最初から、君だけだった
ヴァルツァー侯爵邸の門が見えた瞬間、彼女は小さく息をのんだ。
「……戻ってきましたね。」
「はい。お疲れさまでした、アリア。」
馬車を降りると、僕は自然に彼女の手を取った。
エスコートするのが、もう当たり前になっている。
屋敷の前では、父と母が並んで待っていた。
「おかえり、レオン。」
「まぁ……その様子なら、うまくいったようね。」
母はにこにこと目を細め、父は満足そうに腕を組む。
「ええ。無事、視察は完了しましたよ。」
僕は意地の悪い言葉で返す。
ついでに、アリアの手を少し強く握った。
慣れない彼女は、顔を真っ赤に染める。
でも、何かに気づいたのか、あたりをきょろきょろと見渡す。
「……あの、おじ様、おば様。」
彼女が遠慮がちに口を開く。
「妹は……一緒ではないのですか?」
その問いに、母が一瞬だけ目を瞬かせたあと、優しく微笑んだ。
「ええ、あの子なら、もう実家に戻ったわよ。」
「え……?」
「あなたが視察に出た日にね。」
彼女は言葉を失ったまま、呆然と立ち尽くした。
「……そ、そうなんですね……。」
僕はそっと彼女の背中に手を添える。
「驚きましたか?」
「はい……。急すぎて……。」
そのまま屋敷の中へ案内されると、さらに彼女は目を丸くした。
「……あれ?」
案内された部屋は、以前使っていた客間ではなかった。
僕の私室の、すぐ隣の部屋。
「こ、ここは……?」
「今日から、こちらのお部屋になります。」
使用人がにこやかに告げる。
「若奥様。」
「……っ!?」
アリアの顔が一瞬で真っ赤になる。
「わ、若奥様って……!」
「もう婚約者なのですから、当然ですよ。」
「と、当然って……!」
さらに、晩餐の準備のためだと言って、次々と侍女に囲まれていく。
「髪はこちらで整えますね。」
「ドレスはこの色がお似合いですわ。」
「お疲れでしょうから、香りは控えめに。」
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
助けを求めるような視線を向けられたが、僕はにこりと微笑んで手を振った。
「観念してください、アリア。」
「レオンハルト様……!」
その夜。
エリシア嬢のいない、家族水入らずの晩餐の席だった。
「さて……今日は、ゆっくりお話しましょうか。」
母が意味ありげに微笑む。
「実はね、アリア。」
「は、はい……。」
「あなたがお茶会を抜けた後、どうなったのか知らないでしょう?
実はエリシア嬢だけのときは、レオンも毎回すぐ退席していたのよ?」
「え……?」
アリアが驚いて僕を見る。
僕は飲んでたお茶を吹き出しそうになるのを耐える。
「えっ……そうだったんですか?」
「いっ、今そんな話しなくても……!」
僕はあわてて、会話を中断しようとする。
「それにな。」
今度は父が咳払いをした。
「君が私の執務を手伝うことになったのも、レオンの進言だった。」
「ええっ!?」
「なっ……!」
「侯爵家の人として扱ってほしいって、随分熱心でね。」
「そ、それは……知りませんでした……。」
母はくすくす笑う。
「社交界デビューの日なんて、もう大騒ぎだったのよ。」
「『今日こそ会えるんだ』って、朝からそわそわして。」
「母上!」
「絵姿を見たときは、一目惚れだったな。」
「父上!!」
アリアは完全に顔を覆ってしまった。
「そ、そうだったんですね……。」
「おや、二人とも食事がとまってるぞ?」
父が楽しそうに笑う。
「誰のせいだと……。」
「うぅ……。」
僕も正直、恥ずかしかった。
もう両親にからかわれることはないと、油断していた。
気持ち的には今すぐにでもとびかかり、あの口を塞ぎたい。
「だから。」
母はふっと表情を和らげる。
「二人がこうして結ばれて、本当に嬉しいのよ。」
父も深く頷いた。
