさ、昨日うちの婚約者と街へ出たんだ。」
明るい声を上げたのは、同い年のノアだった。
「新しいドレスを仕立てたいって言われてさ。付き合わされたよ。」
「女の子のドレスって、デザインが多いから大変だよね。
でも、嬉しそうじゃないか。」
一つ上のキースにもその経験があるのか、ノアの話題に共感する。
二人は隣接する領地のご令息で、幼いころからの顔なじみだ。
「まぁね。正直喜んでもらえて、ほっとした。」
自然と笑いが起こる。
「うちも似たようなものかな。最近はダンスの練習ばかり付き合わされてるよ。」
キースからだされた話題も、婚約者に関するものだ。
「わかる。踏まれるたびに謝られると、逆に申し訳なくなるよな。」
次々と、婚約者との微笑ましいエピソードが飛び交った。
僕は、静かに紅茶を口に運びながら、微笑んで相槌を打つ。
「それは、仲が良い証拠ですね。」
「楽しそうですね。」
言葉は自然に出る。
だが、自分の中に“同じ体験”はない。
――婚約者と街を歩いたことも、踊った記憶もない。
話題はやがて、別の方向へ移った。
「そうだ、聞いてくれよ!この前、王太子殿下が視察でうちの別邸に立ち寄られたらしい。」
「え、本当か!? 王太子殿下って、あの剣術大会で優勝された?」
「そうそう! 実際にお会いしたら、想像以上に気さくな方で驚いたよ。」
「いいなあ……一度でいいから、直接お話ししてみたいものだ。」
次々と他の令息から、新たな話題が出され、皆が興奮気味に身を乗り出す。
「殿下は何を召し上がったとか?」
「護衛の人数は?」
「噂どおり背が高かった?」
質問が飛び交い、どんどん盛り上がっていく。
僕は、少しだけ言葉に詰まった。
王太子の名前はもちろん知っている。
だが、実際に会ったことはない。
視察の話も、詳しい事情は知らない。
(……ここも、僕の知らない世界だ。)
話に割り込めないまま、再び微笑みを浮かべる。
「すごいですね。」
「それは貴重な経験ですね。」
当たり障りのない言葉しか、出てこなかった。
彼らは悪くない。
むしろ、親切で、気さくで、話していて楽しい人たちだ。
それでも――
会話の中心にあるのは、“それぞれの婚約者との体験“や“社交界の有名人の話題”だった。
自分には、そこに語れるものがない。
ふと、胸の奥に小さな空白が広がる。
(……みんなが楽しんでるのに、どうしても心が動かない。)
孤独ではない。
だが、完全に馴染んでもいない。
相槌を打ちながら笑顔を浮かべていても、心のどこかに、取り残されている感覚だけが残った。
(……僕の知らないことばかりだ。)
この友人関係を維持するために、その場を取り繕い続けることももちろんできた。
けれど、それは自分らしくない気がした。
最低限の交流こそするものの、深く友情を築けるような相手はいない。
次第に僕は、家族と過ごす時間や、医学の勉強に安らぎを感じるようになった。
本の中には、まだまだ知らないことが山ほどある。
医学をのめり込むほど技術は身に付き、僕を必要としてくれる人々がいるし、何よりやりがいを感じられた。
――それは、とても心地よかった。
けれど、本音を言えば――。
家族以外にも、自分と自然に言葉を交わせる存在がほしい。
共通の話題を言い合って、知識だけでなく、感情も分かち合える誰か。
そんな願いを、胸の奥にそっとしまっていた。
幼いころ、ほんの一度だけ会った“婚約者”のことを思い出すことがある。
柔らかいぬくもり。
小さな手。
はっきりとは覚えていないが、不思議と嫌な記憶ではなかった。
(もし……そんな子が、僕の婚約者だったら。)
そうだったらいい。
そうだったら、きっと嬉しい。
まだ顔も知らない相手に、淡い期待を抱く自分を、少しだけ可笑しく思いながら。
僕は今日も、静かな部屋で本を開く。
いつか再開する“婚約者”を、心のどこかで待ちながら。