「よく頑張ったな、レオン。」
「そして……アリア、よろしく頼む。」
「……はい。」
アリアは、少し涙ぐみながら微笑んだ。
食事のあと、僕は彼女の手を取った。
「少し、庭園を歩きませんか?」
「はい……。」
夜風が心地よく、星が綺麗だった。
「……疲れてますよね。申し訳ありません。」
「い、いえ……誘ってもらえて嬉しいです。」
「それと……さっきの両親の件も。」
「…………正直、驚きましたけど……すごく、嬉しかったです。」
彼女は胸の前で手を組み、照れたように微笑んだ。
「私……そんなふうに想われていたなんて……。」
僕は足を止め、彼女の前に立った。
「アリア。」
「はい……?」
「こちらに……。」
庭園の中には、キレイな噴水があり、その周りを美しい花々が覆っている。
今はすっかり日も落ち、月明かりに照らされて、とても綺麗だった。
「あの社交界デビューの日を思い出します。
あなたは失敗したとおっしゃっていましたが……。」
彼女が少し俯く。
そんな彼女と視線が合うよう、膝をついて見上げる。
「あの日から、僕はあなたに一目ぼれをしていたと言ったら信じてくれますか?」
「えっ?」
風が吹いて、彼女の髪がなびいた。
あの時と一緒だ。
風で花が舞い、彼女だけが鮮明に映る。
僕は懐からあるものを取り出した。
「最初から、僕の婚約者は……あなた一人でした。」
静かに、はっきりと伝える。
そして――
僕はゆっくりと彼女の手を取り、小さな箱を開く。
「改めて、伝えさせてください。」
指輪が月明かりを受けて、神秘的に輝いた。
「アリア・フォン・グレインフィール。」
「僕と結婚してください。」
「……っ……。」
アリアは顔を手で覆った。
その目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「……はい……っ。」
「……ずっと、あなたのそばにいたかったんです……。」
僕は立ち上がり、彼女を強く抱きしめた。
「ありがとうございます……。
一生大切にします。」
唇がそっと重なる。
僕らは体をぴったりとくっつけ、強く抱き合い、この幸せをかみしめていた。
あの日と同じように僕のコートを彼女にかぶせて、お互いほほ笑みあう。
初めて会った日は何を話したらいいのかとあれこれ悩んだが、今は話したいことが山ほどある。
僕らは、そのまま近くのベンチに腰掛け、気づけば何時間も話し込んでいた。
「子供のころはですね……」
「そんなことがあったんですか?」
「レオンハルト様は……?」
今まで話せなかった分、言葉が尽きない。
今回の視察の話や医学の話、お互い知り合ってからどうしていたかなど。
「おーい!」
突然声が聞こえ、父が手招きをする。
その横で母が嬉しそうに微笑む。
結局、両親に見つかってしまい――
「まだ話していたのか。」
「いいじゃない。よかったら、みんなでお茶にしましょう。」
四人で夜のお茶会をすることになった。
(……これが、ずっと夢見ていた時間なんだ。)
遠くで両親とお茶を飲む彼女。
僕には見せない満面の笑みで、すごく楽しそうだった。
その中に自分が入れないのが、いつも悔しかった。
でも、今は彼女の笑顔の隣に、自分がいる。
それだけで、胸が満たされていく。
それからの日々は、驚くほど忙しく、そして幸せだった。
「この症例、面白いですね。」
「次はこの地域の衛生改革を――」
共に学び、共に働き、共に笑う。
「次は診療所の設計も一緒に考えましょうか。」
「ええ、楽しみです。」
孤独だった僕の心を、埋めてくれたのは――間違いなく、彼女だった。
「アリア……ずっと、一緒にいましょうね。」
「はい!」
その未来が、こんなにも温かいものだなんて、昔の僕は知らなかった。
でも今は、胸を張って言える。
――この幸せを、彼女と、ずっと。




